157・宮本武蔵「火の巻」「魚紋(4)(5)」


朗読「157火の巻69.mp3」14 MB、長さ: 約 10分 14秒

 かなしいにせよ、つらいにせよ、ひとはどうるかれないが、おつう自身じしんにとれば、いまこころかたは、またその生活せいかつは、けっして不幸ふこうなものでなかった。
 希望きぼうもあれば、そのそのたのしさもあるわか花園はなぞのだった。もちろんつらいとかかなしいとかのことのおおなかにではあるけれど、つらいこと、かなしいことをはなれて、ただたのしいだけのたのしさなどあろうとは、彼女かのじょにはしんじられない。
 けれど今日きょうばかりは、彼女かのじょのそうしてこたえてきたこころほろんでしまいそうだった。いままでの純真じゅんしんこころへ、まぷたつの亀裂ひびはしったかと自分じぶんですらかなしまれた。
 ――朱実あけみ武蔵むさしと。
 あのふたりが五条ごじょうおばしま人目ひとめもなくならんでいたのをとおくからたせつな、おつうは、あしがふるえてしまった。あやうく、めまいがしてたおれかけたので、牛車ぎっしゃかげにかがみんでしまったのである。
 ――なぜ今朝けさ、ここへたろうか。
 いてもいてもおよばないほどおもって、みじかあいだに、すぐかんがえてみたり、男性だんせいうそのかたまりにおもわれたり、にくしみとあいと、いかりとかなしみと、自分じぶんという人間にんげんにすら嫌厭けんえんがわいて、いたぐらいでは、こころ慟哭どうこくがおさまらなかった。
 でも。
 武蔵むさしのそばに、朱実あけみのすがたがあるうちは、自分じぶん主張しゅちょうできないおつうであった。ものぐるわしいほど、からだじゅうのしおが嫉妬しっとへんじながら、なお理性りせい幾分いくぶんかが、
 ――はしたない。
 と、必死ひっしにたしなめて、
――つめたく、つめたく、つめたく。
 と、自己じこ行為こういしようとする意思いしを、みなふだんのおんな修養しゅうようというもののしたへじっとおさえつけてしまうのだった。
 しかし、朱実あけみると、彼女かのじょはもうそういうこらえはかなぐりてた。武蔵むさしむかって、いうつもりであった。どういうことをいおうなどとかんがえているいとまはもとよりなかったが、むねのうちのものをみんないうつもりであった。
 人生じんせいみちはいつも、一歩いっぽ機微きびである。また、なにかの場合ばあいに、ふだんの常識じょうしきさえあれば、わかりきっていることを、ふと、こころ間違まちがいをうつしとってしまうためにその一歩いっぽが、十年じゅうねんのまちがいになったりする。
 武蔵むさしかげ見失みうしなったために、おつうは、お杉隠居すぎいんきょ出会であってしまった。元日がんじつなのに、きょうはなんというわるか、彼女かのじょ花園はなぞのにはへびばかりがた。
 ――夢中むちゅう彼女かのじょさん四町よんちょうほどげた。ふだんでも、こわゆめたとおもうと、そのなかにはきっと、おすぎかおがあった。そのかおが、ゆめでもなく、ってるのである。
 いきがつづかなくなった。
 おつう振向ふりむいてみた。
 ほっとその途端とたんはじめて呼吸いきやすんだのである。お杉隠居すぎいんきょは、半町はんちょうほどうしろで、城太郎じょうたろうくびをしめて、ちどまっている。城太郎じょうたろうはまた、必死ひっしになって、たれても、振廻ふりまわされても、しがみついてはなさない。
 いま城太郎じょうたろうが、こし木剣ぼっけんくかもしれない――必然ひつぜんやるだろう。そうすれば、隠居いんきょやいばいておうじるにちがいない。
 おつうは、あの老婆としよりの、もの仮借かしゃくしない気質きしつを、みてっている。わるくすればてられる城太郎じょうたろうかもれないとおもう。
「アア、どうしよう」
 ここはもう七条しちじょう河下かわしもである。どてのうえをあおいでもひとえなかった。
 城太郎じょうたろうすくいたいし、お杉隠居すぎいんきょのそばへるのはおそろしいし、彼女かのじょはうろうろするよりほかなかった。

