158・宮本武蔵「火の巻」「魚紋(6)(7)」


朗読「158火の巻70.mp3」14 MB、長さ: 約 10分 05秒

 おつうは、うたがいぶかく、容易よういちかづいてなかったが、城太郎じょうたろうが、しきりといったのであろう、やがて怖々こわごわ杉隠居すぎいんきょのほうへあるいてた。
 こころのうちで、隠居いんきょは、
(もうこっちのもの)
 と、おもったことであろう。なが前歯まえばくちびるにほころばせて、にたりとわらった。
「おつう
「……おばばさま
 おつうは、河原かわらへかがみんで、老婆としよりあしもとへゆびをついた。
「ゆるしてください……ゆるしてください……もういまとなっては、なにも、いいわけはいたしませぬ」
「なんのいのう」
 お杉隠居すぎいんきょのことばは、むかしのようにやさしくきこえた。
元々もともと又八またはちめがわるいのじゃ。いつまでもそなたの心変こころがわりをうらんでいようぞ。このばばも、一時いちじは、にくよめともおもうたが、もう、こころではみずにながしている」
「では、かんにんしてくださいますか。わたしのわがままを」
「……じゃが」
 隠居いんきょは、ことばをにごして、彼女かのじょとともに、河原かわらへしゃがみんだ。おつうは、川砂かわすなゆびでほじくっていた。つめたいすな表面ひょうめんると、そのあなから、浸々しんしんと、ぬるはるみずいてた。
「そのことは、ははのわしからこたえてもよいがの。ともあれ、又八またはちというものと、いったんは許嫁いいなずけであったそなた、いちど、せがれうておくれぬか。もとより、せがれきで、おぬしをほかの女子おなご見替みかえたことじゃ。いまさら、をもどせともいうまいし、いうたとて、このばばが、そのような得手勝手えてかって承知しょうちすることじゃないほどに」
「……え、え」
「どうじゃ、おつうっておくれるか。そなたと、又八またはちならべておいて、このばばから、きっぱりとせがれにいいわたそうではないか。――さすれば、意見いけんひとつもいうて、このばばの、ははとしての役目やくめもすむ。立場たちばつ」
「はい……」
 きれいな川砂かわすななかから、かにして、はるまぶしげにいしかげへかくれこんだ。
 城太郎じょうたろうは、かにをつまんで、お杉隠居すぎいんきょのうしろへまわり、隠居いんきょちいさいまげのうえにおとした。
「……でも、ばばさまいまとなってはかえって、又八またはちさんにわないほうが」
「わしがそばについてうのじゃ。うて、きっぱりしておいたほうが、そなたの後々のちのちのためにもよかろうが」
「……ですけれど」
「そうしやい。わしは、そなたののちのためもおもうてすすめまする」
「それにしても、又八またはちさんは、いまどこにいるのか、わからないではございませぬか。おばばさまは、居所いどころをごぞんじなのでございますか」
「すぐ……わかる……わかるつもりじゃ。なぜならば、つい先頃さきごろ大坂表おおさかおもてうているのじゃ。また、いつものままがて、わしを振捨ふりすてて住吉すみよしからんでしもうたが、あのも、あとではいて、きっとこの京都きょうとあたりに、ばばのあとうているとおもいまする」
 おつうは、そうくと、きゅうに、不気味ぶきみもちにおそわれた。それだけに、お杉隠居すぎいんきょのすすめることばが、道理どうりのようにおもわれるし、またきゅうに、この息子むすこにめぐまれない老婆としよりに、いとしさがこみあげてて、
「おばばさま、ではわたしもご一緒いっしょに、又八またはちさんをさがしておあげいたしましょう」
 おすぎは、すなをいじっている彼女かのじょつめたいにぎりしめ、
「ほんにかいの?」
「ええ。……ええ」
「では、ともあれ、わしの旅舎やどまでておくりゃれ。……ア、ア」
 お杉隠居すぎいんきょは、そういってちかけながら、えりくびへをやって、かにをつかんだ。

