104・宮本武蔵「火の巻」「美少年(2)(3)」


朗読「104火の巻16.mp3」13 MB、長さ: 約 9分 38秒

 それらのあじきないかおつきのくみなかに、一人ひとり少年しょうねんじっていた。
「これ、じっとしておれ」
 荷梱にごおりかかって、冬日ふゆびうみむかいながら、ひざうえなにやらまるっこいだらけなものいている。
「ホ。可愛かわい小猿こざるを」
 と、そばのものがさしのぞいて、
「よくれてござるの」
「は」
ながくおいになっているのであろうな」
「いえ、ついこのごろ、土佐とさから阿波あわえてくるやまなかで」
つかまえられたのか」
「そのかわり、親猿おやざるれにいかけられて、ひどいにあいました」
 はなしわしながらも、少年しょうねんは、かおげない。小猿こざるひざあいだはさんで、のみつけているのだった。
 前髪まえがみむらさきひもをかけ、派手はでやかな小袖こそでへ、らしゃの胴羽織どうばおりまとっているので、少年しょうねんとはえるものの、年齢としのほどは、少年しょうねんという呼称こしょうてはまるかどうか、保証ほしょうのかぎりでない。
 煙管きせるにまで、太閤張たいこうばりというのが出来できて、一頃ひところ流行はやったように、こういう派手派手はではでしい風俗ふうぞくも、桃山全盛ももやまぜんせい遺風いふうであって、二十歳はたちをこえても元服げんぷくをせず、二十五にじゅうごろくぎても、まだ童子髪どうじがみって金糸きんしをかけ、さながらまだ清童せいどうであるかのような見栄みえならいが、いまにいたってもかなりのこっているからである。
 だからこの少年しょうねんも、一概いちがいなりをもって、未成年者みせいねんしゃることはできない。からだつきからしても、堂々どうどうたる巨漢きょかんであるし、いろ小白こじろくて、いわゆる丹唇たんしん明眸めいぼうであるが、眉毛まゆげくて、眉端びたんじりからひらいてうえねている。なかなかきついかおなのだ。
 けれどまた――
「これ、なぜうごく」
 と、小猿こざるあたまって、さるのみとりに他念たねんのない様子ようすなどは、なかなかなくもある。なにもそう年齢とし詮索せんさくばかりにやむこともないが、あれこれ綜合そうごうしてその中庸ちゅうようをとって推定すいていすれば、まず十九じゅうくか、二十歳はたちというところでなかろうかとおもわれる。
 さてまた、この美少年びしょうねん身分みぶんはというと、もとよりたびいでたちで、革足袋かわたびにわらじ穿きだし、どこといっておさえどころもないが、歴乎れっきとした藩臣はんしんでなく、牢人ろうにん境界きょうがいであることは、こういう船旅ふなたびにおいて、ほかの山伏やまぶしだの傀儡師くぐつしだの、物乞ものごいのようなボロさむらいだの、あかくさい庶民しょみんなかじって、気軽きがるにごろごろしているていをみても、およそ想像そうぞうはつく。
 だが、牢人ろうにんにしては、ちょっと立派りっぱなものをひとけている。それは、緋羽織ひばおりなかへ、革紐かわひもななめにっている陣刀じんとうづくりの大太刀おおたちである。りがなくて、竿さおのようにながい。
 ものがおおきいし、こしらえが見事みごとなので、その少年しょうねんのそばへったものは、すぐ少年しょうねんかたごしにつかそびえているそのかたながつくのだった。
「――いいものっている」
 そこからすこはなれたところから、祇園ぎおん藤次とうじも、さっきから見恍みとれていた一人ひとりであった。
京洛みやこでもちょっとない」
 とおもう。
 かたなのすぐれたものると、そのぬしから、とおくは、その以前いぜん経歴けいれきまでがかんがえられてゆく。
 祇園藤次ぎおんとうじは、おりがあったら、その美少年びしょうねんへ、はなしかけてみたいとおもっていた。
 ――ふゆ昼靄ひるもやにうすずいて、よくのあたっているしま淡路あわじは、とものかなたに、だんだんとおくなってゆく。
 はたはたと、おおきなひゃく反帆たんぽは、きもののように、船客せんきゃくたちのあたまうえ潮鳴しおなりをってっていた。

