145・宮本武蔵「火の巻」「心猿(7)(8)」


朗読「145火の巻57.mp3」14 MB、長さ: 約 10分 04秒

 なにをぎつけてこうえついているのだろうか。小次郎こじろうは、猟犬りょうけんびかかっているまどとはべつな入口いりぐちった。
 御堂みどう格子扉こうしどへ、かれかおをよせてみた。なか漆壺うるしつぼをのぞくようでなにもえない。ガラリッと、かれからとびらおとがひびくと、いぬは、って、小次郎こじろうあしもとへおどってた。
「――っ」
 とばしたが、いぬは、っていて、ひるみもしない。
 かれ御堂おどうなかはいると、さッと、たもとをくぐって、さきけこんでった。
 と――すぐに。
 小次郎こじろうみみへつんざいてたのは、おもいもうけてもいなかったおんなさけびである。それも凡々なみなみならぬおどろきかたであって、せいいっぱいの金切かなきごえが、いきりいぬこえと、途端とたんに、すさまじいたたかいをおこし、御堂おどうはりもためにけるかのように、人獣じんじゅうふたいろの音響おんきょうが、ぐわんぐわんとこもってる。
「やっ?」
 小次郎こじろうは、った。その一瞬いっしゅんに、いぬたけっている目標もくひょうのなんであったかもわかったし、また、必死ひっしこえをもって拒闘きょとうしている女性じょせいのすがたもうつった。
 紙衣蚊帳かみこがやをかぶって、朱実あけみいまていたのである。そこへ、猟犬りょうけんつけられた小猿こざるが、まどからびこんで彼女かのじょのうしろへかくれた。
 いぬは、小猿こざるいつめてて、朱実あけみみつきそうにした。
 ――きゃッ。
 と朱実あけみ仰向あおむけにころんだのと、もっとつよけもの悲鳴ひめいが、小次郎こじろうあしさきからはっしたのと、ほとん一緒いっしょで、間髪かんぱつもなかった。
「――いたいッ、いたいッ」
 くように、朱実あけみはもがいた。いぬくちは、おおきくひらいて、彼女かのじょひだりうでくわえていた。
「くッ、これかッ」
 小次郎こじろうが、二度目にどめあしで、またいぬ脾腹ひばらとばした。けれども、いぬかれはじめの一蹴ひとけりでもうんでいたのであって、さらにまたっても、朱実あけみうでをくわえているおおきなくちはなれなかった。
「――はなしてっ、はなしてえっ」
 もがいている彼女かのじょからだしたから、小猿こざるがぴょいとした。小次郎こじろうは、いぬ上顎うわあご下顎したあごりょうをかけて、
「こいつめ」
 ばりっと、にかわぐようなおとがした。いぬかおは、もうすこしでふたつになるところでぶらついていた。それを、ぶーんと扉口とぐちからそとげやって、
「もういい」
 と、朱実あけみのそばへすわったが、彼女かのじょうでは、けっして、もういいどころの状態じょうたいではなかった。
 しろうでが、緋牡丹ひぼたんみたいにしおをいている。――そのしろさとあかさに、小次郎こじろうはぶるると自分じぶんにまで、いたみとふるえをかんじた。
さけはないか、きずあらさけは。……いや、あるまいな、こんなところに、あるはずはない。ハテ、どうしたもの」
 ぎゅっと、彼女かのじょうでおさえていると、あつ液体えきたいが、自分じぶん手頸てくびへも、さらさらとあふれてるのだった。
「もしかして、いぬどくでもけたら、病気びょうきになってしまう。このあいだうちから、おかしくなっていたいぬだ」
 咄嗟とっさ処置しょちまよいながら、小次郎こじろうがそうつぶやくと、朱実あけみは、いたそうにまゆをしかめ、しろうなじを、うつつにらしながら、
「えっ、病気びょうきに。……いっそのこともう、病気びょうきになりたい、病気びょうきに」
「ば、ばかな」
 小次郎こじろうはいきなりかおをよせて、彼女かのじょうでくちですすった。くちなかがいっぱいになるときすてて、また、しろはだ頬張ほおばった。

