96・宮本武蔵「火の巻」「狐雨(2)(3)」


朗読「96火の巻8.mp3」13 MB、長さ: 約 9分 30秒

「さもしいことをいうな」と又八またはちさげすんで――
多寡たか鍋底なべぞこ雑炊飯ぞうすいめしや、一合いちごうらぬにござけのことで、青筋あおすじてるほどのことはあるまいが」
 虚無僧こむそうしつこくいきどおって、
「ばかをいえ、のこめしでも、このにとれば一日いちにちかてだ、一日いちにち生命せいめいだ。かやせっ、かやさなければ――」
「どうするって」
「うぬっ」
 又八またはちうでくびをつかまえ、
「ただはおかぬっ」
「ふざけるなっ」
 はなして、又八またはちは、虚無僧こむそうえりがみをつかせた。
 えた野良猫のらねこにひとしい虚無僧こむそうほそっこいほねぐみだった。たたきつけて、一振ひとふりに、ぎゅうといわせてやろうとしたが、えりがみをつかまれながら、又八またはち喉輪のどわへつかみかかって虚無僧こむそうちからには、案外あんがいねばりがある。
「こいつ」
 と、りきなおしたが、相手あいてあしもとは、どうして、しっかりとしたものだ。
 かえって又八またはちあごをあげて、
「うッ……」
 みょうこえをしぼりながら、どたどたっとつぎ部屋へやまでされ、それをめようとするちから利用りようされて、手際てぎわよく、かべむかっててられた。
 根太ねだはしら腐蝕くさっている屋敷やしきである。一堪ひとたまりもなく壁土かべつちくずれて、又八またはち全身ぜんしんどろをかぶった。
「ペッ……ペッ……」
 猛然もうぜんつばしてつと、ものをいわないかわりに、すご血相けっそう刃物はものいて、びかかってきた。虚無僧こむそう心得こころえたりという応対おうたいで、尺八しゃくはちをもってわたりあう。しかしなさけないことにはすぐ息喘いきぎれがて、とがったかたでせいせいいうのだ。それにはんして又八またはち肉体にくたいはなんといってもわかかった。
「ざまをろッ」
 圧倒的あっとうてき又八またはちは、りかけりかけして、かれいきをつくあたえない。虚無僧こむそうけてそうなかおつきになった。からだ飛躍ひやくいてともするとつまずきそうになる。そのたびになんともいえないぎわのさけびをはなった。そのくせ八方はっぽうまわって、容易よういには太刀たちびないのである。
 しかし結果けっかは、そのほこりが又八またはち敗因はいいんとなった。虚無僧こむそうねこのようににわんだので、それをうつもりで廊下ろうかんだ途端とたんに、あめちていた縁板えんいたがみりっとれた。片足かたあし床下ゆかしたっこんで、又八またはちしりもちをついたのをると、たりとかえして虚無僧こむそうが、
「うぬ、うぬ、うぬっ」
 むなぐらをって、かおといわずびんたといわず、なぐりつけた。
 あしがきかないので又八またはちはどうにもならなかった。自分じぶんかおるまに四斗樽よんとたるのようにれたかとおもう。――すると、もがきあらそっている懐中ふところから、金銀きんぎん小粒こつぶがこぼれた。なぐられるたびにがして、貨幣かへいはそこらにらかった。
「――やっ?」
 虚無僧こむそうは、はなした。
 又八またはちもやっとかれをのがれて退いた。
 自分じぶんこぶしいたくなるほど、憤怒ふんぬしきった虚無僧こむそうは、かたいきをしながら、あたりにこぼれた金銀きんぎんうばわれていた。
「やいっ、畜生ちくしょうめ」
 がった横顔よこがおおさえながら又八またはちは、こえをふるわせてこういった。
「な、なんだっ、鍋底なべぞこのあまりめしくらいが! 一合いちごうばかしの濁酒どぶろくが! こうえても、かねなどはくさるほどっているんだ。餓鬼がきめ、ガツガツするな。それほどほしけれやあ、くれてやるからってゆけっ。そのかわり、いまてめえがおれなぐっただけ、こんどはおれなぐるからそうおもえっ。――さっ、冷飯ひやめし濁酒代どぶろくだい利子りしをつけてかえすから、あたませっ、あたまをここへっていっ」

