155・宮本武蔵「火の巻」「微笑(5)魚紋(1)」


朗読「155火の巻67.mp3」14 MB、長さ: 約 10分 09秒

見事みごと大太刀おおたちって、これよがしの伊達だてよそおい、よほど兵法自慢へいほうじまんものらしいが……一体朱実いったいあけみさんとあのおとことは、どういうなかりあいなのか」
「べつに……なにもふかりあいじゃないんですけれど」
っていることはいるひとなのだな」
「ええ」
 武蔵むさし誤解ごかいされることをおそれるように、朱実あけみは、はっきりいった。
「いつぞや、小松谷こまつだに阿弥陀堂あみだどうで、どこかの猟犬かりいぬうでまれたとき、あまりまらないので、あのかたとまっている宿やどって医者いしゃび、それからついさん四日よっか、お世話せわになっているんですの」
「では、ひとつんでいるものだったか」
んでいるといっても……べつに、なんでもないんですけど」
 朱実あけみ言葉ことばつよめていう。
 武蔵むさしはべつに、なんでもあるような意味いみいているわけではない。それを朱実あけみは、ひとりでべつな意味いみにはきちがえているのだった。
「――なるほど、ではくわしいことはるまいが、あのもの姓名せいめいぐらいはいておろうが」
「ええ……岸柳がんりゅうともび、本名ほんみょう佐々木小次郎ささきこじろうとかいいました」
岸柳がんりゅう
 これは初耳はつみみではない、有名ゆうめいというほどではなくても、諸国しょこく兵法者へいほうしゃのあいだには相当知そうとうしられているである。もちろん実際じっさい人間にんげんるのはいまはじめてであるが、武蔵むさしおよんでいたり、また想像そうぞうしていた佐々木岸柳ささきがんりゅうは、もっと年配ねんぱいおとこのようにかんがえていたのに、その案外あんがいにもわかいのにはかれおもいのほかな心地ここちがした。
(……あれが、うわさの)
 あらためて、その小次郎こじろう武蔵むさしけたときである。朱実あけみ武蔵むさしとがそうしてささやいている様子ようすしろながら、小次郎こじろうほお笑靨えくぼいた。
 ――武蔵むさしもまた微笑びしょうおくった。
 だが、この無言むごん雄弁ゆうべんは、釈尊しゃくそん阿難あなんゆびはなねんじながら微笑ほほえんだような平和へいわひかりなぞもない。
 小次郎こじろう笑靨えくぼには、複雑ふくざつ皮肉ひにく挑戦的ちょうせんてき揶揄からかいがあった。
 武蔵むさしみにも、それをかんじてかえしている毅々たけだけしい争気そうきがあった。
 そうした男性だんせい男性だんせいのあいだにはさまって、朱実あけみはなお、自分じぶんだけの気持きもちを、うったえようとするのであったが、それをいわないうちに、武蔵むさしがいった。
「では朱実あけみさん、おまえはあのひとと、ひとまず宿やどかえったがよかろう。そのうちにおう、……な、そのうちにまた」
「きっとくださいます?」
「あ、くよ」
宿やどおぼえていてください。六条御坊前ろくじょうごぼうまえ数珠屋ずずや座敷ざしきにいますから」
「ウむ。……ウむ」
 単純たんじゅんにうなずかれたのが、物足ものたらなかったのだろう。朱実あけみらんのうえにいている武蔵むさしうばって、いきなり自分じぶんたもとかげでぎゅっとにぎりしめながら情熱じょうねつをこめた。
「……きっと! え? ……きっと!」
 突然とつぜん彼方かなたで、はらかかえるように哄笑こうしょうしたものがある。こっちへ、せてあるって佐々木小次郎ささきこじろうだった。
「あッはははは、わッはははは。アハハハ。アハハハ」
 とんでもない馬鹿笑ばかわらいをしてものがあるので、城太郎じょうたろうは、むっとしながら、はしまえ往来おうらいから小次郎こじろうにらみつけていた。
 ――それにつけてもかれは、お師匠様ししょうさま武蔵むさしがいまいましい。いつまでってもないおつうしゃくにさわる。
「どしたんだろ?」
 ふむように、まちのほうへすこあるしてゆくと、すぐそこのつじよこたわっている牛車ぎっしゃくるまのあいだに、チラと、おつうしろかおえた。

