102・宮本武蔵「火の巻」「怨敵(1)(2)」


朗読「102火の巻14.mp3」13 MB、長さ: 約 9分 28秒

怨敵おんてき

 町中まちなかもりである。おぼろに常夜燈じょうやとうがまたたいていた。
「こうやい」
 お杉隠居すぎいんきょは、又八またはちえりがみをつまんで、往来おうらいからそこの境内けいだいまできずってた。
 ばばけんまくにおどろいたとみえ、弥次馬やじうまはもういてない。殿しんがりとして、鳥居とりいした見張みはっていた権叔父ごんおじも、やがてあとからて、
ばば、もう折檻せっかんはせぬものだぞ。又八またはちとて、もうどもではなし」
 母子おやこえりがみを、もぎはなそうとすると、
なにをいうぞい」
 隠居いんきょは、権叔父ごんおじを、ひじ退けて、
「わしがを、わしが折檻せっかんするに出口でぐちなど、らぬお世話せわ、おぬしはだまっていやい。――こ、これっ、又八またはちっ」
 いてよろこんでもいい場合ばあいを、このばば憤怒ふんぬして、わがえりがみを、大地だいち小突こづまわしている。
 老人ろうじんになればだれ単純たんじゅん気短きみじかかになるという。いま場合ばあい複雑ふくざつ感情かんじょうあまりにも枯渇こかつしたには強烈きょうれつすぎたのであろう。いているのか、おこっているのか、狂喜きょうき変態へんたいなあらわれか。
おやのすがたをて、すとはなんのげいじゃ。われは、またからうまれくさったか、わしがではなかったかよ。――こ、これッ、ここなぼけものが」
 と、おさなとき打擲ちょうちゃくしたように、又八またはちしりをぴしぴしって、
「よもやもう、このきておろうともおもわなんだに、のめのめこの大坂おおさかきていくさるとはにくにくい、ええもうにくやつよの。なんで故郷くにへもどってて、ご先祖様せんぞさまのまつりをせぬか、このははにちょっとでも、顔見かおみせぬか。親類縁者しんるいえんじゃどもが、あれよこれよとあんじているのも、われにはわきまえがつかぬかよっ」
「――お、おふくろ。かんべんしてくれ、かんべんしてくれ」
 又八またはちは、嬰児あかごみたいに、ははしたからさけんだ。
わるいことはっている。っていればこそ、かえれなかったんだ。今日きょうも、あま不意ふいだったのでびっくりして、げるもなく、おらあしてしまった。……面目めんぼくない、面目めんぼくない! おふくろにも叔父御おじごにも、おらあただ面目めんぼくないんで」
 と、両手りょうてかおをおおった。
 それをると、ばば目鼻めはなしわをあつめて、すすりいた。しかし気丈きじょう老婆ろうばは、自分じぶんもろくなるのをすぐ自分じぶんこころ叱咤しったしながら、
「ご先祖せんぞはじさらし、面目めんぼくないというからには、どうせろくなことをしていくさったのではあるまいが」
 権叔父ごんおじは、るにかねて、
「もうよかろう、ばば、そう打擲ちょうちゃくしては、かえって又八またはちねじものにするぞよ」
「また出口でぐちかよ、おぬしはおとこのくせにあまうていかぬ。又八またはちには父親てておやがないゆえ、このばばははであるとともに、きびしい父親てておやでもなければならぬのじゃ。それゆえわしは折檻せっかんをしまする。……まだまだこんなことでろうかいの。又八またはちッそれへなおりゃい」
 自分じぶん大地だいちかしこまってすわりこみ、へも、大地だいちゆびさしていった。
「はい」
 又八またはちは、つちにまみれたかたおこして、悄然しょうぜんすわなおした。

