141・宮本武蔵「火の巻」「冬の蝶(3)(4)」


朗読「141火の巻53.mp3」14 MB、長さ: 約 10分 30秒

 なかを、どんと、きとばされたのだ。朱実あけみいきおいよく、かやなかたおれてしまう。
「あっ、御免御免ごめんごめん
 ふざけたおとこもある。自分じぶんきとばしておいて、八十馬やそまはこうあやまりながら、朱実あけみからだへのしかかり、
いたかったろ」
 と、きすくめた。
 そのひげづらを、朱実あけみは、くやしまぎれに平手ひらてった。ピシャピシャとふたつもみっつもった。けれど八十馬やそま平気へいきなものなのだ。かえって、このおとこはそれをよろこぶかのように、をほそめてたれているのだから始末しまつにこまる。
 したがって、彼女かのじょきしめているはなしッこない。執拗しつように、ほおをこすりつけてくる。それが無数むすうはりのようにいたくて、朱実あけみかおくるしめられた。
 ――いきができない。
 朱実あけみは、ただつめてる。
 そのゆびつめが、あらそううちに、赤壁八十馬あかかべやそまはなあなきむしった。はな獅子頭ししがしらのそれみたいにしゅまる。けれど八十馬やそまはなさない。
 鳥部とりべやま阿弥陀堂あみだどうから、夕闇ゆうやみかね諸行無常しょぎょうむじょうげわたっている。けれど、こうすさまじくぎている人間にんげんみみには、色即是空しきそくぜくう梵音ぼんおんも、うまみみ念仏ねんぶつというものである。男女ふたりめているがやは、おおきななみをゆりてるばかりだった。
「おとなしくしな」
「…………」
「なにも、こわいことはないさ」
「…………」
「おれの女房にょうぼうにしてやろう。――いやじゃあるまい」
「……にたいッ!」
 さけんだ朱実あけみこえあまりにも悲痛ひつうつよかったので、
「えっ?」
 八十馬やそまは、おもわずいった。
「……どうして、どうして」
 ひざむねとで、朱実あけみからだ山茶花さざんかつぼみみたいにかたくむすんでいた。八十馬やそまはどうかしてこの筋肉きんにく抵抗ていこうをことばでほぐさせようとするのだった。このおとこはまた、こういうことにいくたびか経験けいけんをもっているらしいうえに、こういう時間じかんのあいだをもたのしむことにしているらしい。すごつらがまえにももやらず、つかまえた餌物えものをむしろなぶるかのようにながいのである。
「――くことはないじゃないか。なにも、くことは」
 そんなことを、みみくちをつけていってみたり、
ねえやは、おとこらないのか、うそだろう、もうおめえぐらいな年頃としごろで……」
 朱実あけみは、いつぞやの吉岡清十郎よしおかせいじゅうろうおもいだした。そのときくるしかった呼吸こきゅうかんがされた。でも、あのときとは比較ひかくにならないほど、こころのどこかに落着おちついたものがある。……あのときのせつなこそは、部屋へやのまわりの障子しょうじさんえない心地ここちがしたほどだったが――。
ってくださいッてば!」
 蝸牛かたつむりのようになったまま、朱実あけみはいった。なんのもなくいったのである。病後びょうごからだみたいだった。そのねつすら、八十馬やそま病気びょうきねつとはおもっていない。
ってくれって? ……よしよし、ってやるとも。……だが、げるとこんどは手荒てあらになるぜ」
「――ちいッ」
 かたをつよくって、八十馬やそま執拗しつようをふり退けた。やっとすこはなれたかれかおを、めつけながらがって、
「――なにするんですっ」
「わかってるじゃねえか」
おんなおもって、ばかにすると、わたしにだって、おんなのたましいというものがあるんだから……」
 くされたくちびるがにじんでいた。そのくちびるみしめると、ほろほろとなみだがながれ、といっしょにしろあごをこぼれた。
「ほ……おつなことをいうな。こいつはまんざらあたまがおかしくもねえとみえる」
「あたりまえさ!」
 ふいに相手あいてむないたをくと、朱実あけみは、そこをまろして、えるかぎり夕月ゆうづきにそよぐかやなみへ、
人殺ひとごろしっ、人殺ひとごろしイっ……」