「くそ、くそばば」
 城太郎じょうたろうは、木剣ぼっけんいた。
 木剣ぼっけんいたがさて、自分じぶん首根くびねッこは、隠居いんきょわきしたへつよくかかこみまれ、これはいくらもがいてもはなれないのだ。いたずらに、ってみたり、くうってみたり、あばれるほど、てきほこらせるにぎないのである。
「このわつぱが、なんのげいじゃ、かえる真似事まねごとかよ」
 隠居いんきょは、なが前歯まえばに、ほこった強味つよみをみせて、なお、ぐいぐいと河原かわらってまえあるいてたが、
てよ)
 彼方かなたちどまっているおつう姿すがたてから、きゅうに、老婆としよりらしい狡智こうちおもいついて、むねのうちでそうつぶやいた。
 隠居いんきょおもうには、これはどうもまずい。老婆としよりあしいかけたり、ちからずくであらそっているかららちがあかないというものである。武蔵むさしのような相手あいてでは、だましもかないが、この相手あいてあまやかせばあまやかせる女子供おんなこどもしたさきでくるめておいて、あとでいいように料理りょうりしてしまうにくはない。
 で――隠居いんきょにわかに、
「おつうよ、おつうよ」
 をあげて、彼方かなた姿すがたを、さしまねいた。
「――のう、おつう阿女あまよ、なんでれは、ばばの姿すがたるとそのようにげるのじゃ。以前いぜん三日月茶屋みかづきぢゃやでもそうじゃったが、いまも、わしをおにかのように、すぐげなさる。――その心得こころえが、そもそもせぬというもの。このばば心底しんそこがわからぬかいの。そなたのおもちがいじゃ、疑心暗鬼ぎしんあんきじゃ、ばばはけっして、そなたなどに害意がいいたぬ」
 そうくと、彼方かなたっているおつうはまだうたがわしげなかおしていたが、隠居いんきょわきしたから城太郎じょうたろうが、
「ほんとかい、ほんとかい、おばば」
「オオ、あのは、このばばこころを、おもちがえているらしい。……ただこわ人間にんげんのように」
「じゃあ、おいらが、おつうさんをんでるから、このを、はなしてくれ」
「おっと、そんなこというてはなしたら、このばば木剣ぼっけんをくれて、げるであろうが」
「そんな卑怯ひきょうなまね、するもんか。おたがいに、おもちがいで喧嘩けんかしちゃ、つまらないからさ」
「では、おつう阿女あまのそばへってこういうてう――本位田ほんいでん隠居いんきょはの、旅先たびさきで、河原かわはらごん叔父おじともわかれ、白骨はっこつこしうて、さきないをこうしてたびにまかせているが、いまでは、むかしとちがうて、えた。一時いちじは、おつうこころうらみとおもうたが、いまではさらさらそんなもない。……武蔵むさしにはらぬこと、おつう阿女あまいまよめのようにおもうているのじゃ。もとえんかえってくれとはいわぬが、せめては、このばばのかた愚痴ぐちや、このさき相談事そうだんごとでもいておくれるはないか。このばばを、あわれなものとはおもっておくれぬかと……」
「おばば、そんなに文句もんくながいと、おぼえきれないよ」
「それだけでよい」
「じゃ、はなしておくれ」
「よう、いうのじゃぞ」
「わかった」
 城太郎じょうたろうは、おつうのそばへ、けてった。そして、隠居いんきょのことばをそのまま、彼女かのじょつたえているらしかった。
「…………」
 お杉隠居すぎいんきょは、わざとないりをして、河原かわらいわこしろした。みぎわ浅瀬あさせに、ちいさなさかなれが、のどかな魚紋ぎょもんえがいている。
るか? ないか?)
 と、おつう様子ようすを、隠居いんきょは、そのさかなかげよりはやひかりで、横目よこめ注意ちゅういしていた。