113・宮本武蔵「火の巻」「無常(4)旧約(1)」


朗読「113火の巻25.mp3」14 MB、長さ: 約 9分 56秒

心中しんじゅうか」
「まさか……」
 と、すくって漁師りょうしたちは、すなうえかしたふたつのからだてわらった。
 権叔父ごんおじのからだは、慥乎しっかわかおんなおびをつかんでいた。そのふたりとも、いきはなかった。
 わかおんなは、かみこそ、れてみだれていたが、まだきてるように、化粧けしょう白粉おしろい口紅べにっていた。むらさきいろになったくちびるをチラとんでわらっているのである。
「オオ、このおんなたことがあるぜ」
「さっきはまべで、貝殻かいがらをひろっていたおんなじゃないか」
「そうだ、あの宿屋やどやとまっているおんなだ」
 そこへらせにくまでもなかった。むこうから五人ごにんしてけてるのがその宿屋やどやものらしく、なかに、吉岡清十郎よしおかせいじゅうろうかおえる。
 ここのひとだかりに、さてはといきいて清十郎せいじゅうろうは、
「おっ、朱実あけみだ」
 さおになって――しかし人前ひとまえはばかるように、棒立ぼうだちにすくんでしまった。
「おさむらい、おめえのれか」
「そ、そうだ」
「はやく、みずかしてやんなせえ」
「た、たすかるか」
「そんなことをいってるに」
 と、漁師りょうしたちは、権叔父ごんおじ朱実あけみと、両方りょうほうのからだにわかれて鳩尾みぞおちしたり、をたたいたりした。
 朱実あけみは、すぐいきをふきかえした。清十郎せいじゅうろう宿舎やどものわせて、人目ひとめからげるように旅舎やどかえってった。
権叔父ごんおじよ……権叔父ごんおじよっ……」
 お杉隠居すぎいんきょは、さっきから権叔父ごんおじみみかおをつけたきりいていた。
 わか朱実あけみは、蘇生そせいしたが、権叔父ごんおじ老体ろうたいでもあるし、すこし酒気しゅきもあったので、まったく絶息ぜっそくしたものとみえる。いくらお杉隠居すぎいんきょんでも、ふたたびそのひらかなかった。
 をつくした漁師りょうしたちも、
「この老人としよりのほうは駄目だめだ」
 と、さじをげた。
 そうくと、隠居いんきょはもうなみだせなかった。せっかく、親切しんせつにしてくれる人々ひとびとへ、
なにがだめじゃ! 一方いっぽう女子おなごいきをふきかえしたのに、このものばかりきぬというほうがあろうか」
 ッてかかるようなけんまくで、しているものたちを退け、
「このばばかしてせるわ」
 と、必死ひっしになって、あらゆる手当てあてほどこすのだった。
 その一心不乱いっしんふらん様子ようすは、るもなみだぐましいほどであったが、そこらに居合いあわすものを、まるで雇人やといにんなんぞのように、やれかたわるいの、そうしてはこうがないの、けのくすりっていのと、権突けんつくとあごさき使つかうので、えんもゆかりもないはまものたちははらてて、
「なんだ、このくそばば
んだものと、気絶きぜつしたものとはちがうのだ、かせるものならかしてみろ」
 つぶやきあって、いつのにか、みなちりぢりにそこをってしまった。
 はまべはもうれかかる、うすもやおきに、橙色だいだいいろくもがわずかに夕明ゆうあかりをながしていた。ばばはまだおもあきらめようとしない。そこにいて、焚火たきびのそばへ権叔父ごんおじせ、
「おういっ、権叔父ごんおじ……権叔父ごんおじ……」
 なみくらくなった。
 やしてもやしても、権叔父ごんおじからだあたたかくならなかった。だが、お杉隠居すぎいんきょは、まだ不意ふい権叔父ごんおじくちをききすもののようにしんじてうたがわないらしく、印籠いんろうくすりんでくちうつしにふくませたり、からだをかかえてすぶったりしながら、
「まいちど、ひらいてくだされ、ものをいうてたもい。……これ、どうしたものじゃ、このばば見捨みすててさきくというほうがあろうか。――まだ武蔵むさしたずに、おつう阿女あま成敗せいばいはたさぬのに」

