112・宮本武蔵「火の巻」「無常(2)(3)」


朗読「112火の巻24.mp3」12 MB、長さ: 約 8分 56秒

 こまった母子おやこだと権叔父ごんおじおもう。
 なんとか、隠居いんきょのきげんをなおし、又八またはちのふくれつらもなだめたいものだと、双方そうほうをつかってあるいている。
「ホ、よいにおいがするとおもったら、あれなる磯茶屋いそぢゃやで、はまぐりをひさいでおる。ばば一酌ひとしゃくやろうではないか」
 高燈籠たかどうろうちかくにある海辺うみべ葭簀よしず茶屋ぢゃやであった。のすすまないかおつきの二人ふたりさそって、
さけあるか」
 権叔父ごんおじさきはいってく。
 そして、
「さ、又八またはちもきげんなおせ。ばばもちとやかましぎるぞよ」
 さかずきすと、
みとうない」
 お杉隠居すぎいんきょは、よこく。
 みをうしなって、権叔父ごんおじはそのさかずきを、
「じゃあ又八またはち
 と、かれした。
 むッつりむッつり又八またはちはたちまち三本さんぼんほどみほしてしまう。それが老母ろうぼわないことは勿論もちろんである。
「おい、もう一本いっぽん
 権叔父ごんおじをさしいて、又八またはち四本目よんほんめもとめると、
「いい加減かげんにしやれ!」
 と、ばばしかった。
遊山ゆさんさけのむためのこのたびかよ。権叔父ごんおじも、ほどにしたがよい。幾歳いくつになっても、又八またはちおなじように、としがいもないひとじゃ」
 きめつけられた権叔父ごんおじは、ひとりでんだようにになったかおうしなって、てれかくしにまわし、
「そうじゃ、ほんにちがいない」
 のそのそさき軒先のきさきてしまう。
 そのあとはじまったらしい。又八またはちをつかまえてお杉隠居すぎいんきょ諄々じゅんじゅんたる訓戒くんかいである。このはげしくてもろ女親おんなおやうれいとあいは、わがにその本能ほんのうおこすと、とても宿屋やどやかえるまでっていられなかった。他人ひとがいようといまいとにもかけない。――又八またはちはそれにたいしてっとした反抗はんこうかおしめしてかえしている。
 いうだけいわせて、
「おふくろ」
 こんどは又八またはちからいいした。
「じゃあ、このおれという人間にんげんを、おふくろは結局けっきょく意気地いくじなしのこしぬけの、親不孝者おやふこうもの折紙おりがみつけているのだな」
「そうじゃろが、今日きょうまで、れのして行状こうじょうのどこに意気地いくじのあるところがあるかよ」
おれだって、そうくびったものじゃない。おふくろなどにわかるものか」
「わからいでか、ることおやかずじゃ。れのようなったが、本位田ほんいでん不作ふさくというもの」
「だまってていろ、まだおれはわかいのだ。ばばあめ、わるいうて、草葉くさばかげから後悔こうかいするな」
「オオ、その後悔こうかいならしてみたい。だがおそらくは、百年待ひゃくねんまってもおぼつかないことじゃろう。おもえば、なげかわしい」
なげかわしいならっていても仕方しかたがあるまい。おれからってやる」
 憤然ふんぜんと、又八またはちった。そして、ぷいと大股おおまた彼方かなたあるしてくのだった。
 ばばは、あわてて、
「こ、これっ」
 と、ふるえこえめたが又八またはちかなかった。――めてくれてもよさそうな権叔父ごんおじはまた権叔父ごんおじで、なに暢気のんきかおしてているのか、うみのほうにむかって、じっと、おおきなをすえたきりうごかない。
 そこで、ばばは、いちどげたこし床几しょうぎにもどして、
権叔父ごんおじっ、めるでない。めるでないぞよっ」

 そのこえに、
ばば
 権叔父ごんおじこたえていたが、いうことは、隠居いんきょ期待きたいとちがっていた。
「あの女子おなご、なんとも、いぶかしいわ、ちょっと、ってくれい」
 いうがはやいか、権叔父ごんおじは、はまぐり茶屋ぢゃや軒先のきさきかさほうって、まるでつるからはなたれたように、うみむかってしてった。
 隠居いんきょは、おどろいて、
阿呆あほうっ、どこへおじゃるッ、それところじゃないわ! 又八またはちがっ――」
 と、かれにつづいて十間じゅっけんほどけてったが、いそ藻草もぐさあしをからまれて、いきおいよくまえころんだ。
「ば、ばかっ」
 かおかたも、すなだらけになって、ばばきた。
 そして腹立はらだたしげに、権叔父ごんおじ姿すがたさがしていたまなこが、突然とつぜんかがみのようにおおきくなったとおもうと、
馬鹿ばかっ、馬鹿ばかっ」
 と連呼れんこして、
くるうたかっ、どこへくのじゃっ、権叔父ごんおじっ」
 と彼女かのじょまでが、正気しょうきうしなったのではあるまいかとうたがわれるような血相けっそうで、権叔父ごんおじけてったうみむかって、彼女かのじょしてったのである。
 ――ると。
 権叔父ごんおじはもううみはいっていた。このあたりはいたって遠浅とおあさなので、まだみずすねのあたりまでしかつかっていないが、夢中むちゅうになっておきおきへとけてゆくので、その飛沫しぶきは、けてゆくかれのすがたをつつみ、しろけむっている。
 ところが――その権叔父ごんおじまえにも、もう一人ひとりわかおんなが、すさまじいいきおいで、うみけこんでくではないか。
 はじめに、権叔父ごんおじがそのおんな発見はっけんしたときは、おんな松原まつばらかげにたたずんで、じっとうみあおさをつめていたが、アッ――とおもったときは、黒髪くろかみをちらしているその姿すがたは、もう飛沫ひまつって、真一文字まいちもんじうみけていたのであった。
 だがこのうらまえにもいったとおり五町六町ごちょうろくちょうおきまでしおあさいので、さきはしってゆくおんな姿すがたも、まだあし半分はんぶんほどしかかくれていない。
 しろみずけむりをびて、あか袖裏そでうら金糸きんしおびひかっている。あたかも平敦盛たいらのあつもりこましずめてくかのようにえるのだった。
おんなあッ……! おんなっ……。おういッ! ……」
 やっと、間近まぢかまでいついて、権叔父ごんおじがこう呶鳴どなったとたんに――そこからきゅうそこふかくなっているのであろう、ガボと、異様いよう一声ひとこえ水面すいめんのこして、おんなのすがたは不意ふいおおきな波紋はもんしたにかくれてしまった。
「やれ不心得者ふこころえものっ、やはりか」
 ずぶずぶと、権叔父ごんおじ同様どうように、全身ぜんしんまでしずみこんでった。

 きしでは、隠居いんきょが、波打なみうさい沿ってよこまわっていた。
 いっまつみずけむりとともに、おんなかげも、権叔父ごんおじのすがたもえなくなると、
「あれっ、あれっ、だれぞ、はやかねば、にあいはせぬっ。二人ふたりともんでしまうわッ」
 と、まるで他人ひとのせいみたいにわめいて、
「はよう、たすけにけっ、はまものっ、はまものっ」
 と、ころんだりけたり、また、まわしたり、自分じぶんおぼれるかのようにさわいでいた。