119・宮本武蔵「火の巻」「山川無限(1)(2)」


朗読「119火の巻31.mp3」14 MB、長さ: 約 10分 02秒

山川無限さんかいむげん

 東国とうごくでの名人めいじんとして、塚原つかはら卜伝ぼくでん上泉伊勢守かみいずみいせかみ代表だいひょうされていた永禄えいろくころには、上方かみがたでは京都きょうと吉岡よしおか大和やまと柳生やぎゅう二家ふたいえが、まずそれに対立たいりつしたものとられている。
 だがほかにもう一家ひといえ伊勢桑名いせくわな太守北畠たいしゅきたばたけ具教とものりがある。この具教とものりもそのみちにおいてかくれない達人たつじんであり、またよい国司こくしでもあったらしく、
ふと御所ごしょ
 といえば、かれ歿後ぼつごまでも伊勢いせ領民りょうみんはなつかしいおかたとして、そのころの桑名くわな繁昌はんじょう善政ぜんせいしたっている。
 北畠具教きたばたけとものりは、卜伝ぼくでんからいち太刀たちというものをさずけられて、卜伝ぼくでん正流せいりゅう東国とうごくにひろまらずに伊勢いせのこった。
 卜伝ぼくでん塚原彦四郎つかはらひこしろうは、ちちから家督かとくはうけたが、いち太刀たち秘伝ひでんついにゆるされなかった。そこでちち死後しご彦四郎ひこしろう郷里きょうり常陸ひたちから伊勢いせおもむき、具教とものりってこういった。
わたしちち卜伝ぼくでんより、かねていち太刀たちさずかっていますが、生前父せいぜんちちがいうには、あなたさまへもご伝授でんじゅしてあるよしおなじものか、ちがいのあるものか、異同いどうくらべて、おたがいに極秘ごくひみち探求たんきゅうしてみたいとおもいますが、おぼめしはいかがですか」
 すると具教とものりは、遺子いしである彦四郎ひこしろうが、わざりにたものとすぐさっしてはいたが、
「よろしい、おにかけましょう」
 と快諾かいだくして、いち太刀たち秘術ひじゅつせた。
 彦四郎ひこしろうはそれによって、いち太刀たちうつしとることができたが、ようするにそれはかた真似事まねごとでしかなく、元々もともとそのうつわでなかったから、卜伝流ぼくでんりゅうはやはり伊勢いせのほうにひろおこなわれ、したがってその余風よふうからこの地方ちほうには兵法へいほう達人上手たつじんじょうずいまでもたくさんに輩出はいしゅつしている――
 といったような土地自慢とちじまんは、そのくにあしれるとかならかされるところであるが、へん自慢じまんからくらべればよほどみみざわりがよいし、また見物けんぶつ参考さんこうにもなるので、いまも、桑名くわな城下じょうかから垂坂山たるさかやまへかかって道中馬どうちゅうばじょうにある旅人たびびとは、
「なるほど、なるほど」
 と、馬子まごのそうしたおくにばなしをあえてさえぎらずに、うなずいていていた。
 とき十二月じゅうにがつ中旬なかばで、伊勢いせあたたかいにしても、那古なこうらからこのとうげへくるかぜ相当そうとう肌寒はださむいが、駄賃馬だちんばっているきゃくは、奈良晒ならざらしのじゅばんに袷一重あわせひとえ、そのうえ袖無そでなし羽織ばおりをかけてはいるが、おそろしく薄着うすぎであるし、うすぎたない。
 かさをかぶる必要ひつようもないほど陽焦ひやけのしている黒顔くろがおに、これもまた、往来おうらいててもひろがありそうもない古笠ふるがさをかぶっているのだ。かみ幾日洗いくにちあらわないのかとりみたいにもじゃもじゃしていて、ただたばねてあるというだけにぎない。
駄賃だちんがもらえるかしらて?)
 と馬子まご内心ないしんで、心配しんぱいしながらせたきゃくだった。それにさきがちと辺鄙へんぴな、かえきゃくのきかない山間さんかんではあるし……と。
旦那だんな
「む? ……」
四日市よっかいちはやめのひる亀山かめやま夕方ゆうがた、あれから雲林院うじいむらくと、もうとっぷりよるになりますだが」
「ムム」
「ようがすかね」
「ウム」
 なにをいってもうなずいてばかりいるのだ、無口むくちきゃくうまから那古なこうらられている。
 それは、武蔵むさしだった。
 はるすえかたからこのふゆくれまで、どこをあしにまかせてあるいてたのか、皮膚ひふ渋紙しぶがみのように風雨ふううまり、ただふたつのだけがいよいよしろするどえる。

