108・宮本武蔵「火の巻」「わすれ貝(1)(2)」


朗読「108火の巻20.mp3」13 MB、長さ: 約 9分 24秒

わすれがい

 潮騒しおさい夕闇ゆうやみに、木津川きづかわみなとあかそよいでいる。
 どことなく魚臭さかなくさいものがせまる。おかちかづいたのだ。ふねからばわるこえと、りくでわいわいというこえが、徐々じょじょに、距離きょりをちぢめていた。
 どぼーんと、しろなしぶきがつ。いかりほうりこまれたのである。繋綱もやいげこまれる――わたいたけられる。
「かしわでございますが」
住吉すみよし社家しゃけ息子むすこさまは、このふねにござらっしゃらぬか」
飛脚屋ひきゃくやさんはいるかね」
旦那様だんなざまあ」
 渡海場とかいば埠頭ふとうにかたまっていたむかえの提燈ちょうちんは、あかりなみつくってふねよこせまってゆく。
 そのなかを、れい美少年びしょうねんが、まれてりてった。かた小猿こざるせている姿すがたて、旅籠はたご客引きゃくひきが三人さんにん
「もしもし、さるのおとまちんは、無料ただにいたしておきますが、わたくしどもへおしくださいませぬか」
「てまえどもは住吉すみよし門前もんぜんで、ご参詣さんけいにもよし、座敷ざしき見晴みはらしも至極しごくよいお部屋へやがございますが」
 それらのものには一顧いっこもせず、そうかといってむかえにている知人ちじんもないらしく、美少年びしょうねん小猿こざるをかついで、さきにこのみなとから姿すがたしてしまった。
 それを見送みおくって、
なんんていう生意気なまいきなやつだろう。すこしばかり兵法へいほう出来できるとおもって」
「まったく、あの若造わかぞうのために、ふねなか半日はんにち、みんな面白おもしろくなくくらしてしまった」
「こっちが町人ちょうにんでなければ、あのままただでこのふねろすのじゃないが」
「まあまあ、さむらいには、たんと威張いばらせておいてやるがいいさ。かたかぜっていれば、それでむんだから他愛たあいはない。わしら町人ちょうにんは、はなひとにくれても、くらおうという流儀りゅうぎだから、今日きょうぐらいな忌々いまいましさは、仕方しかたがあるまいて」
 こんなことをいいながら、荷物沢山にもつたくさんたびすがたをそろえて、ぞろぞろりてったのはれいさかい大坂おおさか商人連あきんどれんであり、そこへは無数むすう出迎でむかえが、提燈ちょうちん乗物のりものをあつめ、一人一人ひとりひとりに、幾人いくにんかのおんなかおいていた。
 祇園ぎおん藤次とうじは、だれよりもうしろから、こっそりとおかがっていた。
 形容けいようのできないかおつきである。不愉快ふゆかいといって、きょうほど不愉快ふゆかいはなかったにちがいない。まげをちょんられたあたまには、頭巾ずきんをかぶせているが、まゆにもくちにも、暗澹あんたんとただよっている。
 と。――そのかげつけ、
「もし……ここですよ、藤次とうじさま」
 そのおんなも、頭巾ずきんをかぶっていた。渡海場とかいばってさらされていたかおが、さむさにこわばって、としをかくしているしわが、白粉おしろいうえていた。
「お、おこうか。……ていたのか」
ていたのかって、ここへむかえにているようにと、わたし手紙てがみをよこしたくせに」
「だが、にあうかどうか、とじつおもっていたものだから」
「どうしたんですえ、ぼんやりして――」
「イヤ、すこし、ふねったとみえる……。とにかく、住吉すみよしへでもって、よい宿やどつけよう」
「え、あちらに、かごれてましたから」
「そいつは有難ありがとう、じゃあ宿やどさきっておいてくれたか」
「みなさまも、ちかねているでしょう」
「え?」
 意外いがいかおして、藤次とうじは、
「オイおこう、ちょっとってくれ。おまえとここでちあったのは、二人ふたりぎりでどこかしずかないえ三日さんにちっくりしようというかんがえじゃないか。……それを、皆様みなさまとは一体いったいだれだれのことをいうのだ」

らない。わしはらない」
 祇園藤次ぎおんとうじは、むかえのかごこばんでぷんぷんおこりながら、おこうさきあるいていた。
 おこうなにかいうと、
「ばかっ」
 と、ものをいわせない。
 かれをして、こう立腹りっぷくさせた原因げんいんは、おこうげたあたらしい事情じじょうにももとづくが、すでにふねなかからもやもやしていた鬱憤うっぷんが、あわせていま爆発ばくはつしたことはいなめない。
「おれは、一人ひとりとまるっ。かごなんかかえせ。なんだ。ひとらないで、ばかっ、ばかっ!」
 と、たもとはらう。
 かわまえ雑魚ざこ市場いちばは、みなまって、さかなうろこが、かいをちらしたように、くら長屋ながやひかっていた。
 そこまでると、人影ひとかげすくなくなったので、おこうは、藤次とうじきついた。
「およしなさい、ッともない」
はなせっ」
一人ひとりとまったら、あっちがへんなものになりますよ」
「どうにでもなれっ」
「そんなこといわないで」
 白粉おしろいかみかおりの、つめたいほおが、藤次とうじほおりついた。藤次とうじはややたび孤独こどくからよみがえった。
「……ネ、たのみますから」
「がっかりした」
「そうでしょう、だけど、二人ふたりにはまたいいおりがあるでしょう」
「おれは、せめて大坂おおさか三日さんにち二人ふたりぎりと、たのしみにしていたのだ」
わかってますよ」
「わかっているなら、なぜほかものってたのだ。おれおもっているほど、おまえはおれおもっていないからだろう」
 藤次とうじめると、
「また、あんな……」
 と、おこうはうらめしげなをこらして、きたいようなかおをしてせる。
 彼女かのじょのいいわけは、こうだった。
 藤次とうじから飛脚ひきゃくると、彼女かのじょ勿論もちろん自分じぶんだけで大坂おおさかるつもりだった。ところがおりわるく、吉岡清十郎よしおかせいじゅうろうがそのもまた、ろく七名しちめい門人もんじんれて「よもぎのりょう」へみにて、いつのまにか、朱実あけみくちから、そのことをいてしまい、
藤次とうじ大坂おおさかくなら、わしらもむかえにってやろうじゃないか)
 といいした。それに調子ちょうしをあわせるれんおおく、
朱実あけみけ)
 と、いうさわぎになってしまい、いやともいえずおこう一行十人いっこうじゅうにんほどのなかじって住吉すみよし旅館りょかん落着おちつき、一行いっこうあそんでいるあいだに、自分じぶんだけ一人ひとりかごってここへむかえにたのだという。
 ――いてみれば、事情じじょうはやむをないものだったが、藤次とうじくさりきってしまった。今日きょうという迷信めいしんがわきおこるほど、なにか、あとにもさきにも、不愉快ふゆかいばかりがかんがえられた。
 第一だいいちおかむとすぐ、清十郎せいじゅうろうだの同輩どうはいだのに、旅先たびさき首尾しゅびかれることがつらい。
 いやもっといやなことは、この頭巾ずきんぐことである。
なんといおう)
 かれは、まげのないあたまんだ、かれにもさむらいというものの面目めんぼくはある。ひとられないはじならいてもよいが、ひとにわかるはじ重大じゅうだいおもう。
「……じゃあ仕方しかたがない、住吉すみよしくからかごれてい」
ってくれますか」
 おこうはまた、渡海場とかいばのほうへ、もどった。