15・宮本武蔵「地の巻」「茨(3)(4)」


朗読「地の巻15.mp3」23 MB、長さ: 約9分52秒

 勤行ごんぎょうかねが、いましがたおわった。たび留守るすだった七宝寺しっぽうじ住持じゅうじも、きのうか今日きょうかえってているらしい。
 そとは、はなをつままれてもわからないやみだったが、伽藍がらんのうちには、あかい燈明とうみょう庫裡くりや、方丈ほうじょう短檠たんけいがゆらぐのがのぞかれて、およそそこにする人影ひとかげあわてとれる。
「おつうさん、てくればいいが……」
 武蔵たけぞうは、本堂ほんどう方丈ほうじょうとの通路つうろになっている橋廊架はしろうかしたに、じっとうずくまっていた。夕餉ゆうげものるにおいがなまあたたかくただよってくる、かれは、けむりのしるめし想像そうぞうした、この数日すうじつなま小禽ことりだの、くさなどよりほか、なにはいっていないぶくろは、むねさきであばれて、いたみだした。
「がっ……」
 くちから胃液いえきいて、武蔵たけぞうくるしんだ。
 そのこえがひびいたとみえ、
「なんじゃ」
 方丈ほうじょうで、だれかがいう。
ねこでしょう」
 おつうが、こたえた。そして、夕餉ゆうげぜんげて、武蔵たけぞうのうつしているうえ橋廊架はしろうかをわたってゆくのである。
 ――あっ、おつうさん。
 武蔵たけぞうばわろうとしたが、くるしくてこえなかった。だが、それはかえって僥倖ぎょうこうでもあった。
 すぐ彼女かのじょうしろから、
風呂場ふろばは、どこじゃな」
 といてものがある。
 てら借着かりぎに、細帯ほそおびをしめ、手拭てぬぐいをさげている。ふとあおぐと、武蔵たけぞうにはおぼえのある姫路城ひめじじょう武士さむらいなのだ。部下ぶかむらもの山狩やまがりをさせたり、夜昼よるひるのけじめなく捜索そうさく奔命ほんめいさせたりしておいて、自分じぶんは、れればこのてら宿やどとして、馳走酒ちそうざけにあずかっているという身分みぶんらしい。
「お風呂ふろでございますか」
 おつうは、ものしたにおいて、
「ご案内あんないいたしましょう」
 えんづたいに、うらみちびいてゆくと、鼻下はなしたにうすひげのあるその武士さむらいは、おつうのうしろからいきなりきすくめて、
「どうじゃ、いっしょに入浴はいらないか」
「あれっ……」
 そのかおを、両手りょうておさえつけて、
「えいじゃないか」
 ほおへ、くちびるをすりつけた。
「……いけません! いけません!」
 おつうは、かよわかった。くちをふさがれたのか、悲鳴ひめいないのである。
 ――武蔵たけぞうは、境遇きょうぐうなにかをもわすれて、
なにをするっ!」
 えんうえへ、がった。
 うしろからいたこぶし武士さむらい後頭部こうとうぶった。もなくおつうかかえたまま、相手あいてしたころちている。
 おつうが、たか悲鳴ひめいをあげたのも、その途端とたんであった。
 仰天ぎょうてんした武士さむらいは、
「やっ、おのれは、武蔵たけぞうじゃな。――武蔵たけぞうだっ、武蔵たけぞうてきた。各々おのおのえっ」
 と、わめいた。
 たちまち、寺内じない足音あしおとびあうこえ暴風ぼうふうとなった。武蔵たけぞうのすがたをたらばと、かねて合図あいずしてあったか、鐘楼しょうろうからはごんごんとかねった。
素破すわ
 と、山狩やまがりものは、七宝寺しっぽうじ中心ちゅうしんに、あつまった。ときうつさず裏山うらやまつづき讃甘さぬも山一帯やまいったいをさがしはじめたが、そのころ武蔵たけぞうはどこをどうはしってたか、本位田家ほんいでんけのだだっぴろ土間口どまくちって、
「おばば、おばば」
 と、母屋おもやあかりをのぞいて、おとずれていた。

