154・宮本武蔵「火の巻」「微笑(3)(4)」


朗読「154火の巻66.mp3」14 MB、長さ: 約 10分 22秒

 朱実あけみならびあってはしらんひじせていた武蔵むさしは、朱実あけみ懸命けんめいになってけるささやきへ、いちいちかすかにうなずいてはいるけれど、彼女かのじょおんな羞恥はじもすてて、真実しんじつ二人ふたりになりろうと全能ぜんのう脈搏みゃくはくしているほど、そのつよい低声こごえが、武蔵むさし耳以上みみいじょうとおっているかいなかはわからなかった。
 なぜならば、よくうなずいてはいるくせに、かれひとみは、あらぬほうっているからである。あいしあっている者同士ものどうしが、ことばをかなであいながららしているといったような――ああいう情景じょうけいとはまるでちがったもので、ひとくちにいえば、かれ今持いまもっているひとみは、無色無熱むしょくむねつであった。そこから一角いっかく焦点しょうてんむかって、かちっときついたまま、じろぎもしないのである。
 朱実あけみにはいま、そういう相手あいてあやしむ認識にんしきすらてない。自分じぶんだけの感情かんじょうなかで、ひとこたえながらきつめてはくちびるむせすのだった。
「……ああ、わたしはもう、これであなたにみんないうことをいってしまった。かくしていることはなにもない」
 と欄干らんかんへのせているむねすこしずつせてて、
「――せきはらいくさから、もう五年目ごねんめになるでしょう。その五年ごねんのあいだに、わたしというものは、いますっかりはなしたように、境遇きょうぐうも、からだかわってしまったんです」
 ……よよと、すすいて、
「けれど――いいえ――わたしはちっともかわっていない。あなたをおもっているこの気持きもちは、かわっててはおりません。そういいきれます。わかってくれる? ……武蔵様むさしさま、その気持きもちを……武蔵様むさしさま
「ムム」
「わかってくださいね。……はじもしのんでわたしはいいました。朱実あけみは、あなたとはじめて伊吹いぶきしたったときのように、もうけがれのないはなではありません。人間にんげんおかされてただおんなになってしまったつまらないおんなです。……けれど貞操みさおというものはからだのものでしょうか。こころのものでしょうか。からだうえだけは清女せいじょでも、こころがみだらなおんなだったら、それはもうきれいな処女おとめとはいえないのではありませんか。……わたしは、わたしはもうは……はいえませんがもののために処女おとめではなくなりました。けれど、こころおかされてないつもりです。ちっともけがされないこころいまっているんですの……」
「ウム、ウム」
「かあいそうだとおもってくれます? ……。真実しんじつをささげているひとへ、かくごといだいているのはつらいことです。……あなたにったらなんといおう。いうまいか、いおうか、おなじことを幾晩いくばん幾晩いくばんかんがえぬきました。そのうえで、わたし決心けっしんしたことは、やはり貴方あなたには、いつわりをたないということでしたの。……わかってくださる。むりもないとおもってくださいますか、それともいとわしいやつだとおもいますか」
「ムム、ああ」
「ね……どっちです。かんがえると、わ、わたしは、く、くやしい」
 らんうえかおせて、
「ですから、もうわたしは、あなたにむかって、あいしてくださいなどということは、厚顔あつかましゅうていえませんし……また、いえた義理ぎりでもないからだですの。――だけど武蔵様むさしさまいまいったようなこころ――処女おとめごころ――白珠しらたまのような初恋はつこいこころ――それだけはくしません。このあと、どんな生活くらしをしようとも、どんなおとこちまたあるこうとも」
 かみひとすじひとすじがみなきふるえた。らんらしているなみだしたは、元日がんじつあかるい燿々ようようせて、無限むげん希望きぼうへかがやいて若水わかみずのせせらぎであったが。
「む……うむ……」
 もののあわれはしきりと武蔵むさしうなずきをさそっている。――だが、あいかわらず異様いようひかりをおびて、あらぬほういつけられているかれひとみなのである。
 ――で、その視線しせんさき辿たどってみると、はしらん川岸かわぎしとのカギかたち二線にせんたいして、三角形さんかっけいつく一線いっせんすぐけてゆく。
 先刻さっきから枯柳かれやなぎみきりかかって、じっときしっている岸柳佐々木小次郎がんりゅうささきこじろうのすがたを、そこに見出みいだすことが出来できる。

