161・宮本武蔵「風の巻」「枯野見(5)(6)」


朗読「161風の巻3.mp3」10 MB、長さ: 約 10分 42秒

 そこで、佐々木小次郎ささきこじろうが、一同いちどうむかって、演舌えんぜつしていうことには、
「まだここへ、武蔵むさし清十郎せいじゅうろうないというのは、吉岡家よしおかけ天佑てんゆうですぞ。諸氏しょしはよろしく、わけをして、清十郎せいじゅうろうどのがここへぬうち、はやく途中とちゅうから道場どうじょうれておかえりなされ」
 それだけでも、吉岡方よしおかがたひとたちを激昂げっこうさせるに十分じゅうぶんであるのに、そのうえにまた、
「わしのこの言葉ことばは、清十郎せいじゅうろうどのへたいして、無二むに助太刀すけだちでござりますぞ。この言葉以上ことばいじょう助太刀すけだちがどこにあろう。わしは、吉岡家よしおかけにとって、天来てんらい予言者よげんしゃだ。はっきりと、予言よげんしておく。――やれば、清十郎せいじゅうろうどのは、どくだがきっとける。武蔵むさしというもののために、きっと生命いのちをとられる」
 かりそめにも吉岡門よしおかもん人間にんげんとして、これが、いいかおをしていていられるはずはない。植田良平うえだりょうへいごときは、土気つちけいろになって、小次郎こじろうをねめつけていた。
 十剣じゅっけんなか御池十郎左衛門みいけじゅうろうざえもんは、我慢がまんがならなくなったのであろう、小次郎こじろうがまだなにかいおうとする胸元むなもとへ、ぐっと自分じぶんむねせてって、
「なにをいうのか、貴様きさまは」
 右手みぎてひじを、かおかおのあいだへあげたのは、いうまでもなく、居合いあいがまえで、手練てれんいっさつせようかという意思いし表示ひょうじである。
 ニコと、小次郎こじろう笑靨えくぼをこしらえてそれをながめた。ずんと上背丈うわぜいがあるので、笑靨えくぼまでが高慢こうまんひと見下みさげてえるのだった。
「おにさわったか」
「あたりまえだ」
「それは失礼しつれい
 かるくかわして――
「では、助太刀すけだちはしないことにしよう。ままになされというほかはない」
「た、たれが、なんじごときに、助太刀すけだちたのもうや」
「そうでもありますまい。毛馬堤けまづつみからわしを四条しじょう道場どうじょうむかえてゆき、あんなに、わしの機嫌きげんをとったではないか。其許そこもとたちも、清十郎せいじゅうろうどのも」
「それは、ただきゃくとして、れいあたえたまでのこと。……おもがったやつだ」
「ハハハハ、よそう、ここでまた、其許そこもとたちと、試合しあいをこしらえてもはじまるまい。だが、わしの予言よげんを、あとになって、なみだいのたねになすまいぞ。――わしがをもってくらべたところでは、清十郎殿せいじゅうろうどのには九分九厘くぶくりんまで勝目かつめがない。この正月しょうがつ一日ついたちあさ五条大橋ごじょうおおはしらん武蔵むさしというおとこかけ、その途端とたんにこれはいけないとおもったのだ。……あのはしのたもとへ貴公きこうたちのかかげた試合しあい高札こうさつ吉岡家よしおかけ衰亡すいぼう自分じぶんいている忌中札きちゅうふだのようにわたしにはえたのだ。……だが、人間にんげん衰凋すいちょうは、その人間にんげんにはわからないのがつねかもしれん」
「だ、だまれッ、貴様きさまは、きょうの試合しあいたいして、吉岡家よしおかけへ、ケチをつけにたのだな」
ひと好意こういすら、素直すなおれなくなるということが、そもそも、衰運すいうん人間にんげんのもつ根性こんじょうだ。なんとでもおもうがよい。明日あしたとはいわない。もうやがて一刻いっこくあとには、そのがいやでもめずにいまい」
「いったな!」
 険悪けんあくきわまるこえが、つばとともに、小次郎こじろうびせかけられた。いかりきった四十名よんじゅうめいからの人数にんずうが、一歩いっぽずつうごいても、その殺気さっきは、くろ野原のはらをおおうほどなものがある。
 だが、小次郎こじろう心得こころえたものなのである。いちはやくびのいて、喧嘩けんかならってもよいという血気けっきかくされなかった。せっかく、かれ自分じぶんいていた好意こういというものも、これではあやしみたくなるようなものである。わるく解釈かいしゃくすれば、ここにあつまった群衆心理ぐんしゅうしんり利用りようして、武蔵むさし清十郎せいじゅうろうとの試合しあい人気にんきを、自分じぶんさらってしまうつもりでやっている仕事しごとではないかとられても仕方しかたがないほどにまで、小次郎こじろうは、途端とたんに、好戦的こうせんてきであった。

