156・宮本武蔵「火の巻」「魚紋(2)(3)」


朗読「156火の巻68.mp3」14 MB、長さ: 約 10分 12秒

 いくらおつう強情ごうじょうかがみこんでいようとしても、城太郎じょうたろうちから無理むりやりにくびをるのにはかなわなかった。
いたい。……城太じょうたさん、後生ごしょうだからそんなひどいことをしないでよ。……わたしをわからずやだとおいいだけれど、城太じょうたさんこそ、わたし気持きもちなんかわからないのです」
「わかってるよ、嫉妬やきもちをやいてるんじゃないか」
「そんな……そんなことだけではありません……わたしいま気持きもちというものは」
「いいからおでッてば」
 牛車ぎっしゃかげから、おつうのからだはズルズルってうごきした。綱曳つなひきでもするようにんばりながら、城太郎じょうたろうはまた彼方かなたがって、
「アッ、もういないよ、朱実あけみはもうってしまった」
朱実あけみ。――朱実あけみって、だれのこと?」
いま、あそこで、武蔵様むさしさまとならんでいたおんなさ。……あっ、武蔵様むさしさまあるした、はやないと、ってしまう」
 もうおんななどにかまっていられないとばかりに、城太郎じょうたろうはしりかけると、
ってよ、城太じょうたさん」
 おつうも、自分じぶんった。
 そこで彼女かのじょはもういちど、五条大橋ごじょうおおはしたもと見直みなおした。朱実あけみがまだそのへんにいるかいないかをたしかめるもののように細心さいしんまなこまわしているのだった。
 おそろしいてきかげったように、おつうまゆをひらいて、ほっとした様子ようすをしてまた、あわてて牛車ぎっしゃかげると、らしたまぶた袖口そでぐちいたり、かみでつけたりして、じまいをととのえていた。
 城太郎じょうたろうは、いて、
はやくしなよ、おつうさん。――武蔵様むさしさま河原かわらりてったようだぜ、お洒落しゃれなんかしなくてもいいじゃないか」
河原かわらへ」
「あ、河原かわらへ。――なにしにりてったのだろう」
 ふたりは、姿すがたをそろえて、はしたもとへすぐけてった。
 吉岡方よしおかがたてたそこの高札こうさつには、もう往来おうらいものくびがたかっていた。こえしてみあげているものがある。また、きつけない宮本武蔵みやもとむさしというものを、何者なにものであろうと、あたりの人々ひとびとたずねているものがある。
「ア、ごめん」
 城太郎じょうたろうは、その人々ひとびとからだをかすめて、はしらんから河原かわらしたをのぞいた。
 おつう武蔵むさしのすがたを、すぐそのしたられるものとばかりおもっていた。
 じつに、わずかなであったが、武蔵むさしはもうそのへんにいなかったのである。
 では何処どこに?
 ――というと、武蔵むさしはたったいま朱実あけみりきって、無理むり彼女かのじょかえすと、もう本位田ほんいでん又八またはちをこの橋上きょうじょうっていたところでるはずもないし――吉岡方よしおかがたから掲示けいじした高札こうさつおもてんだし――ほかにつべき用事ようじもないので、ヒラリとどてりて、橋杭はしぐいのそばの苫舟とまぶねっていた。
 とましたには、お杉隠居すぎいんきょが、舟桁ふなげたをしばられて先刻さっきからもがいていたのである。
「おばば、残念ざんねんだが、又八またはちないぞ。――わしもぜひそのうちにゆきって、あのよわおとこはげましてくれるつもりだが、ばばもさがして、親子おやこ達者たっしゃでおらしゃれ、――そのほうが、この武蔵むさしくびねらったりすることより、どんなに、御先祖孝行ごせんぞこうこうかしれぬぞ」
 小柄こづかって、そのとましたへさしれた。おすぎしばった縄目なわめったのである。
「ええ、みみうるさい、ませたくちをきく小伜こせがれわいの。らざるおせッかいをいうよりは、ばばつか、たれるか、武蔵むさしっ、はようらちをあけい」
 かおじゅうにあおすじをはしらせて、お杉隠居すぎいんきょが、とまなかからくびした――そのときですらすでに、武蔵むさしのすがたは、加茂かもながれをよこって、鶺鴒せきれいでもとぶようにいしのうえをひろって、対岸たいがんどてがっていたのであった。