 藤次とうじたびんでいた。
 なま欠伸あくびる――
 きのきたたびほど他人たにん世界せかいかんじるものはない。祇園藤次ぎおんとうじは、そのきしたたびを、もう十四日じゅうよっかもつづけてたあげくのこの船中せんちゅうであった。
「――飛脚ひきゃくにあったかしらて? ……にあえば、大坂おおさか船着場ふなつきばまで、むかえにているにちがいないが」
 と、おこうかおおもかべて、せめてもの無聊ぶりょうをなぐさめてみる。
 さしも、室町将軍家むろまちしょうぐんけ兵法所出仕へいほうじょしゅっしとして、名誉めいよざいと、両方りょうほうにめぐまれて吉岡家よしおかけも、清十郎せいじゅうろうだいになって、放縦ほうじゅう生活せいかつをやりぬいたため、すっかり家産かさんかたむいてきた。四条しじょう道場どうじょうまで、抵当ていとうはいっているので、この年暮くれには、町人ちょうにんられるかもれないといううちふところ。
 年暮くれちかづいて、あっちこっちからててくる負債ふさいをあわせると、いつのまにか、途方とほうもない数字すうじにのぼっていて、父拳法ちちけんぽう遺産いさんをそっくりわたして、編笠一あみがさひとかいで退いても、なお、らないくらいな実情じつじょうっていた。
(どうしたものか)
 という清十郎せいじゅうろう相談そうだんである。この若先生わかせんせいをおだてて、さんざんつかわせた責任せきにん一半いっぱん藤次とうじにもあるので、
(おまかせなさい、うまく整理せいりをつけておにかけましょう)
 狡智こうちをしぼって、かれ案出あんしゅつしたのが、西洞院にしのとういん西にし空地あきちへ、吉岡流兵法よしおかりゅうへいほう振武閣しんぶかくというものを建築けんちくするというあんで――社会しゃかい実態じったいかんがみるに、いよいよ武術ぶじゅつさかんになり、諸侯しょこう武術家ぶじゅつか要望ようぼうしている。このさいおおくの後進こうしん養成ようせいするために、従来じゅうらい道場どうじょうをさらに拡大かくだいして、流祖りゅうそ遺業いぎょうをして、もっと天下てんかにあまねからしめなければならぬ――それはまた、われわれ遺弟いてい当然とうぜんなさなければならない義務ぎむでもある。
 そんな主旨しゅし廻文かいぶんを、清十郎せいじゅうろうかせ、これをたずさえて、中国ちゅうごく九州きゅうしゅう四国しこくなどに散在さんざいしている吉岡拳法門下よしおかけんぽうもんか出身者しゅっしんしゃを、歴訪れきほうしてたのである。もちろん振武閣建築しんぶかくけんちく寄附金きふきん勧進かんじんするために。
 先代せんだい拳法けんぽうそだてた弟子でし随分各地ずいぶんかくちはん奉公ほうこうしていて、みな相当そうとう地位ちいさむらいになっている。
 けれど、そういう勧説かんぜいってっても、藤次とうじ予算よさんしていたように、おいそれと寄進帳きしんちょうふでをつけてくれるのはすくない。
(いずれ書面しょめんをもって)
 とか、
(いずれ、上洛じょうらくおりに)
 とかいうのがおおく、げん藤次とうじたずさえてかえかねは、予定よていしていたがく何分なんぶんいちにもあたらない。
 だが、自分じぶん財政ざいせいではなし、まあ、どうかなろうと多寡たかをくくって、先刻さっきから、清十郎せいじゅうろうかおより、ひさしくわないおこうかおのほうを、つとめて、想像そうぞうにのぼせていたが、それにも限度げんどがあるので、また、生欠伸なまあくびおそわれて、退屈たいくつなからだを、ふねのうえにてあましていた。
 うらやましいのは、先刻せんこくから小猿こざるのみをとっている美少年びしょうねんだった。いい退屈たいくつしのぎをっている。藤次とうじは、そばへって、とうとうはなしかけした。
若衆わかしゅ。――大坂表おおさかおもてまでおわたりか」
 小猿こざるあたまおさえながら、美少年びしょうねんおおきなをじろりとかれかおへあげた。
「はあ、大坂おおさかきます」
「ご家族かぞく大坂おおさかにおまいかの」
「いえ、べつに」
「では阿波あわのご住人じゅうにんか」
「そうでもありません」
 にべのない若衆わかしゅである。そういってまた他念たねんなく、小猿こざるゆびけているのであった。