朗読「96火の巻8.mp3」13 MB、長さ: 約 9分 30秒
二
「さもしいことをいうな」と又八は蔑んで――
「多寡が鍋底の雑炊飯や、一合に足らぬ濁り酒のことで、青筋を立てるほどのことはあるまいが」
虚無僧は執こく憤って、
「ばかをいえ、残り飯でも、この身にとれば一日の糧だ、一日の生命だ。かやせっ、かやさなければ――」
「どうするって」
「うぬっ」
又八の腕くびを掴まえ、
「ただはおかぬっ」
「ふざけるなっ」
振り離して、又八は、虚無僧の襟がみを掴み寄せた。
飢えた野良猫にひとしい虚無僧の細っこい骨ぐみだった。叩きつけて、一振りに、ぎゅうといわせてやろうとしたが、襟がみをつかまれながら、又八の喉輪へつかみかかって来た虚無僧の力には、案外な粘りがある。
「こいつ」
と、力み直したが、相手の足もとは、どうして、確かりとしたものだ。
かえって又八が顎をあげて、
「うッ……」
妙な声をしぼりながら、どたどたっと次の部屋まで押し出され、それを食い止めようとする力を利用されて、手際よく、壁へ向って投げ捨てられた。
根太も柱も腐蝕っている屋敷である。一堪りもなく壁土が崩れて、又八は全身に泥をかぶった。
「ペッ……ペッ……」
猛然と唾して立つと、ものをいわない代りに、凄い血相が刃物を抜いて、跳びかかってきた。虚無僧も心得たりという応対で、尺八をもって渡りあう。しかし情けないことにはすぐ息喘れが出て来て、尖った肩でせいせいいうのだ。それに反して又八の肉体はなんといっても若かった。
「ざまを見ろッ」
圧倒的に又八は、斬りかけ斬りかけして、彼に息をつく間を与えない。虚無僧は化けて出そうな顔つきになった。体の飛躍を欠いてともすると蹴つまずきそうになる。そのたびに何ともいえない死に際のさけびを放った。そのくせ八方に逃げ廻って、容易には太刀を浴びないのである。
しかし結果は、その誇りが又八の敗因となった。虚無僧が猫のように庭へ跳んだので、それを追うつもりで廊下を踏んだ途端に、雨に朽ちていた縁板がみりっと割れた。片足を床下へ突っこんで、又八が尻もちをついたのを見ると、得たりと刎ね返して来た虚無僧が、
「うぬ、うぬ、うぬっ」
胸ぐらを取って、顔といわず鬢たといわず、撲りつけた。
脚がきかないので又八はどうにもならなかった。自分の顔が見るまに四斗樽のように腫れたかと思う。――すると、もがき争っている懐中から、金銀の小粒がこぼれた。撲られるたびに美い音がして、貨幣はそこらに散らかった。
「――やっ?」
虚無僧は、手を放した。
又八もやっと彼の手をのがれて跳び退いた。
自分の拳が痛くなるほど、憤怒を出しきった虚無僧は、肩で息をしながら、あたりにこぼれた金銀に眼を奪われていた。
「やいっ、畜生め」
腫れ上がった横顔を抑えながら又八は、声をふるわせてこういった。
「な、なんだっ、鍋底のあまり飯くらいが! 一合ばかしの濁酒が! こう見えても、金などは腐るほど持っているんだ。餓鬼め、ガツガツするな。それほどほしけれやあ、くれてやるから持ってゆけっ。その代り、今てめえが俺を撲っただけ、こんどは俺が撲るからそう思えっ。――さっ、冷飯と濁酒代に利子をつけて返すから、頭を出せっ、頭をここへ持って来いっ」
三
又八はなんと罵っても、相手の虚無僧がそれきりぐうの音も出さないので、彼もようよう気を鎮めて見直すとどうしたことか、虚無僧は縁板に顔を沈めて泣いている――
「こん畜生、金を見たら急に哀れっぽいふうを見せやがって」
と、又八は毒づいたが、そうまで、恥かしめられても、虚無僧はもう先の勢いはどこへやら、
「あさましい。アア、あさましい。どうしておれはこう馬鹿なのか」
もう又八へ対していっているのではない、ひとりで悶え悲しんでいるのだ。その自省心の烈しいことも、常人とは変っていて、
「この馬鹿、貴さまは一体、幾歳になるのか。こんなにまで、世の中から落伍して、落魄れ果てた目をみながら、まだ醒めないのか、性なしめ」
そばの黒い柱へ向って、自分の頭をごつんごつん打つけては泣き、打つけては泣き、
「何のために、汝は尺八をふいているか。愚痴、邪慾、迷妄、我執、煩悩のすべてを六孔から吐き捨てるためではないか。――それを何事だ、冷飯と酒のあまりで、生命がけの喧嘩をするとは。しかも息子のような年下の若者と」
ふしぎな男だ。そういって口惜しげにベソを掻くかと思うと、また、自分の頭を、柱に向って叩きつけ、その頭が二つに割れてしまわないうちは止めそうもないのである。
その自責からする折檻は、又八を撲った数よりも遥かに多い。又八は呆っけにとられていたが、青ぶくれになった虚無僧の額から血がにじみ出て来たので、止めずにいられなくなった。
「ま、ま、止したらどうだ、そんな無茶な真似」
「措いて下され」
「どうしたんだい」
「どうもせぬ」
「病気か」
「病気じゃござらぬ」
「じゃあなんだ」
「この身が忌々しいだけじゃ。かような肉体は、自分で打ち殺して、鴉に喰わせてやったほうがましじゃが、この愚鈍のままで殺すのも忌々しい。せめて人なみに性を得てから、野末に捨ててやろうと思うが、自分で自分がどうにもならぬので焦れるのじゃ。……病気といわれれば病気かのう」
又八は、何か急に気の毒になって来て、そこらに落ちている金を拾いあつめて、幾らかを彼の手に握らせながら、
「おれも悪かった、これをやろう。これで勘弁してくれ」
「いらん」手を引っこめて、
「金など、いらん、いらん」
鍋の残り飯でさえ、あんなに怒った虚無僧が、けがらわしい物でも見るように、強く首を振って、膝まで後へ退がってゆく。
「変な人だな、おめえは」
「さほどでもござらぬ」
「いや、どうしても、少しおかしいところがあるぜ」
「どうなとしておかれい」
「虚無僧、おぬしには、時々、中国訛りが交じるな」
「姫路じゃもの」
「ほ……。おれは美作だが」
「美作? ――」と、眼をすえて、
「してまた、美作はどこか」
「吉野郷」
「えっ。……吉野郷とはなつかしいぞ。わしは、日名倉の番所に、目付役をして詰めていたことがあるで、あの辺のことは相当に知っておるが」
「じゃあ、おぬしは、元姫路藩のお侍か」
「そうじゃ、これでも以前は、武家の端くれ、青木……」
名乗りかけたが、今の自分を省みて、人前に身を置いているに耐えなくなったか、
「嘘だ、今のは、嘘じゃよ。どれ……町へながしに行こうか」
ぷいと立って、野へ歩み去った。