 群衆ぐんしゅうとおくからその様子ようすをながめて、どよめきしたところであった。
 その人混ひとごみをきぬいて、一匹いっぴき小猿こざるが、はらむかって、まるでまりでもころがすようにんでった。
 小猿こざるまえには、わかおんなが、これもまた、ころばんばかりのはやさで、見得みえもなく、けてくのがえる。
 朱実あけみであった。
 吉岡門下よしおかもんか人々ひとびとと、小次郎こじろうとのあいだに、すんでのこと、でもるかとおもわれた険悪けんあく空気くうきは、その朱実あけみが、ふいにうしろからさけんだ言葉ことばされた。
小次郎様こじろうさま小次郎様こじろうさまッ。……どこですか、武蔵様むさしさまのいるところは。……武蔵様むさしさまはいませんか」
「……あ?」
 小次郎こじろう振向ふりむく。
 吉岡方よしおかがたの、植田良平うえだりょうへいや、ほか人々ひとびとも、
「ヤ、朱実あけみじゃないか」
 と、つぶやいて、一瞬いっしゅんではあったが、すべてのもの怪訝いぶかりとが、彼女かのじょ小猿こざる姿すがたにとらわれてしまった。
 小次郎こじろうしかるように、
朱実あけみ、なんでおまえはここへたのか。――てはならんといっておいたはずだ」
「わたしのからだです。てはわるいのですか」
「いけないッ」
 朱実あけみかたをかるくいて、
かえれ」
 小次郎こじろうのいう言葉ことばを、彼女かのじょいきりながらはげしくかおよこってこばんだ。
「いやです。――わたし貴方あなたのお世話せわにはなりましたが、貴方あなたおんなではないでしょう。……それを」
 きゅうに、朱実あけみは、こえをつまらせてげた。あわれっぽい嗚咽おえつに、おとこたちのすさびていた感情かんじょうみずをかけられたようながしたとおもうと、その気持きもち裏切うらぎって、朱実あけみつぎのことばは、男性だんせいのどんな場合ばあいのものよりもつよ血相けっそうをふくんでいた。
「それを、なんですか、あなたはわたし数珠屋ずずや二階にかいしばりつけたりなどしてッ。――わたしが、武蔵様むさしさまのことを心配しんぱいすると、あなたは、わたしをにくいようにいじめてたではありませんか。……そのうえ……そのうえ……きょうの試合しあいには、きっと、武蔵むさしたれるだろう、わしも、吉岡清十郎よしおかせいじゅうろうには義理ぎりがあるから、よしや清十郎せいじゅうろうおよばなくても、助太刀すけだちして、武蔵むさしってしまわなければならぬ。……そういって、ゆうべからあかしていたわたしを、数珠屋ずずや二階にかいしばりつけて、あなたは今朝けさったのではありませんか」
「……正気しょうきうしなったか、朱実あけみ大勢おおぜい人中ひとなかだぞ、青空あおぞらしただぞ、なにをいうのか」
「いいます。正気しょうきうしないましょう、武蔵様むさしさまは、わたしのこころなかひとです。……そのひとが、なぶりごろしになるかとおもえば、じっとしてはいられません。数珠屋ずずや二階にかいから、おおきなこえして、近所きんじょひとてもらい、わたしのからだいましめをいてもらってけつけてたのです。わたしは、武蔵様むさしさまわなければならない。……武蔵様むさしさましてください。武蔵様むさしさまはどこにいますか」
「…………」
 小次郎こじろうは、したうちをして、彼女かのじょすさまじい饒舌じょうぜつまえだまってしまった。
 逆上ぎゃくじょうしていることはたしかだが、朱実あけみ口走くちばしっていることにうそはないらしい。それがうそでないとすると、小次郎こじろうというおとこは、この女性じょせいあたたかい世話せわをかけながら、半面はんめんにはまた、この女性じょせいこころからだとを極端きょくたん虐待ぎゃくたいしてたのしんでいるのではないかとうたがわれる。
 それを、人前ひとまえで――しかもこうした場所ばしょで――忌憚きたんなくおんなくちからあばかれたのでは、小次郎こじろうも、わるいことはもちろんだし、むかむかとはらって、おんなかおをじっとめすえていた。
 ――すると。
 いつも清十郎せいじゅうろうともについてある奉公人ほうこうにんで、若党わかとう民八たみはちというおとこが、街道かいどう並木なみきからここへ鹿しかのようにはしってて、をあげながら呶鳴どなった。
「た、たいへんだッ、みなさん、て、てくださいッ。――若先生わかせんせいが、武蔵むさしのために、やられました。や、やられました」