 又八またはちはなんとののしっても、相手あいて虚無僧こむそうがそれきりさないので、かれもようようしずめて見直みなおすとどうしたことか、虚無僧こむそう縁板えんいたかおしずめていている――
「こん畜生ちくしょうかねたらきゅうあわれっぽいふうをせやがって」
 と、又八またはちどくづいたが、そうまで、はずかしめられても、虚無僧こむそうはもうさきいきおいはどこへやら、
「あさましい。アア、あさましい。どうしておれはこう馬鹿ばかなのか」
 もう又八またはちたいしていっているのではない、ひとりでもだかなしんでいるのだ。その自省心じせいしんはげしいことも、常人じょうじんとはかわっていて、
「この馬鹿ばかさまは一体いったい幾歳いくつになるのか。こんなにまで、なかから落伍らくごして、落魄おちぶてたをみながら、まだめないのか、しょうなしめ」
 そばのくろはしらむかって、自分じぶんあたまをごつんごつんつけてはき、つけてはき、
なんのために、おのれ尺八しゃくはちをふいているか。愚痴ぐち邪慾じゃよく迷妄めいもう我執がしつ煩悩ぼんのうのすべてを六孔ろっこうからてるためではないか。――それを何事なにごとだ、冷飯ひやめしさけのあまりで、生命いのちがけの喧嘩けんかをするとは。しかも息子むすこのような年下としした若者わかものと」
 ふしぎなおとこだ。そういって口惜くやしげにベソをくかとおもうと、また、自分じぶんあたまを、はしらむかってたたきつけ、そのあたまふたつにれてしまわないうちはめそうもないのである。
 その自責じせきからする折檻せっかんは、又八またはちなぐったかずよりもはるかにおおい。又八またはちっけにとられていたが、あおぶくれになった虚無僧こむそうひたいからがにじみたので、めずにいられなくなった。
「ま、ま、したらどうだ、そんな無茶むちゃ真似まね
いてくだされ」
「どうしたんだい」
「どうもせぬ」
病気びょうきか」
病気びょうきじゃござらぬ」
「じゃあなんだ」
「この忌々いまいましいだけじゃ。かような肉体にくたいは、自分じぶんころして、からすわせてやったほうがましじゃが、この愚鈍ぐどんのままでころすのも忌々いまいましい。せめてひとなみにしょうてから、野末のずえててやろうとおもうが、自分じぶん自分じぶんがどうにもならぬのでれるのじゃ。……病気びょうきといわれれば病気びょうきかのう」
 又八またはちは、なにきゅうどくになってて、そこらにちているかねひろいあつめて、いくらかをかれにぎらせながら、
「おれもわるかった、これをやろう。これで勘弁かんべんしてくれ」
「いらん」っこめて、
かねなど、いらん、いらん」
 なべのこめしでさえ、あんなにおこった虚無僧こむそうが、けがらわしいものでもるように、つよくびって、ひざまでうじろ退がってゆく。
へんひとだな、おめえは」
「さほどでもござらぬ」
「いや、どうしても、すこしおかしいところがあるぜ」
「どうなとしておかれい」
虚無僧こむそう、おぬしには、時々ときどき中国ちゅうごくなまりがじるな」
姫路ひめじじゃもの」
「ほ……。おれは美作みまさかだが」
美作みまさか? ――」と、をすえて、
「してまた、美作みまさかはどこか」
吉野郷よしのごう
「えっ。……吉野郷よしのごうとはなつかしいぞ。わしは、日名倉ひなぐら番所ばんしょに、目付役めつけやくをしてめていたことがあるで、あのへんのことは相当そうとうっておるが」
「じゃあ、おぬしは、元姫路藩もとひめじはんのおさむらいか」
「そうじゃ、これでも以前いぜんは、武家ぶけはしくれ、青木あおき……」
 名乗なのりかけたが、いま自分じぶんかえりみて、人前ひとまえいているにえなくなったか、
うそだ、いまのは、うそじゃよ。どれ……まちへながしにこうか」
 ぷいとって、あゆった。