134・宮本武蔵「火の巻」「奔馬(1)(2)」


朗読「134火の巻46.mp3」13 MB、長さ: 約 9分 38秒

奔馬ほんば

 たびはじめのうちの数日すうじつ清新せいしんだった。あしのつかれなどにもならない。
 ゆうべおそく、せき追分おいわけとまった二人ふたりなのに、その二人ふたり今朝けさもまた、まだ朝靄あさもやのふかいうちに、筆捨山ふですてやまから四軒茶屋よんけんぢゃやまえへかかり、やっとそのころ自分じぶんたちの背中せなかからのぼりかけた振向ふりむいて、
「ああ、きれい――」
 しばし日輪にちりん荘厳そうごんたれてあしめていた。
 おつうかおも、あかえて、その一瞬いっしゅんれしていた。いや植物しょくぶつ生物いきものも、一切いっさいのものが、自己じこ生命せいめい充実じゅうじつほこりをもって地上ちじょうかざっていた。
「まだだれのぼってないぜ、おつうさん。今朝けさは、この街道かいどうでは、おれたち二人ふたりが、一番先いちばんさきとおるんだ」
「おかしな自慢じまんをするんですね。みちなんか、さきとおったって、あとからとおったって、おなじことじゃありませんか」
「ちがうさ」
「じゃあ、はやとおれば、十里じゅうりみち七里しちりになる」
「そんなちがいじゃないよ、あるみちでも、一番いちばん気持きもちがいいだろ。――うまのおしりや、雲助くもすけうしろからくよりも」
「それはそうだけれど、城太じょうたさんみたいに、威張いばって、自慢じまんするのはへんですよ」
「でも、だれとおっていない街道かいどうあるいていると、自分じぶん領分りょうぶんあるいているようながするんだよ」
「じゃあわたしが、おうまさきを、つゆばらいしてあげるから、いまのうちに、たくさん威張いばってあるくといい」
 おつうは、みちちていたたけをひろって、うたをうたうような気持きもちたわむれた。
したにいませエー。したにいませエー」
 まっているとばかりおもっていた四軒茶屋よんけんぢゃやから、ひとかおしたので、
「ま! いやだ」
 おつうかおあかくしてした。
「おつうさんおつうさん」
 いかけて、
殿様とのさまいてげちゃいけないよ、お手討てうちだぞ」
「もうふざけては、いや
自分じぶんがひとりでふざけているくせに」
「おまえにつりまれてしまうんじゃありませんか。あら、四軒茶屋よんけんぢゃやひとが、まだこっちをている。きっとおかしいとおもったかもしれませんよ」
「あそこへもどろう」
なにしに」
「おなかッちゃった」
「まあ、もう?」
「おひるのお握飯にぎりを、ここで半分喰はんぶんたべておこう」
「いいかげんにおしなさい。まだ二里にりとはあるいていないんですよ。城太じょうたさんとたらだまっていると、五度ごどぐらいべるんですもの」
「そのかわりおらは、おつうさんみたいに、やま駕籠かごったり、ちんったりしないからね」
「きのうは、せきとまろうとおもって、無理むりがたをいそいだからですよ。そんなこというなら、きょうはもうらない」
「きょうはおらがばんだ」
どものくせに、なアに」
うまってみたいんだよ、ねえおつうさんいいだろ」
「きょうりですよ」
四軒茶屋よんけんぢゃやに、ちんがつないであったから、あれをりてよう」
「いけません、いけませんよ、まだ」
うそいったのかい」
「だって、くたびれもしないうちにうまるなんて、贅沢ぜいたくすぎます」
「そんなこといったら、おらなんか、百日千里歩ひゃくにちせんりあるいても、くたびれることなんてないんだから、ときはありやしないぜ。……ひとがたくさんあるすとあぶないから、いまのうちにせておくれよ」
 これでは早立はやだちしても道程みちのりはかどるまい。おつうがうなずきもせぬうちに、城太郎じょうたろうはもうとおした四軒茶屋よんけんぢゃやのほうへ、大元気だいげんきもどっていた。