 馬子まごはまたたずねて、
旦那だんな安濃郷あのごう雲林院村うじいむらというと、鈴鹿山すずかやま尾根おね二里にりおくだが、そんな辺鄙へんぴなところへ、なにしにかっしゃるのじゃ」
ひとたずねに」
「あのむらには、木樵きこり百姓ひゃくしょうしかいねえはずだに」
「くさりがま上手じょうずがいると桑名くわないたが」
「ははあ、宍戸ししどさまのことかね」
「うむ、宍戸何ししどなにとかいったな」
宍戸ししど梅軒ばいけん
「そう、そう」
「あれは鎌鍛冶かまかじじゃ、そして鎖鎌くさりがまをつかうそうじゃ。すると旦那だんな武者修行むしゃしゅぎょうだの」
「うむ」
「それなら鎌鍛冶かまかじ梅軒ばいけんたずねてかっしゃるより、松坂まつざかけばこの伊勢いせきこわたっている上手じょうずがおりますがな」
だれか」
神子上典膳みこがみてんぜんというおひとで」
「ははあ、神子上みこがみか」
 武蔵むさしうなずいた。そのっていたようにおおくをわない。黙々もくもくうまられながら脚下あしもとちかづいて四日市よっかいち宿場しゅくば屋根やねながめ、やがてまちはいると屋台やたいはしりて弁当べんとうをつかう。
 ――ふとそのときかれ片方かたほうあしると、あしこうぬのしばっていた。あゆむにはすこ片足かたあしをひきずっているかたちである。
 あしうらきずんでいるのだった。それゆえにきょうはうまりてあるいているものとみえる。
 かれいま自分じぶんからだというものにたいして、日々ひび細心さいしんないたわりをほどこしていた。そうした注意ちゅういいだいていたにかかわらず、鳴海港なるみこう混雑こんざつなかで、くぎッている荷箱にばこいたみつけてしまったのである。昨日きのうからきずねつって、あしこう樽柿たるがきのように地腫じばれがしていた。
(これは、不可抗力ふかこうりょくてきだろうか?)
 武蔵むさしは、くぎたいしても、勝敗しょうはいかんがえるのだった。――くぎといえども兵法者へいほうものとして、こういう不覚ふかくをうけたことを恥辱ちじょくおもうのだった。
くぎあきらかに、うえいてちていたのだ。それをみつけたのは、自分じぶんが、うつろであって、こころつね全身ぜんしんとどいていない証拠しょうこだ。――また、あしうらきとおるまでんでしまったことは、五体ごたい早速さっそく自由じゆういていたからで、ほんとの無碍むげ自在じざいからだならば、草鞋わらじうらくぎさきれた瞬間しゅんかんに、からだおのずからそれを察知さっちしているはずである)
 自問自答じもんじとうにこの結論けつろんくだして、
(こんなことでは)
 と、自己じこ未熟みじゅく反省はんせいされ、けんからだとがまだまだ一致いっちしない――うでばかりがびてほかのからだ精神せいしん合致がっちしない――一種いっしゅ不具ふぐかんじて忌々いまいましくなるのだった。
 だが、このとし晩春ばんしゅん、あの大和やまと柳生やぎゅうしょうまっしぐらにってから――今日きょうまでのおよそ半年はんとしあいだを、けっして、無駄むだにはおくっていなかったと、武蔵むさし光陰こういんたいしてはじなくおもった。
 あれから伊賀いが近江路おうみじくだり、美濃みの尾州びしゅうあるいてここへたのであるが、先々さきざき城下じょうか山沢さんたくかれけん真理しんりまなこでさがした。
なに極意ごくいか?)
 ようやくかれもそこへあたってたのである。しかし、
(これがけん真理しんりだ)
 というようなものは、けっしてまちにも山沢さんたくにもうもれていなかった。この半年はんとし各地かくち出会であった兵法者へいほうもの幾十人いくじゅうにんれなかったし、そのなかには、きこえた達人たつじん幾名いくめいかあったが、ようするにそれはみなわざ上手じょうずであり、かたなづかいに巧者こうしゃ大家たいかばかりだった。