147・宮本武蔵「火の巻」「公開状(3)孤行八寒(1)」


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 かねて、武蔵むさしからている書面しょめんには、試合しあい場所ばしょどりは、そちらに一任いちにんするから、そのむねを、一月いちがつはじめまでに、五条大橋ごじょうおおはしのほとりへ高札こうさつしておいてもらいたいとある。
場所ばしょだな、まず」
 清十郎せいじゅうろうはつぶやくようにいって――
洛北らくほく蓮台寺野れんだいじのはどうだろう」
 と、一同いちどうはかった。
「いいでしょう。して、どりと時刻じこくは」
まつうちか、まつうちぎてとするか……だが」
「はやいがよいとおもいます。武蔵むさしめが、卑怯ひきょうさくをめぐらさぬあいだに」
「では、八日ようかは」
八日ようかですか。八日ようかはよいでしょう。先師せんし御命日ごめいにちですから」
「あ、ちち命日めいにちになるか、それはそう。……九日ここのかあさ――下刻げこく、そうきめる、そういたそう」
「では、そのとおりに、高札こうさつしたため、こよい除夜じょやのうちに、五条大橋ごじょうおおはしのたもとへてますか」
「うむ……」
「お覚悟かくごは、よろしゅうございましょうな」
「もとよりのこと」
 そういわざるをない清十郎せいじゅうろう立場たちばとなった。
 だが、武蔵むさしけようなどとは、おもいもよらない。父拳法ちちけんぽうっておしえこまれた幼少ようしょうからの技倆ぎりょうは、ここにいる高弟こうていだれといつ試合しあいっても、おとったためしはない。ましてや、まだしの田舎兵法者いなかへいほうしゃである武蔵如むさしごときに――と、かれ自負じふしているのであった。
 ――にもかかわらず、なんとなく、先頃さきごろからふとひるみをかんじたり、こころととのいがつかないのは、自分じぶんが、兵法へいほう研磨けんまおこたっているためではなく、身辺しんぺん雑事ざつじわずらわされているためと、彼自身かれじしん解釈かいしゃくしている。
 朱実あけみのことが、そのひとつの原因げんいんというよりはもっとおおく、あのあとでは、かれもちを不愉快ふゆかいにしていたし、武蔵むさしからの挑戦状ちょうせんじょうで、あわてて京都きょうとかえってみれば、祇園藤次ぎおんとうじ逐電ちくてんしてしまうやら、また家政かせいがんはこの年暮くれていよいよ重体じゅうたいなもようとなり、日々ひび掛取かけとりしかけられるようで――清十郎せいじゅうろうこころは、心構こころがまえをいとまがない。
 ひそかに、たのみにしていた佐々木小次郎ささきこじろうも、ここへて、かおせなくなってしまった。おとうと伝七郎でんしちろうりつかないのである。かれは、もとより武蔵むさしとの試合しあいに、自分以外じぶんいがい助太刀すけだち必要ひつようとするほどてきおおきくてはいないが、それにしても、今年ことし年暮くれはさびしいがしないでいられなかった。
「ごらんください。これでよかろうとおもいますが」
 植田良平うえだりょうへいたちが、別室べっしつから、あたらしくけずった白木しらきいたへ、高札こうさつてる文言もんごんいてて、かれまえしめした。――ると、まだ水々みずみずすみれていて、

    答示とうじ
ひとつ、のぞみに試合申しあいもうこと
場所ばしょ洛北蓮台寺野らくほくれんだいじの
日時にちじ正月九日しょうがつここのか下刻げこく
右神文みぎしんもんにかけて誓約候事せいやくそうろうこと
万一まんいち相手方あいてがたものたがえあるにおいては、世間せけんむかってわらいもうべく当方とうほうたがえあるときは、すなわち、神罰しんばつをうくるものなり
  慶長九年除夜けいちょうくねんじょや
    平安へいあん 吉岡拳法二代清十郎よしおかけんぽうにだいせいじゅうろう
作州牢人宮本武蔵殿さくしゅうろうにんみやもとむさしどの

「ム、よかろう」
 はじめてはらがすわったのであろう、清十郎せいじゅうろうおおきくうなずいた。
 その高札こうさつ小脇こわきって、植田良平うえだりょうへいは、さんものあとよい大晦日おおみそかを、五条大橋ごじょうおおはしのほうへ、大股おおまたあるいてった。

