135・宮本武蔵「火の巻」「奔馬(3)(4)」


朗読「135火の巻47.mp3」14 MB、長さ: 約 10分 08秒

だれだろ」
わたしたちのことかしら」
 こまめてふりかえると、けむりのようなしろもやのうちから、一個いっこ人間にんげんがだんだんそのかげくあらわし、やがて輪廓りんかくだのいろだの、年頃としごろ人態にんていまでえるほどに、距離きょりちぢめてた。
 よるだったらちかづかぬあいだに、二人ふたりあしをおどらせたかもれない。なが野太刀のだちだかみ、鎖鎌くさりがま前差まえざしびているこわおとこだった。
 かぜがふいてたようにそのおとこからだからはげしい空気くうきがうごいていた。いきなりおつうのそばへあしめたのである。そしておつうっている手綱たづな咄嗟とっさくり、
りろっ」
 かおは、城太郎じょうたろうけて、命令めいれいするのだった。
 かつ、かつ、かつ、ととしよりうまがまたおびえて後退あとずさりするので、城太郎じょうたろうたてがみにしがみつきながら、
「な、なにさ! 無茶むちゃなことすんないっ、……このうま、おらがりてるうまだぞ」
「やかましい」
 鎖鎌くさりがまは、みみさない。
「これおんな
「はい」
「おれは、せき宿しゅくからちょっとんだところの雲林院うじいむらにいる宍戸ししど梅軒ばいけんというものだが、すこしわけがあって、この街道かいどうを、今朝暗けさくらいうちにげていった宮本武蔵みやもとむさしというものいかけてたのだ。もう相手あいてはとうに水口みなぐち宿場しゅくばえているだろう、どうしても、江州口ごうしゅうぐち野洲川やすがわあたりで彼奴きゃつつかまえなければならねえ。……そのうまを、おれにゆずれ」
 ことばのはやいのみで、肋骨あばらなみっていうのだった。もや樹々きぎのこずえにからんでこおりはなになるというさむさなのに、れば梅軒ばいけんのどくびは、爬虫類はちゅうるいはだのように汗光あせびかりがしてふと血管けっかんがさらにふくれている。
 ――すくんだままからだ血液けつえきをみな大地だいちいこまれてしまったように、おつうかおているまに異様いようしろくなってしまった。もいちど、みみをよくそばだててなおしたいようにむらさきばんだくちびるがわななきかけたが、にわかに、ものもいえない面持おももちなのである。
「……む、武蔵むさしだって」
 うまから城太郎じょうたろうはこう口走くちばしった。たてがみにしがみついたまま、ぶるぶるあしもふるわしていた。
 さきいそぐことに焦心あせりきっている梅軒ばいけんには、ただではありなそうな二人ふたり刹那せつなおどろきもにはとまらないらしく、
「さ、小僧こぞうっ。――りろ、りろ。ぐずぐずしていると、ひっぱたくぞ」
 手綱たづなはしむちにしておどすと、城太郎じょうたろうは、つよくくびよこって、
いやだっ!」
「イヤだと」
「おれのうまだ、このうまで、さきったひといつこうたってそうはゆかない」
女子供おんなこどもおもって理由ことをわけていうのに、わっぱめ、つけがってなにをいうか」
「なあ、おつうさん」
 と、梅軒ばいけん頭越あたまごしに、
「このうまは、わたせないね、このうまわたしちゃいけないね」
 おつうは、城太郎じょうたろうのそのことばを、健気けなげめてやりたかった。もとより、このうまはおろか、この人間にんげんをも、さきへやってはならないとおもって、
「そうです、そちらもおいそぎかりませんが、わたしたちもさきいそからだです。もうすこてば、とうげがよいのうま駕籠かごもいくらもありましょう。ひとっているものをうばっておでになろうとしても、いまもそこのがいうとおり、理不尽りふじんです、そうはなりません」
「おれも、りない。んだって、このうまはなすものか」
 二人ふたりは、しかと、気持きもちむすって、梅軒ばいけんもとめをねた。