魚紋ぎょもん

「ア、いたッ」
 おにでもつけたように城太郎じょうたろうはさけんでけだした。
 牛車ぎっしゃかげに、おつうはしゃがみんでいた。
 めずらしく今朝けさ彼女かのじょかみ口紅くちべにには、ほのかではあるが――下手へたなお化粧けしょうではあるが――におわしいものがただよっていたし、小袖こそで烏丸家からすまるけからいただいたという紅梅地こうばいじに、しろみどり桃山ももやま刺繍ぬいっている初春はるらしいものであった。
 そのしろえりや、紅梅色こうばいいろが、くるまいてえたので、城太郎じょうたろううしはなづらをってそばへびついてった。
「なんだっ、こんなところに。おつうさん、おつうさん、なにしてんのさ」
 むねいてかがみんでいる彼女かのじょのうしろから、城太郎じょうたろうは、そのかみやおしろいがだいなしになるのもかまわずえりくびへきついて、
「――なにしてんのさ、なにしてんのさ、おいら、ずいぶんってしまったぜ。はやくおいでよ」
「…………」
「はやくさ、おつうさん」そのかたすぶって、
「――武蔵様むさしさまも、あそこにてるじゃないか。えるだろ、ほら、ここからでも。――だけど、おいら、とてもしゃくにさわってるんだ。――おいでよ! おつうさんてば! はやくなくちゃ駄目だめじゃないか」
 こんどは、彼女かのじょくびをって、けるほどしたが、ふと、そのくびのれていることや、おつうかおげてせないので不審ふしんおこし、
「……オヤ、……オヤ、おつうさん。なにしていたのかとおもったらいていたのかい」
城太じょうたさん」
「なにさ」
武蔵様むさしさまのほうからえないように、おまえも、かげにかくれていてくださいよ。……ネ、ネ」
「なぜさ」
「なぜでも……」
「ちぇッ!」
 城太郎じょうたろうはまた、ここでもはらって、その鬱憤うっぷんのやりがないように、
「だからおんなってやついやンなっちゃうぜ。こんなわけのわからねえことってあるだろか。――武蔵様むさしさまいたいいたいといってあんなにいたりさがしたりしていたくせに、今朝けさになったらきゅうに、こんなところかくれて、おいらにまでかくれていろって……。けッ、けッ、おかしくって、わらえもしねえや」
 かれのことばをむちのようにびているおつうであった。あかれているをそっとげて、
城太じょうたさん、城太じょうたさん……そういわないでください。……たのむから、そんなにおまえまでわたしをいじめないで」
「どこへ、おいらが、おつうさんをいじめてるかい」
だまっていてね……じっとわたし一緒いっしょかがんでいてください」
「いやだい、うしくそがそこにあるじゃないか。元日がんじつからいてなどいると、からすわらわあ」
「……なんでもいいの。もう……もうわたしは」
わらってやろう。先刻さっき彼方むこうった若衆わかしゅのように、おいらも、初笑はつわらいにをたたいてわらってやるぜ。……いいかいおつうさん」
「おわらい、たくさん」
わらえねえや……」
 鼻汁はなをこすりながら、むしろかれきたそうなかおをした。
「アア、わかった。おつうさんは、あそこで武蔵様むさしさまがよそのおんなと、先刻さっきからあんなことしてはなしているんで、嫉妬やきもちをやいているんだね」
「……そ、そうじゃない、そんなことじゃないけれど」
「そうだよ、そうだよ。……だからおいらもしゃくにさわってるんじゃないか、だからよけいに、おつうさんがかなければ駄目だめじゃないか。わからずやだなあ」