孤行八寒こぎょうはっかん

 吉田山よしだやましたである。ここらのよこには小扶持こぶちって、生涯変哲しょうがいへんてつもなくくらしている公卿侍くげざむらい住居じゅうきょおおかった。
 ちまちました屋造やづくりや、素朴そぼく小門しょうもんなどが、そとからてもすぐそれとわかるほどきわめて保守的ほしゅてき階級色かいきゅうしょくって、ただ無事ぶじならんでいた。
 武蔵むさしは、
(ここでもない。ここでも……)
 とつぎからつぎいえ門札もんさつてゆきながら、
(もうんでいないのかもしれぬ?)
 と、さがちからうしなったようにたたずんでしまった。
 ちち無二斎むにさいんだときったきりの叔母おばであるから、かれ記憶きおく少年しょうねんころとおいうろおぼえにすぎなかった。――でも、あねのおぎんのほかに血縁けつえんといえば、その叔母おばぐらいなものしかないので、きのうこの京都きょうとあしれると、ふとおもしてたずねてみたのである。
 叔母おば良人おっとは、近衛家このえけつとめていて、ろくのひくい小侍こさむらいだとおぼえている。吉田山よしだやましたですぐれるかとおもってたところが、てみると、おなじような家構いえがまえがたくさんあって、いえちいさいわりにみな木立こだちおくに、蝸牛かたつむりのようにもんめ、門札もんさつているいえもあり、ないいえもあるという有様ありさまなので、にくいし、くにもにくい。
(もう、かわっているにちがいない。よそう)
 武蔵むさしは、あきらめて、まちのほうへもどりかけた。まちそらには、夕靄ゆうもやがこめて、そのもやが、としいちあかりでうすあかえるのだった。
 大晦日おおみそかゆうぐれである。どことなく騒音そうおんのある洛内らくないだった、すこし人通ひとどおりのおお往来おうらいると、人間にんげんも、あしどりも、ちがっている。
「あ……?」
 武蔵むさしは、すれちがった一人ひとり婦人ふじんかえっていた。もう七年しちねん八年はちねんない叔母おばであるが、たしかに、母方ははかた播州佐用郷ばんしゅうさよごうからみやこかたづいたというそのひとにちがいない。
ている」
 とはすぐおもったが、でもねんのため、しばらくあといてきながら注意ちゅういしていると、四十しじゅうぢかいなその婦人ふじんは、としいち買物かいものむねにかかえ、先刻さっき武蔵むさしがさんざんいえをさがしてあるいたさみしい横道よこみちまがってゆく。
叔母御おばご
 武蔵むさしぶと、その婦人ふじんは、怪訝けげんかおして、しばらくかれかおやすがたをながめていたが、やがて非常ひじょうおどろきを、常々つねづね無事ぶじちいさな家計かけいれてとしのわりにしなびているそのもとへあらわし、
「あっ、そなたは、無二斎むにさい武蔵むさしじゃないか」
 少年しょうねんころからはじめてうこの叔母おばに、ばれないで武蔵むさしといわれたのは、案外あんがいでもあったが、それよりはなにかしらさびしいがして、
「はい、新免家しんめんけでございます」
 武蔵むさしのほうからいうと、叔母おばかれのそういう姿すがたを、ながめまわすだけで、まあおおきくなったことだとも、ちがえるほどかわったとも、いわなかった。
 ただひややかに、
「そして、そなたは、なにしにここへやったのか」
 と、むしろ難詰なじるようなことばでいう。武蔵むさしは、はやくわかれたみのははになんの記憶きおくもなかった。だがこの叔母おばと、こうしてはなしていると、自分じぶんははも、きていたころは、このくらいな背丈せたけひとであったろうか、こういうこえひとであったろうか――ともとやかみさきにまで、はは面影おもかげをこころのうちもとめていた。
「べつに、なんの用事ようじがあってという次第しだいではございませぬが、京都きょうとまいりましたことゆえ、ふとおなつかしゅうぞんじまして」
「うちをたずねてやったのか」
「はい、突然とつぜんながら」
 すると叔母おばは、
「やめたがよい、もうここでえば、ようがすんだであろ。かえりゃ、かえりゃ」
 と、るのだった。