 この母親ははおやこわかった。世間せけん母親ははおやなみ以上いじょうあまさもあったが、すぐご先祖様せんぞさますので、又八またはちあたまがあがらないのであった。
「つつみかくしをするときかぬぞよ。せきはらいくさて、おぬし、あれ以来いらいなにしていやった。ばば得心とくしんがまいるまで、つぶさにはなししゃれ」
「……はなします」
 かくおこらない。
 又八またはちは、友達ともだち武蔵たけぞう戦場せんじょうからちのびたこと――そして伊吹いぶきのあたりにひそんだこと――おこうという年上としうえおんなにかかって、数年すうねんのあいだ同棲どうせいしてにが経験けいけんをし、いまでは、いていることなど、すっかりはなしてしまうと、なかくさっているものつくしたように、かるくなった。
「ふウむ……」
 と、権叔父ごんおじうめくと、
「あきれたよの」
 と、隠居いんきょしたらし、
「そしていまでは、なにしていやるか。身装みなりは、どうやらかざってござるが、仕官しかんして、ろく少々しょうしょうも、っていやるか」
「はい」
 うっかり、いい返事へんじをしたが、又八またはちは、露見ろけんをおそれて、
「いや、仕官しかんはいたしませぬが」
「では、なにべている」
けん――剣術けんじゅつなどを、おしえまして」
「ほう」
 ばばは、はじめて、ほころびたように機嫌きげんよく、
剣術けんじゅつを、おおそうかいの。そういう生活たつきごしながらも、剣術けんじゅつ精出せいだしていやったとは、さすがにわしが。……のう叔父御おじごよ。やはりばばじゃの」
 このへん機嫌きげんなおさせてしまいたいものだと権叔父ごんおじは、おおきく何度なんどもうなずいて、
「それやあ、ご先祖せんぞは、どこかにあろうわさ。一時いちじ極道ごくどうはしようとも、そのたましいだにうしなわずば」
「して又八またはち
「はい」
「この上方かみがたでは、だれについて、うでみがきやった」
鐘巻自斎先生かねまきじさいせんせいに」
「ふウむ……あの鐘巻先生かねまきせんせいにの」
 はなあめのようにしてあまりよろこぶので、又八またはちはもっとよろこばせてみたくなり、懐中ふところ印可いんかまきして巻末かんまつ一行いちぎょう――佐々木小次郎殿ささきこじろうどのとあるところだけをかくして、
御覧ごろうじませ、このとおり」
 と、常夜燈じょうやとうあかりへ、ひろげてせた。
「どれ、どれ」
 したが、わたさずに、
安心あんしんしてござれ、おふくろ」
「なるほど」
 隠居いんきょは、くびって、
たか、権叔父ごんおじたいしたものじゃわ。ちいさいころから、あの武蔵たけぞうなどより、ぐんとかしこく、うで出来できていただけのことはある」
 と、よだれらさないばかりに満足まんぞくをあらわしたが、ふと、それをきかけた又八またはちがすべって、おわりの一行いちぎょうにうつると、
「これて、ここに佐々木小次郎ささきこじろうとあるのはなんじゃ」
「あ……これですか……これは仮名かめいです」
仮名かめい? なん仮名かめいなどつかいなさる、本位田ほんいでん又八またはちと、立派りっぱのあるものを」
「でもかえりみて、自分じぶんはじのある生活くらしをしていたので、先祖せんぞけがすまいと」
「オオそうか。その性根しょうねたのもしい。――おぬしはなにるまいがこれから故郷元くにもとのことどもかせてしんぜるほどに、ようきなされ」
 隠居いんきょは、そう前置まえおきして、この一人息子ひとりむすこを、いよいよ鼓舞こぶし、激励げきれいするために、その宮本村みやもとむらおこった事件じけんやら、本位田ほんいでん立場たちばから、また、自分じぶん権叔父ごんおじとが、ために出郷しゅつごうすることになり、おつう武蔵たけぞうとをつべく、多年たねんふたりの行方ゆくえをさがしあるいていることなど――誇張こちょうするもなく誇張こちょうちたが――何度なんどはなをかみながら、諄々じゅんじゅんらしてかたった。