124・宮本武蔵「火の巻」「神泉(5)冬かげろう(1)」


朗読「124火の巻36.mp3」15 MB、長さ: 約 10分 54秒

 かにいわきついたように、武蔵むさしやま九合目きゅうごうめにしがみついていた。
 そのでもあしでもが、すこしでもゆるんだせつなには、かれからだは、くずれてゆくいわとともに、ちるところまでちてかなければまるまい。
「ふーッ……」
 満身まんしん毛穴けあな呼吸いきをする。ここまでると、心臓しんぞうくちそとてしまうかとおもうほどくるしかった。すこのぼっては、すぐやすむ。――そしておもわずじのぼって脚下あしもとおろすのであった。
 神苑しんえん太古たいこもりも、五十鈴川いすずがわしろ帯水たいすいも、神路山かみじやま朝熊あさま前山まえやま諸峰しょほうも、鳥羽とば漁村ぎょそん伊勢いせ大海おおうなばらも、すべてが自分じぶんしたにあった。
九合目きゅうごうめだ!」
 あたたかあせが、ないぶところからむっとかおへにおう。武蔵むさしはふと、ははむねくびんでいるような陶酔とうすいをおぼえた。このあらやまはだ自分じぶんはだとの差別さべつがつかなくなって、そのままねむってしまいたくなった。
 ざざざと、あし拇指おやゆびをかけているいわがくずれた。かれ生命せいめいがピクとみゃくって、無意識むいしきに、つぎあしがかりをさがす。――もう一息ひといきというところのくるしさは言語げんごぜっしたものだった。それはちょうど、るかられるか、ちから互角ごかくしているけんけんとの対峙たいじている。
「ここだ。寸前すんぜんだ」
 武蔵むさしはまた、やまくように、手足てあしをすすめた。
 ここでへたばるようなよわ意力いりょく体力たいりょくであるとすれば、兵法者へいほうしゃとして、ゆくすえ何日いつか、ほか兵法者へいほうしゃのために、やぶれをるにきまっている。
畜生ちくしょう
 あせいわらすのであった。自分じぶんあせいくたびもすべりかけるほどになる。武蔵むさしからだは、いちくもみたいに、濛々もうもうあせにけむっていた。
石舟斎せきしゅうさいめ」
 呪文じゅもんのようにいいつづける。
「――日観にっかんめ、沢庵坊たくあんぼうめ」
 一足一足ひとあしひとあしかれ日頃自分ひごろじぶんよりたか人間にんげんであるとおもっているものあたますつもりでみのぼってった。やまかれとはもうふたつのものではない。こういう人間にんげんにしがみつかれたことを山霊さんれいおどろいているにちがいない。――突然とつぜん大砂利おおじゃりすなばして、ぴゅうっと、やまがうなった。
 くちふさがれたように、武蔵むさしいきまった。いわにつかまっていてもからだをズズズとってかれそうな風圧ふうあつをおぼえた。……しばらくをつぶったままじっとしていたのである。
 しかし、かれこころには、凱歌がいかがみちていた。したせつなに、十方無限じっぽうむげん天空てんくうたのである。しかも、うッすらとよるしらみかけたくもうみには、あけぼのいろしていた。
「かッ、った!」
 頂上ちょうじょうんだとおも途端とたんに、かれ意志いしつるもぷつんとれたようにたおれてしまったのだ。山顛さんてんかぜはたえまもなくかれ小石こいしびせた。
 ――そうして刻々こっこく無我無性むがむせいのさかいにしているうちに、武蔵むさしなんともいえない快感かいかん全身ぜんしんがかるくなってるのをおぼえた。あせでビショれになっているからだ頂上ちょうじょう大地だいち慥乎しっかりついていて、やませいと、人間にんげんせいとが、この黎明れいめい大自然だいしぜんあいだに、荘厳そうごんなる生殖せいしょくをいとなんでいるかのように、かれはふしぎな恍惚こうこつたれていつまでもねむっていた。
 はっと、あたまもたげてみると、あたま水晶すいしょうのように透明とうめいがする。からだを、小魚こざかなのようにピチピチとうごかしてみたい。
「おおうっ、おれのうえにはなにものもない。おれは鷲嶺わしんでいる!」
 鮮麗せんれい朝陽ちょうようが、かれ山頂さんちょうめていた。かれ原始人げんしじんのようなふと両腕りょううでそらっていた。そしてたしかにこの山頂さんちょうみしめているところのわがふたつのあしをじっとた。
 ふとがついたのである。ればそのあしこうから、あお膿汁うみ一升いっしょうもあふれているではないか。それは、またこの清澄せいちょう天界てんかいに、人間にんげんのにおいと、れた万鬱ばんうつ香気こうきとをはなっていた。