「たれじゃ」
 紙燭ししょくって、何気なにげなく、おすぎおくからてきた。
 下顎したあごから、さかさに紙燭ししょく明滅めいめつをうけているくぼおおかおが、土気つちけいろにさっとかわった。
「あっ、おぬしは! ……」
「おばば、一言ひとことげにた。……又八またはちいくさんだのじゃない、きている、おんなと、他国たこくくらしている。……それだけだ、おつうさんにも、おばばからつたえておいてくれや」
 そういいおわると、
「ああ、これでがすんだ」
 武蔵たけぞうは、すぐ木剣ぼっけんつえについて、くら戸外おもてへもどりかけた。
武蔵たけぞう
 おすぎびとめた。
れ、これから、何処どこへゆくじゃ?」
「おれか」
 沈痛ちんつうに――
「おれは、これから、日名倉ひなぐら木戸きどをぶちやぶって、姉上あねうえりかえすのだ。そのまま、他国たこくはしるから、おばばとも、もうえん。……ただ、ここの息子むすこを、いくさなして、おれ一人ひとりかえってたのではないということを、このいえものと、おつうさんにげたかったのだ。もう、むらには、未練みれんはない」
「そうか……」
 紙燭ししょくちかえて、おすぎは、手招てまねぎした。
「おぬしは、はらがすいてはおらぬのか」
めしなど、幾日いくにちも、べたことはない」
不愍ふびんな……。ちょうど、あたたかいものがえている。なんぞ、餞別せんべつもしてやりたい。ばばが支度したくするあいだ、でもみていやい」
「…………」
「のう、武蔵たけぞう、おぬしのいえと、わしがいえとは、赤松以来あかまついらいとも旧家きゅうかじゃ、わかれがしい、そうしてかっしゃれ」
「…………」
 武蔵たけぞうは、ひじげて、ぬぐった。ふいにあたたかい人情にんじょうにふれたので、猜疑さいぎ警戒心けいかいしんだけにりつめていたものが、きゅう人間にんげんはだおもいだしたのであった。
「さ……はようらまわれ、ひとたらどうもならぬ。……手拭てぬぐいっていやるか、風呂ふろみているあいだに、そうじゃ、又八またはち肌着はだぎ小袖こそでもある、それをしておいてげよう、めし支度したくもしておこう。……ゆるりと、つかっていたがよい」
 紙燭ししょくをわたして、おすぎおくへかくれた、するとすぐ分家ぶんけよめが、にわから、どこへやらはしってったようであった。
 った風呂小屋ふろごやなかには、おとがして、あかりのかげがゆらいでいる、おすぎ母屋おもやから、
のかげんは、どうじゃな」
 とこえをかけた。
 武蔵たけぞうこえが、風呂場ふろばから、
「いいだよ。……ああかえったようながする」
「ゆるりと、ぬくまっていたがよいぞ、まだ、めしけておらんようじゃ」
「ありがとう。こんなことなら、はやればよかったのだ。おれはまた、おばばが、きっとおれうらんでいるだろうとおもってな……」
 よろこびにあふれたこえが、それからもこえじって二言三言ふたことみことしていたが、おすぎ返辞へんじはしなかった。
 やがて、いきをせいて、分家ぶんけよめもんそとまでもどってた。――うしろに、二十人にじゅうにんほどの武士さむらい山狩やまがりものれている。
 そとていたおすぎは、低声こごえで、その人々ひとびとなにささやいた。
「なに、風呂小屋ふろごやれておいたと? そいつは出来でかした。……よしっ、今夜こんやとらえたぞ」
 武士さむらいたちは人数にんずうをふたけて、大地だいちひきれのようにってゆく。
 風呂口ふろぐちが、やみなかえていた。