 四軒茶屋よんけんぢゃやというのは字義じぎどおり四軒よんけん茶屋ちゃやをさすであるが、その四軒よんけん古着屋ふるぎやのようにのきをならべているわけではない。筆捨ふですて沓掛くつかけなどの山坂やまさかへかけてよっつのやす茶屋ぢゃやがあるところから、このへん総称そうしょうして、地名的ちめいてきにそうぶのである。
「おじさんっ――」
 そこへって城太郎じょうたろう
うましとくれ」
 と、呶鳴どなった。
 けたばかりのことである。茶屋ちゃやのおやじは、この元気者げんきものにしぶいまして、
「なんじゃあ、でかいこえしくさって」
うまだよ。はやくうましておくれよ。水口みなくちまでいくらだい。やすければ、草津くさつまでってやってもいいぞ」
れ、どこのだ」
人間にんげんだ」
「かみなりのかとおもうた」
「かみなりは、おじさんのことだろう」
「よくくちをたたくだの」
馬出うまだしとくれよ」
「あのうまを、ちんたのけ。あれはちんではねえだによって、おんもうすことはできねえ」
「おんもうすことはできないのけ?」
「こんつら小僧こぞうめ」
 饅頭まんじゅうかしていた泥竈へっついしたから、おやじが、のついているまき一本いっぽんほうりつけると、それは城太郎じょうたろうにはあたらないで、軒下のきしたにつないであった老馬ろうばあしにぶつかった。
 うまうまれてからこのとしになるまで、毎日まいにち人間にんげん生活たつきつだいに、せきとうげたわらだの味噌みそだのを背負せおってかよいながら、不平ふへいもなく、睫毛まつげ白髪しらがやしかけているそのとしよりうまは、ひさしぶりでおどろいたようにいなないて、のきつほどあばした。
「この野郎やろう
 うましかるのか、城太郎じょうたろうしかったのかわからない。おやじはしてて、
「どうッ、どうッ」
 手綱たづないて、いえよこにあるってこうとすると、
「おじさん、しとくれよ」
「いかねえってに」
「いいじゃないか」
馬子まごがいねえだよ」
 そのとき、おつうそばていて、馬子まごがいなければ、ちんはさきはらい、うま水口みなくちからこっちへかえ旅人たびびと馬子まごたくしてもよいからとたのむと、おやじはおつう物腰ものごし信用しんようあらためて、それなら水口みなぐち宿場しゅくばまででも、草津くさつまででもかまわないから、うまは、ついでのある土地とちものたのんでくれといって、手綱たづな彼女かのじょわたした。
 城太郎じょうたろうしたうちして、
「ばかにしてやがら、おつうさんが、きれいなもんだから」
城太じょうたさん、おじいさんの悪口わるくちいうと、このうまいているから、おこって、途中とちゅうおとすかもしれませんよ」
「こんな耄碌馬もうろくうまおとされてたまるもんか」
れますか」
れるさ。……ただ、がとどかねえや」
「そんなふうに、うまのおしりをかかえてもだめですよ」
いて、せとくれよ」
「やっかいぼうね」
 わきした両手りょうてをさしれて、彼女かのじょうませてやると、城太郎じょうたろうは、にわかに地上ちじょう睥睨へいげいしてみたくなって、
「おつうさん、あるいておくれよ」
「あぶないこしつき」
「だいじょうぶだよ」
「じゃあ、かけますよ」
 おつう手綱たづなをとって、
「おじいさん、それでは」
 と茶屋ちゃやのきへ、うしきにいいながらあゆした。
 すると、百歩ひゃっぽかないうちに、姿すがたえないが朝靄あさもやなかから、オーイッとたかばわって、たちまいてそうなはや跫音あしおときこえた。