137・宮本武蔵「火の巻」「奔馬(7)(8)」


朗読「137火の巻49.mp3」12 MB、長さ: 約 8分 43秒

 もう街道かいどうには往来おうらいものがぼつぼつとおりはじめていたのである。だれていして、この滅茶苦茶めちゃくちゃはしってゆくうま乗手のりてめてやればよいのに、だれもいらざることにして怪我けがでもしてはというように、
「なんだい、あれは?」
 と、見送みおくったり、
阿呆あほうッ」
 とみちばたへかわして、城太郎じょうたろうのうしろへ、叱言こごとびせたりするものしかなかった。
 またたく三雲みくもむら夏身なつみ立場たてば
 觔斗雲きんとうんった孫悟空そんごくうならば、小手こてをかざして、そのあたりから見渡みわたせる伊賀甲賀いがこうか峰々谷々みねみねたにだにあさげしきを俯瞰ふかんし、布引ぬのびきやまや、横田川よこたがわ絶景ぜっけいしょうしながら、はるかにはまた、一面いちめんかがみか、一朶いちだ紫雲しうんかとまごう琵琶びわみずうみ見出みいだしていたろうに――はやさは觔斗雲きんとうんおとらないまでも、そんな他見よそみなどは、城太郎じょうたろうにはちっとも出来できない。
「――めてくれッ、めてくれッ、めてくれえッ」
 あぶないあぶないが、いつのまにかめてくれにかわっていた。そのうちに柑子坂こうじざか急勾配きゅうこうばいうえからかかると、俄然がぜん
たすけてくれえッ」
 とまたかわって、逆落さかおとしにけてゆくうま背中せなかで、かれからだまりみたいにはずし、いよいよここらで、大地だいちへたたきてられてゆくのがオチであろうとおもわれた。
 ところが、さか七合目ななごうめあたりに、がけよこからているむくかしわか、なにしろ喬木きょうぼく一枝ひとえだが、わざとみち邪魔じゃましているようによこていた。そのえだがバサッとかおさわると、城太郎じょうたろうは、このこそ自分じぶんこえてんつうじてばしてくれたすくいのかみおもったのか、途端とたんうまからかえるのようにこずえへかじりついてしまった。
 うまは、空身からみになると、なおさらいきおいをくわえてさかしたんでってしまうし、城太郎じょうたろう当然とうぜんこずえ両手りょうてをかけて、ちゅうをしているほかはない。
 ちゅうといっても、地面じめんからものの一丈いちじょうとはない空間くうかんであるから、すぐはなしてしまえば、なんのこともなく地上ちじょうかえれるのに、そこは人間にんげんさるでない証拠しょうこである。あいすべきご愛嬌あいきょうというもので、さすがの城太郎じょうたろう頭脳あたまがすこしどうかなっているにちがいない。ちては生命いのちがないように、必死ひっしになって、あしをからんだり、しびれるちかえたり、自分じぶんからだをもてあましている。
 そのうちに、ぽきッと生木なまきけるひびきがしたので――かれは、しまったとおもったらしいが、なんなくからだ大地だいちすわっているので、城太郎じょうたろうはかえって、ぽかんとしてしまった。
「アふッ……」
 うまはもうえない。えたって二度にどもあるまい。
 ややしばらく、そこでこしかしていたが、ほうげられたように、がって、
「――おつうさアん?」
 と、さかうえむかってさけぶ。
「おつうさアん――」
 みちをもどって、きゅうしたかれは、容易よういならない大事だいじけつけてくかのような血相けっそうで、こんどは木剣ぼっけんをにぎりしめた。
「どうしたろう? おつうさんは。――おつうさあんっ、おつうさあん!」
 出会であいがしらに柑子坂こうじざかうえからりてきた編笠あみがさひとがあった。五倍子染ふしぞめ着物きものており、羽織はおりはまとわず、革袴かわばかま草履ぞうりというごしらえ――もちろん大小だいしょうよこたえている。

「これ、子供子供こどもこども
 擦違すれちがいに、その五倍子染ふしぞめ小袖こそでおとこをあげ、小粒こつぶ城太郎じょうたろう丁寧ていねい足元あしもとから見上みあげて、
「どうかしたのか?」
 と、たずねた。
 城太郎じょうたろうもどってて、
「おじさん、彼方あっちからたんだろ?」
「いかにも」
二十歳はたちぐらいなきれいなおんなひとなかったかい」
「ウムかけた」
「え、どこで」
「このさき夏身なつみ立場たてばわかおんななわつきにしてあるいていた野武士のぶしがある。おれも不審ふしんおもったが、ただ理由わけはないからだまって見過みすごしてたが、おおかた鈴鹿谷すずかだに部落ぶらくうつした辻風黄平つじかぜこうへい仲間なかまだろうとおもうが」
「そ、それだ」
て」
 そうとする城太郎じょうたろうをまたよびめて、
「あれは、おまえのれのものか」
「おつうさんというひとだ」
下手へたなまねをすると、おまえのいのちがないぞ。それよりも、やがてあの連中れんちゅうがここをとおるのはわかりきっているのだから、おれに仔細しさいはなしてみないか。いい智恵ちえをかしてやらないでもないぞ」
 城太郎じょうたろうは、すぐその人間にんげん信頼しんらいをおいた。今朝けさからの始末しまつをつぶさにはなしてかせた。五倍子染ふしぞめおとこは、編笠あみがさのうちでいくたびもうなずいて、
「なるほど、よくわかった。だが、あの宍戸ししど梅軒ばいけん変名へんめいしている辻風黄平つじかぜこうへい仲間なかまをあいてにして、女子供おんなこどものおまえたちが、いくらがみをしたところでとても無益むえきだ。よし、おれがおつうさんとやらをあの仲間なかまからもらってやろう」
「くれる?」
「ただではくれないかもれぬ。そのときにはまた、かんがえがあるから、おまえはこえさずに、そこらのやぶなかしずんでおれ」
 城太郎じょうたろうがかくれると、そのおとこさかしたへすたすたとってしまうのだ。あんなことをいって、ひとよろこばせておきながら、げてしまうのではなかろうか。城太郎じょうたろうは、不安ふあんになって、やぶなかからくびした。
 さかのうえから人声じんせいきこえてきたので、かれはあわててくびをひっめた。――おつうこえみみへひびいてる。両手りょうてをうしろにしばられて、三人さんにん野武士のぶしにかこまれながらあるいて彼女かのじょのすがたも、やがてのまえにえたのだった。
なにをキョロキョロしているのだ、はやくあるけ」
あるかねえかっ」
 一人ひとりおとこが、おつうかたいてののしった。おつう坂道さかみちななめによろめいて、
「わたしのれをさがしているんです。あのは、どうしたろ。城太じょうたさアン」
「やかましい」
 おつうしろ素足すあしからていた。城太郎じょうたろうは、ここにいると呶鳴どなってそうとおもったが、そのとき先刻さっき五倍子染ふしぞめさむらいが、こんどは編笠あみがさをどこかへてて、二十六にじゅうろく七歳しちさいかとえるいろ浅黒あさぐろおもざしに、わきもふらない血相けっそうをたたえて、
「たいへんだっ――」
 ひとごとをもらしながらさかしたからがってた。みみにとめて、三名さんめいのほうはさか途中とちゅうあしをとめた。――御免ごめんといってすれちがって五倍子染ふしぞめをふりかえって、
「おいっ、渡辺わたなべおいじゃないか。――なにが大変たいへんなのだ? なにが? ……」