138・宮本武蔵「火の巻」「奔馬(9)(10)」


朗読「138火の巻50.mp3」14 MB、長さ: 約 10分 02秒

 渡辺わたなべおいばれたところから想像そうぞうすると、その五倍子染ふしぞめ小袖こそでているおとこは、この附近ふきん伊賀谷いがだに甲賀村こうがむら尊敬そんけいされている忍者にんじゃ旧家渡辺半蔵きゅうかわたなべはんぞうおいなのであろう。
らないのか」
 と、かれがいう。
らぬが? ……」
 と三名さんめいってる。
 渡辺わたなべおいは、ゆびさして、
「この柑子坂こうじざかした宮本武蔵みやもとむさしというおとこ今物々いまものものしい身支度みじたくをして、太刀たちのさやをはらい、往来おうらいって、通行つうこうものをいちいちすごい調しらべている」
「えっ、武蔵むさしが」
「おれがとおるとおれのまえへずかずかて、くから、おれは伊賀者いがもの渡辺半蔵わたなべはんぞうおいで、柘植三之丞つげさんのじょうというものだとこたえると、きゅうびて、イヤ失礼しつれいいたした、鈴鹿谷すずかたに辻風黄平つじかぜこうへい手下てしたでなければおとおりくださいとちついていうのだ」
「ほ……」
なにかあるので? ――と、おれから今度こんど質問しつもんすると、されば、野洲川やすがわ野武士のぶしてで、宍戸ししど梅軒ばいけん化名けみょうしている辻風黄平つじかぜこうへいとその手下てしたものが、このみちすじで、自分じぶん殺害さつがいしようとたくらんでいることを往来おうらい風聞ふうぶんによってったゆえ、そのぶんなれば、むざむざかれらの陥穽かんせいちるよりも、この附近ふきん足場あしばをとり最期さいごまでたたかって、にする覚悟かくごだといいはなっていた」
「ほんとか、三之丞さんのじょう
だれうそをいおう、さもなくて、宮本武蔵みやもとむさしなどというたびものをおれがろうはずはない」
 あきらかに三名さんめいかおいろが動揺どうようしはじめた。
 どうしよう?
 とはかうようにおくしたひとみがおたがいをている。
「――をつけてったがいいぞ」
 いいすてて、三之丞さんのじょうがすぐろうとすると、
渡辺わたなべおい
 あわててんだ。
「なんだ」
よわったなあ、あれは途方とほうもなくつよやつだと、親方おやかたすらいっていた」
「かなり出来できているおとこにはちがいない。さかしたで、こう抜刀ぬきみげて、ぐっとまえってられたときは、おれですらいや気持きもちがしたからな」
「なんとしたものだろう? ……じつ親方おやかたのいいつけで、野洲川やすがわまでこのおんなをしょッいてゆく途中とちゅうだが」
「おれのったことか」
「そういわないで、してくれ」
ぴらだ、おまえたちの仕事しごとに、うでしてやったなどとれたら、伯父おじ半蔵はんぞうから大叱言おおこごとるにちがいない。――だが、智恵ちえだけならしてやらないものでもない」
かせてくれ、それだけでも有難ありがたい」
縄付なわつきにしてれているそのおんなを、どこかこのちかくのやぶなかに――そうだへでも一時縛いちじしばりつけておいて――身軽みがるになっておくことがさきだ」
「ウム、そして」
「このさかとおれない。すこしまわりになるが、谷道たにみちをわたって、はやく野洲川やすがわへこのことをげ、なるべく遠巻とおまきにしておいてからくだすのだな」
「なるほど」
「よほど、大事だいじをとらないと、相手あいてにものぐるいだ、ずいぶん死出しでみちづれが出来できるだろう。そうしたくないものだな」
 三名さんめいは、にわかに、
「そうだ、そうしよう」
 おつうからだを、やぶきずりこんで、へくくりつけたうえ一度去いちどさりかけたが、またもどってて、彼女かのじょかおさるぐつわをませ、
「これでよかろう」
「よしっ」
 そのままみちのないところをあるいて、姿すがたをかくしてしまった。
 保護色ほごしょくなかにじっとかがみこんでいた城太郎じょうたろうは、もうよい時分じぶん――とやぶなかからそっとくびしてまわした。

