163・宮本武蔵「風の巻」「枯野見(9)(10)」


朗読「163風の巻5.mp3」10 MB、長さ: 約 10分 52秒

 大風おおかぜいてったように、並木なみきみちにはもう弥次馬やじうまかげえない。
 清十郎せいじゅうろううめきをせた戸板といた一群ひとむれは、敗旗はいきいて故山こざんかえるつかれた兵馬へいばのように、悄然しょうぜんと、怪我人けがにん苦痛くつうづかうようなあしなみであるいてた。
「……おや?」
 ふとあしめると、戸板といたささえてゆくまえものが、自分じぶんえりくびへをやった。あとものは、そらあおいだ。
 戸板といたうえへも、ハラハラとまつがこぼれてたのである。ると、並木なみきのこずえに、一匹いっぴき小猿こざるが、キョトンとしたしたけ、わざとのように、尾籠びろう姿態したいしめしている。
「アいたッ」
 仰向あおむいたかおひとつへ、まつんでたのである。かおおさえて、
「ちくしょうッ」
 そのおとこが、小柄こづかげた。小柄こづかは、こまやかな隙間すきまひかってとおりぬけた。
 口笛くちぶえがどこかでった。
 小猿こざるは、とんぼをって、並木なみき樹蔭こかげりた。そして、そこにたたずんでいた佐々木小次郎ささきこじろうむねからかたうえへ、ヒョイとる。
「……オ!」
 戸板といたをかこんでいる吉岡門下よしおかもんかひとたちは、はじめて、小次郎こじろう姿すがたと、もう一人ひとり朱実あけみをそこに見出みいだしたもののように、ギクと、ひかりあらためた。
「…………」
 担架たんかのうえによこたわっている怪我人けがにんをじっとていたが、小次郎こじろうけっして、それへむかって嘲笑ちょうしょうらしいものはうかべてはいなかった。むしろ、敬虔けいけん様子ようすしめして、敗者はいしゃいたましいうめきにまゆをひそめたほどであったが、吉岡門下よしおかもんかひとたちは、さっきのかれのことばをすぐおもして、
わらいにたな)
 と、かんじたらしいのである。
 植田良平うえだりょうへいだれかが、
「――さるだッ、人間にんげんでないやつ仕業しわざだ、相手あいてにするな、はやくやれ」
 戸板といたうながすと、
「しばらく」
 してたかとおもうと、小次郎こじろうはいきなり戸板といたうえ清十郎せいじゅうろうむかって、はなしかけた。
「――どうしたッ、清十郎殿せいじゅうろうどの、――武蔵むさしめにやられましたな。――ちどころはどこ? なにみぎかたか……アアいかん、ふくろ砂利じゃりれたようにほね微塵みじんだ。だが、仰向あおむいてられてってはよくないぞ、からだ内部ないぶにあふれているが、臓器ぞうきおか頭脳あたまへも逆上あがってしまうかもれん」
 まわりのものむかって、かれは、れい高飛車たかびしゃ態度たいどでいいつけた。
「――戸板といたろしなさい。なにを、ためらっているのか。ろせ、いいからろしたまえ」
 そしてまた、瀕死ひんしていになっている清十郎せいじゅうろうへ、
清十郎殿せいじゅうろうどのってはどうだ。てぬことがあるものか。傷手いたでかるい、多寡たか右手一本みぎていっぽんではないか。ひだりって、あるけばあるけるにちがいない。拳法先生けんぽうせんせい子清十郎こせいじゅうろうともあるものが、京都きょうと大路おおじを、戸板といたもどったといわれては、あなたはとにかく、先生せんせいちる。これ以上いじょう不孝ふこうはありますまい」
 そういう小次郎こじろうかおを、清十郎せいじゅうろうはじいっとつめていた。ばたきをしないしろであった。
 ふいに、がばっと、清十郎せいじゅうろうがった。ひだりくらべて、みぎ一尺いっしゃくながいようにぶらんと他人たにんものみたいにかれかたからぶらがっていた。
御池みいけ御池みいけ
「は……」
れ」
「な、なにをですか」
「ばか、さっきからいっているではないか、わしの右手みぎてをだ」
「……でも」
「ええ、意気地いくじのない……。植田うえだっ、おまえやれ、はやくせい」
「ハ。……ハ」
 すると、小次郎こじろうがいった。
わたしでよければ」
「オ、たのむ」
 小次郎こじろうそばった。清十郎せいじゅうろうのぶらんとしているさきをつまんでぐっとげ、同時どうじに、前差まえざしみじかかたないていた。なにかとあやしまれるようなおとが、どすっとまわりのものみみにひびいたとおもうと、せんいたようなしおとともに、うでからちていた。

