朗読「139火の巻51.mp3」21 MB、長さ: 約 15分 26秒
十一
坂の日蔭は土まで氷っていたが、柑子坂を降ると、冬でも蠅がいるほど陽あたりのよい立場茶屋が、山ふところの田圃へ向って、牛のわらじや、駄菓子などをひさいでいる。城太郎は、そこの前に立ってお通を待っていた。
お通が、
「武蔵様は」
と、訊ねながら、立場茶屋の前にがやがや群れている人々のほうを、じっと見ると、
「いないンだよ」
と、城太郎は、気抜けしたようにいい放って、
「どうしたんだろ?」
「え……」
お通は、信じないように、
「そんなこと、ないでしょう」
「だって、どこにも、いないもの。――立場茶屋の人に聞いても、そんなお侍は見かけないというし……きっとなにかの間違いだよ」
と城太郎は、そう落胆もしない顔つきなのである。
独りぎめに、思い過ごした歓びにはちがいないが、そう無造作に片づけられると、
お通は、
(何ていう子だろう)
と、城太郎の平気でいるのが、憎らしくなってくる。
「もっと彼方へ行ってみましたか」
「見たよ」
「そこの庚申塚の裏は」
「いない」
「立場茶屋の裏は」
「いないッてば」
城太郎が、うるさくなったようにそういうと、お通は、ふいと顔を横に向けてしまった。
「お通さん、泣いているね」
「……知らない」
「ずいぶん理のわからない人だなあ、お通さんはもっと賢い人かと思ったら、まるで嬰ンぼみたいなところもあるぜ。最初から、嘘だかほんとだか、的にはならないことだったんだろ。それを、独りで決めこんで、武蔵様がいないからって、ベソを掻いているなんて、どうかしてらあ」
一片の同情も持たないように、城太郎はかえってゲラゲラ笑うのだった。
お通は、そこへ坐ってしまいたくなった。急に世の中のすべてのものに光がなくなって、元のような――いや今までにない滅失に心が囚われた。笑っている城太郎の味噌ッ歯が、憎く見えて、腹が立って、こんな子をなんで自分が連れてあるいているのか、捨てられるものなら捨てて、たった独りぼっちで、泣いて歩いていたほうが遥かにましだと思ったりする。
考えてみると、同じ武蔵という人を捜している身の上であっても、城太郎のは、ただ師匠として慕っているのだし、彼女の求めているのは、生涯の生命として、武蔵をさがしているのである。そしてまた、こんな場合に際しても、城太郎はいつでもケロリとして、すぐ快活にかえってしまうし、お通はその反対に幾日も次の力を失ってしまう、それは、城太郎少年の心のどこかに、なアに、そのうちにきっとどこかで行き会えるにきまっていることだからという定義が据わっているからであって、お通には、そう楽天的に末を見とおしていられないのである。
(もう生涯、このまま、あの人とは、会うことも話すことも、出来ない運命なのではないかしら?)
と、悪いほうへも、やはり思い過ぎをしてしまう。
恋は相思を求めていながら、恋をする者はまた、ひどく孤独を愛したがる。それでなくても、お通には、生れながらの孤児性がある。他へ対して、他人を感じることに、どうしても人よりは鋭敏だった。
すこし拗ねて、怒ったふりを見せて、黙って先へぐんぐん歩き出して行くと、
「お通さん」
と、後ろで呼ぶ者があった。
城太郎が呼んだのではない。庚申塚の碑の裏から、枯れ草を踏みわけて来る人の大小の鞘が濡れて見えた。
十二
それは柘植三之丞であった。
さっき、あのまま坂の上へ登って行ったものとのみ思っていたのにふいに――また、往来でもないところから出て来たのである。お通にも城太郎にも、不思議な行動に見えた。
それに馴々しく、お通さんなどと呼びかけるのも、変な男だ。城太郎は、すぐ突っかかって、
「おじさん、嘘いったね」
「なぜ」
「武蔵様がこの坂下で、刀をさげて待っているなんていって、どこに武蔵様がいるかい、嘘じゃないか」
「ばか」
三之丞は、叱って、
「その嘘のために、おまえの連れのお通さんは、あの三名から遁れたのではないか。理窟をこねる奴がどこにある、またおれに対しても、一言、礼ぐらいは申すのがほんとうではないか」
「じゃあ、あれは、おじさんがあの三人を計略に乗せるためにいったでたらめかい」
「知れたこと」
「なアんだ、だからおらもいわないことじゃないのに――」
と、お通へ向って、
「やっぱり、でたらめだとさ」
聞いてみれば城太郎へわがままに怒ったのはいいとしても、あかの他人の柘植三之丞へ怨み顔する理由は毛頭ないので、お通は幾重にも膝を折って、助けてもらった好意を感謝した。
三之丞は、満足のていで、
「野洲川の野武士といえば、あれでもこの頃は、ずいぶんおとなしくなった方だ。あれに狙われては、この山街道から無難に出ることは恐らくできまい。――だが、最前この小僧から話をきけば、おまえたちの案じている宮本武蔵という者、心得のある者らしいから、むざむざその網にかかるようなドジも踏むまい」
「この街道のほかに、まだ江州路へ出る道が、幾すじもありましょうか」
「あるとも」
三之丞は、真昼の空に澄んでいる冬山の嶺を仰ぎまわして、
