朗読「124火の巻36.mp3」15 MB、長さ: 約 10分 54秒
五
蟹が岩へ抱きついたように、武蔵は山の九合目にしがみついていた。
その手でも足でもが、少しでも弛んだせつなには、彼の体は、崩れてゆく岩とともに、墜ちるところまで墜ちて行かなければ止まるまい。
「ふーッ……」
満身の毛穴が呼吸をする。ここまで来ると、心臓が口の外へ出てしまうかと思うほど苦しかった。少し登っては、すぐ休む。――そして思わず攀じのぼって来た脚下を見おろすのであった。
神苑の太古の森も、五十鈴川の白い帯水も、神路山、朝熊、前山の諸峰も、鳥羽の漁村も伊勢の大海ばらも、すべてが自分の下にあった。
「九合目だ!」
温い汗が、内ぶところからむっと顔へにおう。武蔵はふと、母の胸に首を突っ込んでいるような陶酔をおぼえた。この荒い山の肌と自分の肌との差別がつかなくなって、そのまま眠ってしまいたくなった。
ざざざと、足の拇指をかけている岩がくずれた。彼の生命がピクと脈を打って、無意識に、次の足がかりを捜す。――もう一息というところの苦しさは言語に絶したものだった。それはちょうど、斬るか斬られるか、力の互角している剣と剣との対峙に似ている。
「ここだ。寸前だ」
武蔵はまた、山を引っ掻くように、手足をすすめた。
ここでへたばるような弱い意力や体力であるとすれば、兵法者として、ゆくすえ何日か、他の兵法者のために、敗れを取るにきまっている。
「畜生」
汗が岩を濡らすのであった。自分の汗で幾たびも滑りかける程になる。武蔵の体は、一朶の雲みたいに、濛々と汗にけむっていた。
「石舟斎め」
呪文のようにいいつづける。
「――日観め、沢庵坊め」
一足一足、彼は日頃自分より高い人間であると思っている者の頭を踏み越すつもりで踏みのぼって行った。山と彼とはもう二つの物ではない。こういう人間にしがみつかれたことを山霊も驚いているにちがいない。――突然、大砂利や砂を飛ばして、ぴゅうっと、山がうなった。
手で口を塞がれたように、武蔵は息が止まった。岩につかまっていても体をズズズと持って行かれそうな風圧をおぼえた。……しばらく目をつぶったままじっと俯ッ伏していたのである。
しかし、彼の心には、凱歌がみちていた。俯ッ伏したせつなに、十方無限の天空を見たのである。しかも、うッすらと夜の白みかけた雲の海には、曙色が映していた。
「かッ、克った!」
頂上を踏んだと思う途端に、彼は意志の弦もぷつんと切れたように倒れてしまったのだ。山顛の風はたえまもなく彼の背へ小石を浴びせた。
――そうして刻々、無我無性のさかいに俯ッ伏しているうちに、武蔵は何ともいえない快感に全身がかるくなって来るのを覚えた。汗でビショ濡れになっている体は頂上の大地へ慥乎と貼りついていて、山の性と、人間の性とが、この黎明の大自然の間に、荘厳なる生殖をいとなんでいるかのように、彼はふしぎな恍惚に打たれていつまでも眠っていた。
はっと、頭を擡げてみると、頭は水晶のように透明な気がする。体を、小魚のようにピチピチと動かしてみたい。
「おおうっ、おれの上にはなにものもない。おれは鷲嶺を踏んでいる!」
鮮麗な朝陽が、彼と山頂を染めていた。彼の原始人のような太い両腕は空へ突ッ張っていた。そしてたしかにこの山頂を踏みしめているところのわが二つの足をじっと見た。
ふと気がついたのである。見ればその足の甲から、青い膿汁が一升もあふれ出ているではないか。それは、またこの清澄な天界に、異な人間のにおいと、噴っ切れた万鬱の香気とを放っていた。
冬かげろう
一
子等之館に起き臥ししている妙齢の巫女たちは、もちろんみな清女であった。幼いのは十三、四歳から大きいのは二十歳ごろの処女もいた。
白絹の小袖に緋の袴は、神楽をする時の正装であって、平常、ここの館で勉強したり掃除をしている時は、大口に似た木綿の袴を穿き、袂の短い着物を着て、朝のお奉仕がすむと、めいめいが一冊ずつの書をかかえて、禰宜の荒木田様の学問所へ、国語や和歌のお稽古にゆくことが日課であった。
「あら、なんじゃろ?」
ぞろぞろと裏門から今、それへ出かけてゆく清女たちの群れの中で、一人が見つけ出したのである。
夜のうちに、武蔵がそこの蓑掛の釘へかけて行った大小と武者修行風呂敷。
「誰のやろ?」
「知らんがな」
「お侍さまの物や」
「それは分っているが、どこのお侍様やら?」
「きっと、泥棒が忘れて行ったのじゃろが」
「ま! さわらぬがよい」
まるい眼を瞠り合って、牛の皮をかぶった盗人の昼寝でも見つけたように、取り囲んで固唾をのむ。
そのうちに、一人が、
「お通様にいうて来よか」
と、奥へ走って行って、
「お師匠さまお師匠さま、たいへんですよ、来てごらんなさい」
欄の下から呼ぶと、寮舎の端にある一室から、お通は机へ筆をおいて、
「なんですか」
窓を開けて顔を出した。
小さい巫女は指さして、
「あそこへ、盗人が、刀と風呂敷を置いてゆきました」
「荒木田様へお届けしておいたらよいでしょう」
「だけど、みんな触るのを、怖がっているから、持って行かれません」
「まア、たいした騒ぎようですね。じゃあ後から私がお届けしに行きますから、皆さんは、そんなことに道草をしないで、はやく学問所へお出でなさい」
程経て、お通が外へ出て来たころには、もう誰もいなかった。炊事をする老婆と、病人の巫女が一室にしんと留守しているだけだった。
「お婆さん、これは誰の物か、心あたりがないのですか」
お通は、そう糺してみた上で、武者修行風呂敷でくくりつけてある大小を下ろしてみた。
うっかり持つと、手から落ちそうに重かった。どうしてこんな重量のあるものを男は平気で腰にさして歩かれるかと疑った。
「ちょっと、荒木田様まで、行って来ますから」
留守の婆やにいって彼女は、その重い物を両手にかかえて出て行った。
お通と城太郎の二人が、この伊勢の大神宮の社家へ身を寄せたのは、もう二月ほど前のことで、伊賀路、近江路、美濃路と、あれから後、武蔵のあとを捜しに捜しぬいた揚句、冬にかかると、さすがに女の山越えや雪の中の旅には耐えかねて、鳥羽の辺りで、れいの笛の指南をして逗留しているうち、禰宜の荒木田家で伝え聞いて、子等之館の清女たちへ、笛の手ほどきをしてくれまいかという話であった。
そこで指南することより、彼女はここに伝わっている古楽を知りたかったし、また、神林の中の清女たちと幾日でも暮してみることも好ましくて、乞わるるままに身を寄せたのであった。
その際、都合のわるいのは連れの城太郎であって、少年だからといってこの清女の寮に一緒に住むことは当然許されないので、やむなく彼は、昼間は神苑の庭掃きを命じられ、夜になると、荒木田様の薪小屋へ帰って眠っていた。