 そのとき精神状態せいしんじょうたいからいえば、朱実あけみより八十馬やそまのほうが、一時的いちじてきではあるが、完全かんぜん狂人きょうじんであった。
 たかぶりきったかれは、もう、技巧ぎこうをこらしてなどいられない。人間にんげんかわをかなぐりすてて、情痴じょうちけものになりきってしまう。
 ――たすけてえっ!
 あお宵月よいづきひかりを、十間じゅっけんとははしらないまに、朱実あけみけものみつかれた。
 しろはぎが、無残むざんにもたたかたおれ、自分じぶん黒髪くろかみ自分じぶんかおきつけて、朱実あけみほお大地だいちへこすった。
 はるちかいといっても、まだ花頂山かちょうざんからちてくるかぜは、蕭々しょうしょうと、このしもにするかとおもわれた。悲鳴ひめいあえぎたてる真白まっしろむねが、ぶさが、あらわに冬風ふゆかぜさらされ、八十馬やそまを、さながらほのおまどにしてしまう。
 するとそのみみあたりを、何者なにもの突然とつぜん、ごつんとおそろしくかたものなぐった。
 八十馬やそま血液けつえきは、そのため、一時五体いちじごたい循環じゅんかん休止きゅうしして、打撃だげきをうけた箇所かしょあつまり、神経しんけいがそこからいたように、
「――ア!」
 とさけんだ。
 さけびながらまた、うしろをいたのもこのおとこ戸惑とまどいである。そのこうへまた、
「この馬鹿者ばかものっ」
 ぴゅっ――と空気くうきりながら、ふしのある尺八しゃくはちが、脳天のうてんろした。
 これはいたくなかったろう、いたいとかんじるがなかったからである。八十馬やそまは、へなへなとかたじりもげてしまい、張子はりことらのようにくび左右さゆうへぶるるとってうしろへっくりかえってしまった。
他愛たあいないものだ」
 尺八しゃくはちにぶらげながら、なぐったほう虚無僧こむそうは、八十馬やそまかおをのぞきこんでいる。――ぽかんとくちおおきくいて気絶きぜつしているのだ。ったのが二度にどとものうであったから、がついてもこのおとこ後遺症こういしょうになるのではないかとかんがえ、ひとおもいにころしたよりもつみわざをしたものだと、つらつらながっている。
「……?」
 朱実あけみはまた、その虚無僧こむそうかおを、茫然ぼうぜんていた。唐蜀黍とうもろこしをすこしえたように、はなしたにうすひげえている、尺八しゃくはちっているから虚無僧こむそうひとようが、うすぎたな着物きものに、一腰ひとこし太刀たちび、物乞もりごいかさむらいか、よくないと判断はんだんのつかないような五十男ごじゅうおとこである。
「もういい」
 青木丹左衛門あおきたんざえもんは、そういって、くちびるしたへブラがっているおおきな前歯まえばでわらった。
「――もう安心あんしんおし」
 朱実あけみはじめて、
「ありがとうございました」
 かみのみだれや、着物きもののみだれをなおして、まだおびえているが、まわした。
「どこじゃの、おぬし」
いえですか。……いえはあの……いえはあの……」
 朱実あけみは、にわかにすすりきして、両手りょうてかおおおってしまう。
 わけをかれても、彼女かのじょ正直しょうじきにみなはなせなかった。半分はんぶんうそをいい、半分はんぶんはほんとのことをいい、そしてまたすすりいた。
 母親ははおやがちがうことだの、その母親ははおや自分じぶんからだかねえようとしたことだの――住吉すみよしからここまでげて途中とちゅうであるということだの――その程度ていどけて、
「わたしもう、んだってうちかえらないつもりです。……ずいぶん我慢がまんしてたんですもの。はじをいえば、ちいさいときには、いくさあと死骸しがいから、剥盗はぎとりまでさせられたことがあるんです」
 にく清十郎せいじゅうろうよりも、さっきの赤壁八十馬あかかべやそまより、朱実あけみは、養母ははのおこうにくくなった。きゅうにそのにくさがほねをふるわしてて、また、よよと両手りょうてうちくのだった。