 からだ重心じゅうしんうしないかけたように、清十郎せいじゅうろうすこしよろめいた。弟子達でしたちはそれをささえながら、傷口きずぐちおさった。
あるく。おれは、あるいてかえるっ」
 死人しにんがものをさけんでいるような清十郎せいじゅうろうかおつきであった。
 弟子でしたちにかこまれたまま、かれ十歩じゅっぽほどあるいた。ポトポトと、そのあとにはくろ大地だいちわれていた。
「……先生せんせい
「……若先生わかせんせい
 門下もんか人々ひとびとは、おけのように清十郎せいじゅうろうかこんでまった。そして気遣きづかわしげに、
戸板といたいそいだほうが、はるかに、おらくであったろうに、小次郎こじろうめが、出洒張でしゃばって、いらざる真似まねを」
 と、かれ無責任むせきにん仕方しかたを、ことばのうちにみないきどおっていた。
「あるく!」
 一息ひといきつくと、清十郎せいじゅうろうはまた二十歩にじゅっぽほどあるいた。あしあるくのではない、意地いじあるいてゆくのである。
 しかし、その意力いりょくは、ながくはたなかった。およそ半町はんちょうほどくと、ばたっと、門人達もんじんたちたおれてしまった。
「それ、はやく医者いしゃを」
 狼狽ろうばいした人々ひとびとは、もうこばちからのない清十郎せいじゅうろうを、死体したいあつかうようにになってわらわらった。
 それを、見送みおくってしまうと、小次郎こじろうは、並木なみきしたにじっとっている朱実あけみのすがたをりかえって、
ていたか、朱実あけみ。――おまえにすれば、いい気味きみだったろうが」と、いった。
 朱実あけみは、あおざめた面持おももちをして、そういう小次郎こじろう平気へいきわらがおを、にくむかのようにしろつめた。
「おまえがいつも、くちぐせのように、てもさめてものろっていた清十郎せいじゅうろうだ。さだめし、むねがすっといたろう。……え、朱実あけみ、おまえのうばわれた処女おとめのみさおは、あれで、見事みごと報復ほうふくされたというものじゃないか」
「…………」
 朱実あけみは、小次郎こじろうという人間にんげんが、とたんに、清十郎以上せいじゅうろういじょうのろわしい、おそろしい、いや人間にんげんおもわれてきた。
 清十郎せいじゅうろう自分じぶんをこうさせた、けれど清十郎せいじゅうろう悪人あくにんではない、悪人あくにんという程腹ほどはらくろひとではない。
 それからくらべると、小次郎こじろう悪人あくにんだ、世間せけん定義ていぎされているような悪人型あくにんがたではないが、ひと幸福こうふくよろこばないで、ひとわざわいやくるしみを傍観ぼうかんして、自分じぶん快楽けらくきょうする変質人へんしつじんである、そういうものは、盗賊とうぞくをするとか、横領おうりょうするとかいうかたごと悪人あくにんよりは、もっとたちのわるい、油断ゆだんのできない悪人あくにんというものではないだろうか。
かえろう」
 小猿こざるかたにのせて、小次郎こじろうはいいだした。朱実あけみは、このおとこそばからげたいとおもった。――しかし、みょうげきれないものをかんじて、その勇気ゆうきないのである。
「……武蔵むさしさがしてみたって、もう無駄むだだ。いつまで、このあたりにうろついているはずはない」
 ひとりごとをいいながら、小次郎こじろうさきあるいてゆくのである。
(なぜ、この悪党あくとうのそばを、はなれられないのか、このすきに、げてしまわないのか)
 と、朱実あけみ自分じぶんおろかさをいかりながら、やはりそのあといて、あるかずにいられなかった。
 小次郎こじろうかたまっている小猿こざるが、そのかたうえからうしきになって、キキと、しろいて彼女かのじょわらいかけてくる。
「…………」
 朱実あけみは、小猿こざるおな運命うんめいもの自分じぶんであるとおもった。
 そしてこころのうちで、ふと、あんな無慙むざんなすがたになった清十郎せいじゅうろう可哀かわいそうにおもわれてきた。――武蔵むさしというものはまた、べつなものとして、彼女かのじょは、清十郎せいじゅうろうにも、小次郎こじろうにも、各々おのおのちがった愛憎あいぞうをもって、男性だんせいというものを、このころは、複雑ふくざつかんがえはじめてた。