「ええ、なんじゃとおもえば、いやらしい」
 隠居いんきょぶるいしながら、指先ゆびさきへブラがった小蟹こがにばした様子ようすのおかしさに、城太郎じょうたろうは、おつうのうしろで、クスリとくちおさえた。
 隠居いんきょは、づいて、
われか、悪戯いたずらしたのは」
 と、しろで、城太郎じょうたろうをねめつける。
「おいらじゃない。おいらのせいじゃないよ」
 城太郎じょうたろうは、どてうえげた。
 そしてうえから、
「おつうさん――」
「なあに」
「おつうさんは、おばばの旅舎やど一緒いっしょくの?」
 おつう返辞へんじをしないうちに、隠居いんきょがいった。
「そうじゃ、わしの旅舎やどはすぐそこの三年さんねんざかした、いつも京都きょうとればそこにめてある。われには、ようもないから、何処どこへなと、かえるならかえるがええ」
「アア、おいらは、烏丸からすまるのおやしきへさきかえっているぜ。おつうさんも、ようがすんだらはやくかえっておいで」
 さきはしりかけると、おつうは、きゅう心細こころぼそくなったものか、
「おち、城太じょうたさん」
 河原かわらからがって、かれうと、お杉隠居すぎいんきょも、もしおつうげるつもりではないかと狼狽あわてだしたように、すぐうしろからがってゆく。
 そのわずかなあいだに、二人ふたりは、はなった。
「ネ、城太じょうたさん、こんなわけになって、わたしはあのおばばさまと、旅舎やどきますけれど、ひまて、ちょいちょい烏丸様からすまるさまほうへもかえりますから、おやかたひとたちにそういって、おまえ当分とうぶん、あそこのご厄介やっかいになって、わたし用事ようじかたづくのをっていてください」
「アア、いつまでも、っているよ」
「そして……そのあいだに、わたしこころがけるけれど、武蔵様むさしさまのいらっしゃるところをさがしてくれません? ……おねがいだから」
「いやだぜ、さがしてるとまた、牛車ぎっしゃかげへかくれてないんじゃないか。……だから先刻さっき、いわないこッちゃないんだ」
「わたしはお馬鹿ばかね」
 お杉隠居すぎいんきょは、すぐあとからて、二人ふたりあいだはいってしまった。隠居いんきょのことばをしんじぬいているにしても、おつうは、この老婆としよりそばでは、武蔵むさしのうわさは、おくびにしてもわるいようながして、自然しぜんくちをつぐんでしまう。
 なごやかにかたをならべてあるいても、お杉隠居すぎいんきょはりのようにほそは、えずおつう油断ゆだんのないひかりくばっていた。いまでは、しゅうとめとよぶひとでないまでも、おつうは、窮屈きゅうくつかんじにめられた。――しかし、それ以上いじょう複雑ふくざつ老婆としより狡智こうちと、自分じぶんまえよこたわりかけているあぶない運命うんめいぬくことは出来できないらしい。
 以前いぜん五条大橋ごじょうおおはしほとりまでもどってくると、ここはもう元日がんじつるがごと人通ひとどおりとなっていて、もうらうらとやなぎうめうえたかい。
武蔵むさし、はてな」
「――武蔵むさしなどという兵法者へいほうしゃがいるかしらて」
いたこともないが」
「だが、吉岡よしおか相手あいてに、このとおり、はれがましい試合しあいをするほどだから、相当そうとう兵法者へいほうしゃにはちがいない」
 高札こうさつまえは、がたにまさるひとだかりだった。
 おつうは、ぎくとして、すくんだ。
 お杉隠居すぎいんきょも、城太郎じょうたろうもそれをながめていた。さかなうずのように、群衆ぐんしゅう武蔵武蔵むさしむさしというささやきをのこしながら、ってはてはながってゆく。