「伊賀谷へ出れば、伊賀の上野から来る道へ。――また安濃谷へ行けば、桑名や四日市から来る道へ。――杣道や間道が、三つぐらいあるだろう。わしの考えでいえば、その宮本武蔵とかいう男は、逸はやく、道をかえて危難を脱していると思うが」
「それならば、安心でございますが」
「むしろ、あぶないのは、おまえ達二人のほうだ。折角、山犬の群れから救ってやったのに、この街道を、ぶらぶら歩いていれば、いやでも野洲川ですぐまた捕まってしまう。――すこし道は嶮しいがおれについて来るがいい、誰も知らぬ抜け道を案内してやろう」
三之丞は、それから甲賀村の上を通して、大津の瀬戸へ出る馬門峠の途中まで一緒に来て、つぶさに道を教え、
「ここまで来れば、もう安心なものだ。夜は早目に泊って、気をつけて行くがいい」
と、いった。
かさねて、礼をのべて、別れようとすると、
「お通さん、別れるのだぜ」
三之丞は、意味ありげに、改めて彼女をじっと見た。そして、やや怨み顔に、
「ここまで来る間に、今に訊いてくれるか、今に訊いてくれるかと思っていたが、とうとう、訊いてくれないな」
「なにをですか」
「おれの姓名を」
「でも、柑子坂で聞いておりましたもの」
「おぼえているか」
「渡辺半蔵様の甥、柘植三之丞さま」
「ありがたい。恩着せがましくいうのじゃないが、いつまでも、覚えていてくれるだろうな」
「ええ、ご恩は」
「そんなことじゃない、おれがまだ独り者だということをさ。……伯父の半蔵がやかまし屋でなければ、邸へ連れて行きたいところだが……まあいい、小さな旅籠がある、そこの主人も、おれのことはよく知っているから、おれの名を告げて泊るといい。……じゃあ、おさらば」
十三
先の好意はわかるし、親切な人とも思いながら、その親切に少しも欣べないばかりか、親切を示されれば示されるほど、かえって厭わしくなる人間というものはよくある。
柘植三之丞に対するお通の気もちがそれだった。
(底のわからない人)
という最初の印象が妨げるせいか、わかれに臨んでも、狼から離れたように、ほっとはしたが、心から礼をいう気にもなれない。
かなり人みしりをしない城太郎さえが、その三之丞とわかれて峠を隔てると、
「いやな奴だね」
と、いった。
きょうの難儀を救われたてまえにも、そういう蔭口はいえない義理であったけれど、お通もつい、
「ほんとにね」
と頷いてしまい、
「いったいなんの意味なんでしょう、おれはまだ独り者だということを覚えていてくれなんて……」
「きっと、お通さんを今に、お嫁にもらいに行くよという謎なんだろ」
「オオいやだ」
それからの二人の旅は至って無事だった。ただ恨みは、近江の湖畔へ出ても、瀬田の唐橋を渡っても、また逢坂の関を越えても、とうとう武蔵の消息はわからないでしまったことである。
年暮の京都にはもう門松が立っていた。
待つ春の町飾りを見ると、お通は先に逸した機会をかなしむよりも、次の機会に希望をもった。
五条橋のたもと。
一月一日の朝。
もし、その朝でなければ、二日――三日――四日と七種までの朝ごとに。
あの人は必ずそこへ来ているというのである。城太郎からお通はそれを聞いている。ただ、それは武蔵が自分を待ってくれるためでないだけがさびしいといえばさびしい。しかし、なんであろうと、武蔵に会えることだけで、自分の希望は八分も九分も遂げられるようにお通は思うのだった。
(だけど、もしやそこへ?)
ふと彼女は、また、その希望を暗くするものに襲われた。本位田又八の影である。武蔵が、元日の朝から七日のあいだ、朝な朝なそこへ来ていようというのは、本位田又八を待つためなのだ。
城太郎に訊けば、その約束は、朱実に言伝けしてあるだけで、当人の、又八の耳には、入っているかいないかわからないという。
(どうか、又八が来ないで、武蔵様だけがいてくれればよいが――)
お通は、祈らずにいられなかった。そんなことばかり考えながら、蹴上から三条口の目まぐるしい年の瀬の雑鬧へ入ってゆくと、ふとそこらに、又八が歩いていそうな気がする。武蔵も歩いていそうな気がする。彼女にとっては誰よりも怖い気のする又八の母のお杉隠居も、うしろから来はしまいかなどと思う。
なんの屈託もないのは城太郎で、久しぶりに戻って見る都会の色や騒音が、無性に彼をはしゃがせてしまい、
「もう泊るの?」
「いえ、まだ」
「こんなに明るいうちから旅宿屋へついてもつまらないから、もっと歩こうよ。あっちへ行くと、市が立っているらしいよ」
「市よりも、大事な御用が先じゃありませんか」
「御用って、何の御用」
「城太さんは、伊勢から自分の背中につけて来たものを忘れたんですか」
「あ、これか」
「とにかく、烏丸光広様のお館へうかがって荒木田様からおあずかりの品をお届けしてしまわないうちは、身軽にはなれません」
「じゃあ今夜は、そこの家で泊ってもいいね」
「とんでもない――」
お通は、加茂川を見やりながら、笑った。
「やんごとない大納言様のお館、どうして虱たかりの城太さんなんど、泊めてくれるもんですか」