朗読「132火の巻44.mp3」15 MB、長さ: 約 10分 37秒
七
武蔵は夢をみていた。夢の切れ端みたいな同じ夢を何遍もみた。夢というほど纒まっている夢ではないから、幼少の頃の記憶が、何かの作用で、眠っている脳細胞の上へ虫みたいにムズムズ這い出し、神経の足の足痕が、燐色に光る文字を脳膜へ描いているかのような幻覚だった。
……とにかく、こういう子守唄を、彼は夢の中で聞いている。
ねんねしょうとて
ねる子はかわい
起きてなく子は
つらやな
つらやな
母なかせ
この子守唄は、この前ここへ立ち寄った時、良人の留守をまもって添乳していた梅軒の妻が唄っていたものであるのに、その伊勢訛りのある節がそのまま、美作の国吉野郷の、武蔵の生れた故郷で聞える。
――そして。
武蔵はまだ嬰児で色の白い三十ぐらいな女の人に抱かれているのだった。――その女の人が自分の母であると嬰児の武蔵には分っていて、乳ぶさにすがりながらその人の白い顔をふところから幼い眼が見上げている――
つらやな
つらやな
母なかせ……
自分を揺りながら母は唄っているのである。面やつれしている品のよい母の顔は、梨の花みたいに仄青かった。長い石垣には、苔の花がポチポチ見え、土塀のうえの梢は黄昏れかけていて、邸のうちから燈火がもれている。
母の二つの眸から、ぽろぽろと涙がこぼれ、その涙を、嬰児の武蔵は不思議そうに見ているのである。
――出てゆけっ。
――郷家へ帰れっ。
父の無二斎のきびしい声が家のうちからひびいて来るのだったが、その姿は見あたらない。ただ母はおろおろと、邸の長い石垣を逃げまわり、果ては英田川の河原へ出て、泣き泣き河の中へざぶざぶ歩いてゆく。
嬰児の武蔵が、
(あぶない、あぶない)
と、母にその危険を教えようとして、ふところで頻りにもがくのであったが、母はだんだん深い淵へ入って行き、暴れる児を、痛いほどひしと抱きしめて、濡れている頬をぺたりと児の頬へつけて、
(――たけぞう、たけぞう、お前はお父さんの子? お母さんの子?)
すると、岸のほうで、父の無二斎の怒る声がした。母はそれを聞くと、英田川の波紋の下に影をかくしてしまった。――嬰児の武蔵は石ころの多い河原に抛り出されていて、月見草の中でワンワン泣いている、ありッたけな声を出して泣いている。
「……あっ?」
夢と知って、武蔵は眼をさましたが、とろりとするとまた、母か他人か、その女の人の顔が、彼の夢をのぞいて、彼をさました。
武蔵は自分を産んだ人の顔を知らなかった。母は憶うが、母の面影は描けない、ただ他人の母を見て、自分の母もあんな人ではなかったろうかなどと思ってみるに過ぎない。
「……なぜ今夜は?」
酒もさめ、気も醒めて、武蔵はふと天井へ眼をひらいた。煤けた天井に、赤い光が明滅していた。――燃え残りの炉の焔がそこへ映って。
見ると、ちょうど彼の寝顔の上の辺りに、天井から吊るした風車が、宙にふわりと下がっていた。
子の土産にと、梅軒が買って来たあの風車だった。そればかりでなく、ふと気づくと、武蔵が顔までかぶっていた夜具の襟にも、母乳のにおいが深くしみこんでいたのである。――武蔵は気がついて、こういう周囲の物の気配に、思いもしなかった亡母の夢を見たのであろうと思った。そして、懐かしいものと会ったように、その風車へ見入っていた。
八
醒めてもいない、眠ってもいない、そうしたうつつの間に、うす眼を開いて、仰向いていると、武蔵はふと、そこに吊り下げてある風車に、不審を抱いた。
「……?」
風車が廻りだしたのである。
元々、廻るように出来ている風車が、廻り出したのだ、なんの不思議もないはずであるが、武蔵はギクとしたように、夜具の中から身を起しかけ、
「……はてな?」
耳を澄ました。
どこかで、そーと戸の辷る音がする、戸が閉まると、廻っていた風車は、翼をしずめて、またぴたと止まる。
この家の裏口を、先刻から頻りと人が出入りしていた。足の運びにも注意して、ミシリともせぬほど、それは密かなものだったが、戸の開け閉てに入って来るかすかな風は、暖簾をかけてある板の間を通って、ここの風車の糸へすぐひびき、鉋屑で出来ている五色の造花が、途端に蝶の感覚のように、揺れたり、顫いたり、廻ったり、止まったりするのであった。
――起しかけた頭をそっと枕へもどして、武蔵は、この家のうちの空気をじっと体で知ろうとした。一枚の木の葉をかぶって、天地の気象を、悉く知っている昆虫のように、澄み徹った神経が、武蔵の体に行きわたっていた。
自分が今――どういう危険の中にあるか、武蔵はほぼ分ってきた。――しかし、分らないのは、なんのために、自分の生命を他人が――ここの主の宍戸梅軒が、奪おうとしているのか、その理由が見つからない。
「盗賊の家か?」
最初は、そう考えた。
けれど、盗賊ならば、およそ人態と所持品の多寡を一見して知る明は持っているはずである。自分を害して、なんの所得があるか。
「恨みか?」
それも中らない。
武蔵は、結局、思い当たるものを得なかった。しかし自分の生命には刻々と或るものが迫って来つつあることが益々皮膚に感じられた。――こうしてその或るものの到来を待っているのがよいか、逆に、機先を取って起ったほうがよいか、早速、ふたつに一つの策を選ぶ必要にまで、それはすぐ側まで来ているものと見做された。
武蔵は、土間へ手を下ろした――手の先が草鞋を探っている――その草鞋は片方ずつするすると夜具のすそへ入ってしまう。
――急に、風車が烈しく旋回し出した。明滅する炉の光をうけて、クルクルと魔法の花みたいに廻った。
明らかな跫音が、家の外にも家の奥にも聞えた。武蔵の寝床をつつんで、忍びやかにそれは一つの囲みを作っていた。――やがて、暖簾のすそから、ぬっと、二つの眼が光った。膝をついて這って来る男は抜刀を持ち、一人は素槍を持って、そっと壁を撫でながら蒲団のすそのほうへ廻った。
「…………」
寝息を聞き澄ますように、ふたりの男は、ふくれている夜具を見ていた。するとまた、暖簾の蔭から、煙のように一人の者が出て来て突っ立っていた。宍戸梅軒である。左の手に鎖鎌を持ち、右の手に分銅をつかんでいた。
「…………」
「…………」
「…………」
眼と、眼と、眼と。
三人が機微な息をあわせると、まず頭のほうにいた者が、ぽんと枕を蹴とばした、すそのほうにいた男はすぐ土間へとび降りて、槍を蒲団へ向けた。
「起きろっ、武蔵」
梅軒は、分銅の鎖と拳を、後ろへ引いていった。