100・宮本武蔵「火の巻」「幻術(7)(8)」


朗読「100火の巻12.mp3」11 MB、長さ: 約 7分 58秒

 谷間たにまかべ見上みあげるように、このへんはもうはや日蔭ひかげになっている。大坂城おおさかじょう巨大きょだいかげ夕空ゆうぞらをおおっているからである。
「あれが、薄田すすきだやしきだぞ」
 ほりみずけて、二人ふたりさむそうにたたずんだ。昼間ひるまからぎこんでいたさけも、この濠端ほりばたつとひとたまりもなくんで、はなさき水洟みずばなこおりつく。
「あの腕木門うでぎもんか」
「いや、そのとなり角屋敷かどやしき
「ふム……宏壮こうそうなものだな」
出世しゅっせしたものさ。三十歳前後さんじゅうさいぜんごころには、まだ、薄田すすきだ兼相かねすけなどといっても、世間せけんっているやつはなかった、それがいつのまにか……」
 赤壁八十馬あかかべやそまのことばを、又八またはちはそらみみいていた。うたがっているのではない、もうかれのことばのはしなど注意ちゅういしてみる必要ひつようかんじないほど信頼しんらいっていたのだった。――そしてこの巨城きょじょう取巻とりまいている大小名だいしょうみょうもんをながめて、
「おれも」
 と、鬱勃うつぼつとしてくるものをかれおさえきれない青年せいねんだった。
「じゃあ、今夜こんやひとつ、兼相かねすけって、うまく貴公きこうからだりこんでみせるからな」
 八十馬やそまは、そういって、
「――ところで、れいかねだが」
 と、催促さいそくした。
「そう、そう」
 又八またはち懐中ふところから、革巾着かわぎんちゃくした。すこしくらいは、とおもいながらいつのまにかこの革巾着かわぎんちゃくかね三分さんぶんいちになっていた。そののこりのそこをはたいて、
「ざっと、これだけあるが、これくらいなおくりものでいいのか」
「いいとも、十分じゅうぶんだ」
なにかにつつんでゆかなければいけまいが」
「なあに、仕官しかん取做とりなしをたのときの、御推挙料ごすいきょりょうだの、御献金ごけんきんだのというやつは、薄田すすきだばかりじゃない、公然こうぜんだれでもっていることだから、なにはばかって必要ひつようはすこしもないのだ。――じゃああずかっておくぜ」
 がねのほとんどあらましを、かれ手渡てわたしてしまうと、又八またはちはやや不安ふあんをよびおこして、あゆした八十馬やそまいすがり、
「うまくたのむぞ」
大丈夫だいじょうぶだ。さきで、しぶったかおをしていたら、かねをやらずにってかえるだけのことじゃないか。なにも、兼相かねすけだけが、大坂方おおさかがた勢力家せいりょくかじゃなし、大野おおのでも後藤ごとうでも、たのみこむ思案しあんはいくらもある」
返辞へんじは、いつわかるか」
「そうだな、ここで、っていてくれてもいいが、ほりばたのきさらしに、っているわけにもゆくまいし、また、あやしまれるから、明日あすおう」
明日あす――どこで」
人寄ひとよせのかかっているれいの空地あきちってくれ」
承知しょうちした」
貴公きこうはじめてった、あの酒売さけうりのおやじの床几しょうぎで、っていてくれれば間違まちがいない」
 時刻じこく打合うちあわせて、赤壁八十馬あかかべやそまは、そこの門内もんないへ、大手おおでってはいってった。かたって、堂々どうどうとおってゆく態度たいどとどけて、
(あれなら、なるほど、薄田兼相すすきだかねすけとは、貧困時代ひんこんじだいからの旧友きゅうゆうだろう)
 又八またはちは、安心あんしんもちをいだいて、そのばんは、さまざまなゆめふけり、あくるちかねて、さだめの時刻じこくに、人寄ひとよ空地あきちへ、霜解しもどけをふんでった。
 きょうも師走しわすかぜさむかったが、冬日ふゆびしたにはたくさんあつまっていた。

 どうしたのか、赤壁八十馬あかかべやそまは、その姿すがたせなかった。
 つぎ
なにかの都合つごうだろう」
 又八またはちは、こう善意ぜんい解釈かいしゃくして、れいの野天のてん酒売さけうりの床几しょうぎで、
「きょうは」
 と、正直しょうじき空地あきち人混ひとごみを見廻みまわしていたが、そのつい八十馬やそま姿すがたずにれてしまった。
 すこし、て、
「おやじ、またたぞ」
 三日目みっかめである。こういって、床几しょうぎこしをすえると、酒売さけうりのおやじが、毎日まいにちかれ挙動きょどうをひそかにあやしんでいたとみえ、一体いったいだれつのかとたずねるので、じつ云々しかじか仔細しさいで、いつぞやここで知己ちきになった赤壁あかかべという牢人ろうにん落合おちあ約束やくそくになっているのだが――とかたると、
「え? あのおとこに」
 おやじはあきれたような口吻くちぶりで、
「では、仕官しかんくち周旋あっせんしてやるからといって、あいつに、かねられたので」
られたわけではない。わしから依頼いらいして、薄田殿すすきだどのへわたす口入くちいきんあずけておいたのだが、その返辞へんじがはやくりたいので、毎日待まいにちまっているわけだが」
「おやおや、おまえさまは」
 おやじは、どくそうに、又八またはちかおをながめて、
百年待ひゃくねんまっていても、あのおとこるはずはありませぬ」
「げっ。――ど、どうして」
彼奴あいつは、うてなわるで、この空地あきちには、ああいうガチャばえがたくさんおりましてな、すこあまかおれば、すぐたかってるのでございます。よほど、をつけてあげようかとおもったが、あとのたたりがこわいし、おまえさまも、あの風態ふうていれば、がつくだろうとおもっていたのに、かねかれてしまうなんて……。これやおはなしにならんわい」
 どくとおして、又八またはち無智むちをむしろあわれむような口吻くちぶりなのである。だが又八またはちは、はじいたとはおもわない。突然とつぜん損失そんしつ希望きぼうからほうされた傷手いたでに、がふるえ、いきどおって、茫然ぼうぜんと、空地あきち人群ひとむれをつめていた。
「むだとはおもうが、ねんのため幻術めくらましかこいへっていてみなさるがよい。あそこではよく、ガチャばえあつまって、ぜに賭事かけごとをしておりますで、そういうかねをつかめば、ことによると、賭場あそびばかおしているかもわかりませぬ」
「そ、そうか」
 又八またはちは、あわてて床几しょうぎち、
「その幻術めくらまし人寄ひとよせというのは、どこのかこいか」
 老爺おやじゆびさすほうをると、この空地あきちのうちではもっとおおきな矢来やらいひとえる。幻術者げんじゅつしゃれが興行こうぎょうしているのだという。見物けんぶつは、木戸口きどぐち蝟集いしゅうしていた。又八またはちちかづいてってみると、
「ちょちょんがちょっぺい
 だとか、
変兵童子へんぴょうどうじ
 とか、
果心居士之かしんこじのいち弟子でし
 とかいう有名ゆうめい幻術師げんじゅつしが、木戸口きどぐちはたしるしてあって、まくむしろでかこんであるそのひろ矢来やらいのうちでは、あやしげな音楽おんがくじって、術者じゅつしゃ掛声かけごえと、見物けんぶつ拍手はくしゅいていた。