 おつうなかったが、ちらと、河向かわむこうのとお人影ひとかげを、城太郎じょうたろうたのであろう。
「アッ、お師匠様ししょうさまだ、お師匠ししょうさまあ――」
 河原かわらむかって、りた。
 もちろんおつうも。
 なぜこのさい、すこしまわみちになっても、五条大橋ごじょうおおはしうえけてかなかったか。おつうは、城太郎じょうたろういきおいにつりまれたので仕方しかたがないにしても、城太郎じょうたろう一歩いっぽあやまったわざわいは、けっして、このとき彼女かのじょがまたしても武蔵むさしえなかったという遺憾いかんばかりにはとどまらない。
 城太郎じょうたろう元気げんきあしまえには、かわやまもあったものではないが、はる晴着はれぎよそおっているおつうには、すぐのまえにあらわれた幾条いくすじもの加茂かもみずに、はたとこまった。
 もう武蔵むさしかげは、どこにもえないのであったが、彼女かのじょは、べないながれをるとおもわず、わかれたもの間際まぎわにさけぶように、
武蔵むさしさまあっ」
 ――すると、それへむかって、
「おうっ」
 とこたえたものがある。
 小舟こぶねとまをばらばらとはら退けて、そこにったお杉隠居すぎいんきょであった。
 おつうは、なんのなく、それへ振向ふりむくとともに、
「――きゃっ!」
 かおをおおってはしった。
 隠居いんきょしろかみかぜった。
「おつう阿女あまっ」
 つぎのことばは、老婆としより極度きょくどげたいきのために、こえひしげて、
ようがあるッ、たっしゃれっ」
 つんざくようにみずひびいた。
 お杉隠居すぎいんきょ邪推じゃすいからこの場合ばあい結果けっか判断はんだんすれば、こういうふうにはなはだしくわるくとったかもれない。
 武蔵むさし自分じぶんとまをかぶせたのは、おつうとここで逢曳あいびきする約束やくそくがあったからにちがいない。そのうえ痴話ちわなにかにこじれて、武蔵むさしおんな振切ふりきってったので、おつう阿女あまごえをしぼっておとこかえしているのだろう。
(そうだ)
 と咄嗟とっさに、自分じぶんおもうことをこの老婆としよりは、すぐ自分じぶんだけで事実じじつとしてしまう。
にく阿女あま
 武蔵以上むさしいじょうにくしみを、おすぎはおつういだくのであった。
 まだ約束やくそくだけでうちにもれないうちから、息子むすこよめ自分じぶんよめのようにおもい、息子むすこきらわれたことは、自分じぶんきらわれたことのようにいきどおったり、うらみにおも老婆としよりだった。
たぬかっ」
 ふた声目こえめのさけびがきこえたときは、この隠居いんきょが、さながらくちみみまでいたかとおもわれる形相ぎょうそうで、かぜなかはしっているときだった。
 おどろいた城太郎じょうたろうが、
「な、なんだ、このばば
 つかみかかると、
邪魔じゃまなっ」
 と、弾力だんりょくはないが、おそろしくかたちから退ける。
 いったいこのおばあさんが何者なにものなのか――なんのためにおつうがあんなにおどろいてげたのか――城太郎じょうたろうにはまるでわからない。
 わからないが、しかし事態じたい凡事ただごとでないことだけはかんじる。それに、宮本武蔵みやもとむさしいち弟子でし青木城太郎あおきじょうたろうともあるものが、老婆としより細肱ほそひじねとばされてんでいられたものではあるまい。
「ばばッ、やったな」
 ――もう三間さんけんさきくお杉隠居すぎいんきょのうしろから、いきなりびついてかかると、ばばまご首根くびねッこをつかんで仕置しおきするときのように、ひだりうでなか城太郎じょうたろうあごっかけ、みっよっつ、ぴしゃぴしゃ撲叩はたいて、
餓鬼がきのくせに、邪魔じゃまだてするとこうだぞよ、こうだぞよ」
「カ、カ、カ……」
 のどほねばしたまま、城太郎じょうたろうは、木剣ぼっけんつかにぎることだけはにぎっていた。