ふゆかげろう

 子等之館こらのたちししている妙齢みょうれい巫女みこたちは、もちろんみな清女せいじょであった。おさないのは十三じゅうさん四歳しさいからおおきいのは二十歳はたちごろの処女むすめもいた。
 白絹しらきぬ小袖こそではかまは、神楽かぐらをするとき正装せいそうであって、平常ふだん、ここのたち勉強べんきょうしたり掃除そうじをしているときは、大口おおぐち木綿もめんはかま穿き、たもとみじか着物きものて、あさのお奉仕つかえがすむと、めいめいが一冊いっさつずつのほんをかかえて、禰宜ねぎ荒木田様あらきださま学問所がくもんじょへ、国語こくご和歌わかのお稽古けいこにゆくことが日課にっかであった。
「あら、なんじゃろ?」
 ぞろぞろと裏門うらもんからいま、それへかけてゆく清女せいじょたちのれのなかで、一人ひとりつけしたのである。
 よるのうちに、武蔵むさしがそこの蓑掛みのかけくぎへかけてった大小だいしょう武者修行風呂敷むしゃしゅぎょうふろしき
だれのやろ?」
らんがな」
「おさむらいさまのものや」
「それはわかっているが、どこのお侍様さむらいさまやら?」
「きっと、泥棒どろぼうわすれてったのじゃろが」
「ま! さわらぬがよい」
 まるいみはって、うしかわをかぶった盗人ぬすっと昼寝ひるねでもつけたように、かこんで固唾かたずをのむ。
 そのうちに、一人ひとりが、
「おつうさまにいうてよか」
 と、おくはしってって、
「お師匠ししょうさまお師匠ししょうさま、たいへんですよ、てごらんなさい」
 らんしたからぶと、寮舎りょうしゃはしにある一室いっしつから、おつうつくえふでをおいて、
「なんですか」
 まどけてかおした。
 ちいさい巫女みこゆびさして、
「あそこへ、盗人ぬすっとが、かたな風呂敷ふろしきいてゆきました」
荒木田様あらきださまへおとどけしておいたらよいでしょう」
「だけど、みんなさわるのを、こわがっているから、ってかれません」
「まア、たいしたさわぎようですね。じゃああとからわたしがおとどけしにきますから、みなさんは、そんなことに道草みちくさをしないで、はやく学問所がくもんじょへおでなさい」
 程経ほどへて、おつうそとたころには、もうだれもいなかった。炊事すいじをする老婆ろうばと、病人びょうにん巫女みこ一室いっしつにしんと留守るすしているだけだった。
「おばあさん、これはだれものか、こころあたりがないのですか」
 おつうは、そうただしてみたうえで、武者修行風呂敷むしゃしゅぎょうふろしきでくくりつけてある大小だいしょうろしてみた。
 うっかりつと、からちそうにおもかった。どうしてこんな重量じゅうりょうのあるものをおとこ平気へいきこしにさしてあるかれるかとうたがった。
「ちょっと、荒木田様あらきださままで、ってますから」
 留守るすばあやにいって彼女かのじょは、そのおももの両手りょうてにかかえてった。
 おつう城太郎じょうたろう二人ふたりが、この伊勢いせ大神宮だいじんぐう社家しゃけせたのは、もう二月ふたつきほどまえのことで、伊賀路いがじ近江路おうみじ美濃路みのじと、あれからあと武蔵むさしのあとをさがしにさがしぬいた揚句あげくふゆにかかると、さすがにおんな山越やまごえやゆきなかたびにはえかねて、鳥羽とばあたりで、れいのふえ指南しなんをして逗留とうりゅうしているうち、禰宜ねぎ荒木田家あらきだけつたいて、子等之館こらのたち清女せいじょたちへ、ふえほどきをしてくれまいかというはなしであった。
 そこで指南しなんすることより、彼女かのじょはここにつたわっている古楽こがくりたかったし、また、神林しんりんなか清女せいじょたちと幾日いくにちでもくらしてみることもこのましくて、わるるままにせたのであった。
 そのさい都合つごうのわるいのはれの城太郎じょうたろうであって、少年しょうねんだからといってこの清女せいじょりょう一緒いっしょむことは当然許とうぜんゆるされないので、やむなくかれは、昼間ひるま神苑しんえん庭掃にわはきをめいじられ、よるになると、荒木田様あらきださままき小屋ごやかえってねむっていた。