 おつう城太郎じょうたろうのふたりがこころあわせて、敢然かんぜんとそうした態度たいどたのは、梅軒ばいけんにもやや意外いがいではあったろうが、もとよりこのおとこかられば、そんな反抗はんこうは、おかしくなるくらいなものだった。
「じゃあどうしても、このうまはおれにゆずらねえというのか」
れたことだ!」
 城太郎じょうたろう語気ごきはまるで大人おとなのいいぐさだった。
野郎やろうっ」と、梅軒ばいけん大人おとなげなくわめいたのも、あながち無理むりではない。
 うまへとびがって、たてがみへしがみついているのみみたいな城太郎じょうたろうつまんでてようとしたのである。いきなりうまはらにあるかれ片足かたあしった。
 こんなときこそくべきものであるこし木剣ぼっけん城太郎じょうたろうはすっかりわすれているらしい。自分以上じぶんいじょう強敵きょうてきわかっているてきに、あしくびをつかまれると、ただ逆上ぎゃくじょうしてしまって、
「かッ! 畜生ちくしょうっ」
 梅軒ばいけんかおむかって、つづけさまにつばきつけた。
 生涯しょうがい大変たいへんはいつっていてくるかわからない。たったいまむかって、きているよろこびをおもった生命せいめいが、くろ戦慄せんりつくるまれているのである。おつうはこんなところで、こんなおとこのために、怪我けがをするのはいやだし、ぬのはなおいやだとおもった。おそろしさにくちなかくなってかわいてしまった。
 ――だがあやまりをれて、このおとこに、うまわたにはどうしてもなれない。このおとこ凶暴きょうぼう害意がいいは、このみちさきとおってったという武蔵むさし背後うしろせまるものである。なにおおきな危険きけんが、武蔵むさしっていることにちがいないのである。このおとこを、一時いちじここでおくらせれば、武蔵むさし一時いっときだけさき危険きけんのがれてくことができる。
 たといその距離きょりは、折角せっかくひとすじのみちにかかっている自分じぶん武蔵むさしとのあいだをまたたちまとおくしてしまうものであるにせよ――このおとこ奔馬ほんばあしあたえることはだんじて出来できないと、朱唇しゅしんんで意思いしするのであった。
「なにするんです!」
 自分じぶん勇気ゆうき無謀むぼうおどろきながらおつうは、梅軒ばいけんむねつよいた。かおつばをこすっているところへまた、よわいとおもったおんなのそのつよだったので梅軒ばいけんもちょっとたじろいだ恰好かっこうであった。それのみでなく、おんな度胸どきょうというものは、いつもおとこ意表外いひょうがいるもので、梅軒ばいけんむないたをいたおつうは、すぐつぎ瞬間しゅんかんに、梅軒ばいけんびている野太刀のだちのつかをにぎっていた。
阿女あまッ」
 えて、そのくびを、梅軒ばいけんおさえようとしてにぎると、そこはもう鯉口こいくちはしりかけていた白刃しらは部分ぶぶんだったので、れたとたんに、梅軒ばいけん右手みぎて小指こゆび薬指くすりゆび二本にほんはじけるようにれてとも地上ちじょうへこぼれた。
「――ア!」
 おもわずあとゆびおさえて退いたので、みずかさやいたことにもなって、おつうにはみずもたまらぬようなひかりいてさッとうしろへかくされた。
 いやしくも一道いちどうたっしている宍戸ししど梅軒ばいけんとして、これはゆうべの不覚以上ふかくいじょう不覚ふかくであった。のッけから女子供おんなこどもんでかかったことが重大じゅうだい原因げんいんだったことはいうまでもない。
 ――しまったと自己じこ不覚ふかくしかりながら、立直たちなおろうとしたところへ、もうなにもこわくなくなっているおつうから、野太刀のだちよこなぐってたのであった。けれどそれは三尺さんじゃくちかいもので、いわゆる胴田貫どうたぬきという分厚ぶあつ刃金はがねである。一人前いちにんまえおとこでも、そうたやすくはれないものなので、梅軒ばいけんわされると、当然とうぜん、おつうなみえがいて、自分じぶんったかたな自分じぶんからだよろめかせてしまった。
 ――そして、ごつんとったようなひびきをうでかんじると、赤黒あかぐろしおが、かおへかぶってるようにパッとえて、彼女かのじょくらむような心地ここちがした。城太郎じょうたろうのしがみついているうましりやいばれてしまったのである。