 ちち無二斎むにさいから子供こどもときに、かれはこういわれたことがある。おまえはわしにていない、わしのひとみはかくのごとくろいが、おまえのひとみ茶色勝ちゃいろがちである。従祖父おおおじ平田将監ひらたしょうげんさまは、こげ茶色ちゃいろをしていてすごかったといういいつたえだから、おまえはおそらくお祖父じいさんうまれたのであろう……と。
 うらうらと、あさを、斜面しゃめんにうけているせいもあろう。それにしても武蔵むさしひとみは、ヒビのない琥珀こはくのようにんでいてするどかった。
(ははあ、このおとこだな)
 かねておよぶところの宮本武蔵みやもとむさしという人間にんげんを、佐々木小次郎ささきこじろうは、いまていた。
 武蔵むさしもまた、
(はてな、あのおとこは)
 と、注意ちゅういおこたらない。
 かれよりるものと、こっちからせまってゆくものとが、はしらんと、かわべりの枯柳かれやなぎとのあいだで、最前さいぜんから無言むごんうちに、おたがいの人間にんげんふかさをはかっていたのである。
 兵法へいほう場合ばあいでいえば――相手あいて器量きりょうを、けんけんさきでじっと観澄みすましているような――うんのいきをこらしているときにもている。
 またさらに、武蔵むさしのほうにも、小次郎こじろうのほうにも、べつな疑惑ぎわくがあった。
 小次郎こじろうにすれば、
小松谷こまつだに阿弥陀堂あみだどうかられてて、自分じぶんいま世話せわをしてやっている朱実あけみと、あの武蔵むさしと、どういう縁故えんこがあって、あんなにしたしそうに私語ささめごとわしているのか)
 とおもい、それに当然とうぜん
(いやなやつだ、おんなたらしかもしれぬ。朱実あけみ朱実あけみ、おれにだまって、どこへくのかとおもってあと尾行つけてみれば……あんなおとこに、いたりなどして)
 こう不快ふかいもむらむらと生唾なまつばになっていてる。
 そのありありとている反感はんかんや、武者修行同士むしゃしゅぎょうどうしきずりにつ、自負心じふしん自負心じふしんとの反溌はんぱつしあうみょう敵愾心てきがいしんなど、武蔵むさしのひとみに顕然けんぜんまれるので、武蔵むさしもおのずから、
何者なにものか?)
 と、かれ存在そんざいうたがい、
(できるな、相当そうとうに)
 と、はかり、
(はて、あの害意がいいは?)
 と、警戒けいかいして、
油断ゆだんのならない人間にんげん
 として、るのではなく、こころつめているので、ふたりのは、いま火花ひばなしているといっても過言かごんでない。
 年齢としは、武蔵むさしひとふたしたか、小次郎こじろうのほうがしたか、どっちにしても大差たいさのない、おたがいが、生意気なまいきざかりで、兵法へいほうでも、社会しゃかいのことでも、政治せいじでも、すべてがわかったつもりでいる自負心じふしん満々まんまんとしている青年せいねんなのだ。
 猛獣もうじゅう猛獣もうじゅうると、すぐうなるように、小次郎こじろう武蔵むさしも、なんとなく、かみのそそけつような印象いんしょうを、この初対面しょたいめんにうけたのである。
 ――そのうちに、ふと、小次郎こじろうさきひとみよこらした。
(ふふん……)
 そういったようなしろさげすみを、武蔵むさしかれ横顔よこがおたが、こころのうちでは、自分じぶん――意力いりょくが――かれつい圧伏あっぷくしたとおもって、かるく愉快ゆかいだった。
朱実あけみさん」
 らんおもててていている彼女かのじょへ、武蔵むさしくわえて、たずねた。
だれだ? おまえの知人しりびとだろう。あれにいる若衆わかしゅすがたの武者修行むしゃしゅぎょうは。……え、だれだ、いったい?」
「…………」
 小次郎こじろう姿すがたを、その時初ときはじめてづいた彼女かのじょは、らしたかおに、あきらかな狼狽うろたえをはしらせて、
「ア……あのひとが」
「あれはだれだ」
「あの……あの……」
 と朱実あけみ口籠くちごもった。