旧約きゅうやく

 海鳴うみなりとまつかぜにれてゆく障子しょうじのうちに、朱実あけみはうつらうつら昏睡こんすいしていた。まくらてがわれるときゅう発熱はつねつして、しきりとそれからは囈言うわごとをいう。
「…………」
 まくらうえかおよりもあおじろいかおして、清十郎せいじゅうろうはそのそば寂然じゃくねんすわっていた。自分じぶんにじったはな痛々いたいたしい苦悶くもんたいして、自責じせきこうべれたまま、さすがにかれ良心りょうしん苦悶くもんしているらしい。
 野獣やじゅうにもひとしい暴力ぼうりょくをふるって、この明朗めいろう処女おとめ本能ほんのうにして満足まんぞくかんじたのもかれという人間にんげんだし、また枕許まくらもとにつきって、精神的せいしんてきにも、肉体的にくたいてきにも、一時人生いちじじんせいうしなったその処女おとめ呼吸こきゅう脈搏みゃくはく心配しんぱいしながら、じっと、厳粛げんしゅくそのもののようにこわばっている良心的りょうしんてき人間にんげんも、おな吉岡清十郎よしおかせいじゅうろうなのである。
 一日いちにちというみじか生活せいかつのうちに、そういう矛盾むじゅんはなはだしいふたつの自己じこいきづかせながら、しかしとう清十郎せいじゅうろうは、それがかならずしもおかしくはないように、沈痛ちんつうまゆと、慚愧ざんきくちびるむすんでいた。
「……ちついてくれ、朱実あけみ。おればかりじゃない、おとことはたいがいこうしたものなのだ。……いまにおまえだってわかってくれるがある。おれのあいがあまりにはげぎたのでおまえはおどろいてしまったのだろうが」
 こういうごとを、かれは、朱実あけみたいしていうのか、自己じこをなぐさめるためにいうのか、纒綿てんめんとさっきから枕許まくらもとすわってつぶやいているのであった。
 すみをながしたように部屋へやなか陰惨いんさんとしていた。朱実あけみしろがばたんと時々夜具ときどきやぐそとる。夜具やぐをかけてやるとまた、うるさそうにそれをはらう。
「……きょうは何日なんにち?」
「え?」
あと……幾日いくにちで……お正月しょうがつ
「もう七日なのかばかりじゃないか。正月しょうがつまでにはなおるよ、元日がんじつまでに、京都きょうとかえろう」
 清十郎せいじゅうろうかおせると、
いやあ――ッ」
 突然とつぜんくように、かおうえかお平手ひらてって、
「あっちへけっ」
 と、ののしった。
 くるわしいこえつづけさまになおそのくちびるからはしるのだった。
「ばかっ、けだものっ」
「…………」
けものだ、おまえなんか」
「…………」
るのもいや
朱実あけみ、かんにんしてくれ」
「うるさいっ、うるさいっ、うるさいっ」
 必死ひっしになってしろやみつのである。清十郎せいじゅうろうくるしげにいきんでその狂態きょうたいながめていた。ややちついたとおもうとまた、
「……きょうは幾日いくにち?」
「…………」
「お正月しょうがつはまだ?」
「…………」
元日がんじつあさから七種ななくさまで、毎朝まいあさ五条ごじょうはしっていると――武蔵むさしさまからの言伝ことづてがあったのよ。どおしいお正月しょうがつ……ああはや京都きょうとかえりたい。五条ごじょうはしへゆけば、武蔵様むさしさまっている」
「……え、武蔵むさし?」
「……」
武蔵むさしとは、あの宮本武蔵みやもとむさしのことか」
 おどろいて清十郎せいじゅうろうかおのぞくと、朱実あけみはもうこたえもせぬ。あおまぶた昏々こんこんねむっているのである。
 ハラハラと松葉まつば波明なみあかりの障子しょうじつ。どこかでうまのいななきがきこえたとおもうと、そこの障子しょうじそとから燈火ともしびし、旅舎やどおんなさきてて、一人ひとりきゃく案内あんないされてた。
若先生わかせんせいは、こちらですか」