 だれもいない――往来おうらいものも――渡辺わたなべおい三之丞さんのじょうももうえない。
「おつうさん」
 城太郎じょうたろうは、やぶなかを、おどってた。彼女かのじょ縄目なわめいてやると、そのっぱって、さか途中とちゅうへ、ころげした。
げよう」
城太郎じょうたろうさん……どうしておまえは、そんなところに」
「どうだっていいじゃないか。いまのうちだ、はやくこう」
「ま、って」
 みだれた黒髪くろかみや、えりもとや、腰紐こしひもなどをなおして、容姿すがたをつくろっていると、城太郎じょうたろうしたうちして、
「お洒落しゃれなんかしているときじゃないぜ、かみなんかあとにおしよ」
「……でも、このさかしたけば武蔵様むさしさまがいると、いまここをとおったひとがいったでしょう」
「だから、お洒落しゃれをするの」
「いいえ、いいえ」
 おつうは、おかしいほど真面目まじめになって、それにたいして弁明べんめいする。
武蔵様むさしさまにおいできさえすれば、もうこわいものはないからですよ。私達わたしたち難儀なんぎもすでにったものと、安心あんしんしてたものだから……わたし落着おちついているんです」
「だけど、このさかしたで、武蔵様むさしさまったというのは、ほんとのことかしら?」
「そういって、あの三人さんにんと、ここではなしていたおかたは、どこへってしまったのでしょう」
「いないや」
 まわして――
へんひとだなあ」
 と、城太郎じょうたろうはつぶやいた。
 しかし、とにかく二人ふたりがこうしてとらくちからたすかったのは、あの渡辺わたなべおいとかいう柘植つげ三之丞さんのじょうのおかげであったことに間違まちがいはない。
 ――このうえでまた、武蔵むさしえたならば、なんとそのひとれいをいってよいかなどと、おつうこころはもうそんなことまでかんがえる。
「さ、きましょう」
「お洒落しゃれはもういいの」
「そんなことをいうものではありませんよ、城太じょうたさん」
「だって、うれしそうだもの」
自分じぶんだって」
「それは、うれしいさ、うれしいからおれは、おつうさんみたいにかくしたりなんかしないさ。――おおきなこえでいってみようか、おらアうれしいっ!」
 そして、手足てあしおどらせて、
「でも、もしかして、お師匠様ししょうさまがいなかったらつまらねえな。さきってつけてみるよ、ネ、おつうさん」
 とした。
 柑子坂こうじざかを、おつうあとからりてった。さきけてった城太郎以上じょうたろういじょうに、こころさかしたんでいたが、かえってあしいそがないのである。
(――こんな姿すがたで)
 おつうている自分じぶんあしおとし、つちによごれているたもとをながめた。
 そのたもとにたかっていたって、指先ゆびさきもてあそびながらあるいてゆくと、かれていたしろ綿わたなかから、不気味ぶきみむしこうった。
 やまなかそだったくせに、おつうむしきらいだった。ぎょっとしてはらった。
「おいでようっ、はやく。――なにをのそのそあるいているのさあ」
 さかしたから城太郎じょうたろういきおいのいいこえだった。あの元気げんきのいいこえ様子ようすでは、さては、武蔵むさしつかったものとみえる。――おつうかれ声占こえうらないからすぐさっして、
「アア、とうとう」
 きょうまで自分じぶんというものを、ふとこころのうちでなぐさめ、ついとどいた一心いっしんたいして、われへともなく、かみへともなく、ほこりたかった。よろこびにむねおどらさずにいられなかった。
 ――だが、それは、女性じょせい自分じぶんだけが前奏ぜんそうしているよろこびにすぎないことをおつうはよくっている。ったにせよ、武蔵むさしが、自分じぶん一心いっしんを、どの程度ていどまでうけれてくれるだろうか。彼女かのじょは、武蔵むさしうよろこびとともに、武蔵むさしってのかなしみにも、むねいたんでるのであった。