 たそがれになると、青木丹左あおきたんざ一日いちにち托鉢たくはつからとぼとぼかえってた。
 もう薄暗うすぐらくなっている阿弥陀堂あみだどうとびらけて、
朱実あけみ、さびしかったろう。いまもどってたぞよ」
 途中とちゅうもとめて彼女かのじょくすりだのものだの、あぶらつぼなどをすみへおいて、
「おち、いまあかりをけてやるからの……」
 しかし……あかりがともると、かれこころくらくなった。
「おや? ……どこへったのじゃ、朱実あけみ朱実あけみ
 彼女かのじょ姿すがたえないのであった。
 つめたいものにこばまれた自分じぶんだけの情愛じょうあいが、むっと、やりばのないいきどおりにかわって、かれは、のまえもなかくらくなった。そのいかりがさめると、なんともいえないさびしさにとらわれて、丹左たんざは、このさきともわかくなりようはないし、栄誉えいよ野心やしんてないとまっている、わがいの身一みひとつを見出みいだして、きたいようにかおをしかめた。
「ひとにたすけられたうえ、あんなに世話せわになっておきながら、だまっててゆくとは……アアやっぱり、それが世間せけんなのかなあ……いまわかおんなはそうなのかなあ。……それとも、わしをまだうたがって?」
 丹左たんざは、愚痴ぐちッぽくつぶやいて、彼女かのじょていたあとを、猜疑さいぎまわした。――るとそこに、おびはしでもいたような小布こぎれててあった。そのぬのにはすこしがついている。丹左たんざはよけいに邪推じゃすいはたらいて、ふしぎな嫉妬しっとられるのであった。
 忌々いまいましげに、かれは、わら寝床ねどことばした。ってくすりそとててしまう。そして一日いちにち行乞ぎょうこつえぬいているのであったが、ばんものつくりにかかる気力きりょくせたように、尺八しゃくはちって、
「あ、あ」
 阿弥陀堂あみだどうふちてゆく。
 それからおよそはんときぐらいのあいだというもの、めもなく、かれのふく尺八しゃくはちは、かれ煩悩ぼんのう虚空こくうあそばせていた。人間にんげん情慾じょうよくは、墓場はかばはいってしまうまでは、かたちえても人体じんたいのどこかに、りんのように元素的げんそてき潜在せんざいをもっていることを、丹左たんざのふく尺八しゃくはちは、虚空こくう自白じはくしていた。
(どうせ、ほか男性だんせいに、勝手かってにされてしまうあのむすめ宿命しゅくめいなら、なにも自分じぶんだけが、姑息こそく道徳どうとく通念つうねんにしばられて、一晩ひとばんじゅう、ぐるしいおもいなどしている必要ひつようはなかったのだ)
 後悔こうかいたものだの、それを自分じぶんでいやしむ気持きもちだの、雑多ざった感情かんじょうが、帰着きちゃくするところなく、血管けっかんのなかを、いたずらにけまわっているのが、いわゆる煩悩ぼんのうなのである。――丹左たんざのふく尺八しゃくはちは、ひたすら、その感情かんじょうにごりからもうとする必死ひっし反省はんせいであるらしいが、よくよくごうのふかいこのおとこうましょうとみえて、かれがむきになってかかるほどには、その吹禅すいぜんたけんでなかった。
虚無僧こむそうさん、なにが面白おもしろくて、今夜こんやひとりで尺八しゃくはちをふいているのだえ? まちで、もらいがおおくあって、さけでもってたなら、わしにもすこし、わせておくれぬか」
 御堂おどう床下ゆかしたから、くびしてこういったおこもがある、そののおこもは、つね床下ゆかしたんでいて、自分じぶんうえくらしている丹左たんざ生活せいかつを、王侯おうこうのようにしたからて、うらやましがっている人間にんげんだった。
「お……おまえはっているじゃろう。わしがゆうべ、ここへれてておいた女子おなごは、どこへった?」
「あんなたまを、にがすなんてほうがあるものか。今朝けさ、おめえがてゆくと、おおきなかたなった前髪まえがみ若衆わかしゅ小猿こざるといっしょに、女子おなごまでかたにかけて、れてったわ」
「え、あの前髪まえがみが?」
わるくないおとこぶりだもの。……おめえや、おれよりは」
 床下ゆかしたは、なにがおかしいのか、ひとりでわらっていた。