朗読「95火の巻7.mp3」14 MB、長さ: 約 10分 00秒
九
むらさき革の巾着であった。その金入れの中には、金銀取交ぜてだいぶの額が入っていた、又八は数えるだけでも自分の心が怖くなって、思わず、
「これは他人の金だ」
と、殊さらにつぶやいた。
もう一つの油紙に包んであるものを開いてみると、これは一軸の巻物である。軸には花梨の木が用いてあり、表装には金襴の古裂れが使ってあって、何となく秘品の紐を解く気持を抱かせられる。
「何だろ?」
全く見当のつかない品物だった。巻を下へ置いて、端の方から徐々に繰り展げて見てゆくと――
印可
一 中条流太刀之法
一 表
電光、車、円流、浮きふね
一 裏
金剛、高上、無極
一 右七剣
神文之上
口伝授受之事
月 日
越前宇坂之庄浄教寺村
富田入道勢源門流
後学 鐘巻自斎
佐々木小次郎殿
とあって、その後に別な紙片を貼り足したと思われるところには「奥書」と題して、左の一首の極意の歌が書いてあるのであった。
掘らぬ井に
たまらぬ水に
月映して
影もかたちもなき
人ぞ汲む
「……ははあ、これは剣術の皆伝の目録だな」
そこまでは又八にもすぐ分ったが、鐘巻自斎という人物については、何の知識もなかった。
もっとも、その又八にでも、伊藤弥五郎景久といえばすぐ、
(アアあの一刀流を創始して、一刀斎と号している達人か)
と合点がゆくであろうが、その伊藤一刀斎の師が、鐘巻自斎という人で、またの名を外他通家といい、まったく社会からは忘れられている、富田入道勢源の正しい道統をうけついで、その晩節をどこか辺鄙な田舎に送っている高純な士であるなどということはなおさら知らない。
そういう詮索よりも、
「――佐々木小次郎殿? ……ははアすると、この小次郎というのが、きょう伏見のお城工事で、無残な死に方をしたあの武者修行の名だな」
と、そこに頷いて、
「強いはずだ。この目録をみても分るが、中条流の印可をうけているのだもの。惜しい死に方をしたものだな。……さだめしこの世に心残りなことだったろう。あの最期の顔は、いかにも死ぬのが残念だという顔つきだった。――そしておれに頼むといったのは、やはりこの品だろう。これを郷里の知る辺へでも届けてくれといいたかったに違いない」
又八は、死んだ佐々木小次郎のために、口のうちで、念仏をとなえた。そしてこの二品は、きっと死者の望むところへ届けてやろうと思った。
――また、ごろりと彼は横になっていた。肌寒いので寝ながら炉の中へ柴を投げこんで、その炎にあやされながらウトウト眠りかけた。
ここを出て行った奇異な虚無僧が吹いているのであろう、遠い野面から尺八の音が聞えて来る。
何を求め、何を呼ぶのか。彼が出て行く折につぶやいたように、愚痴と煩悩を捨て切ろうとする必死がこもっているせいかも知れない。――とにかくそれは物狂わしいまで夜もすがら吹いて野をさまよっていたが、又八はもう疲れきって、熟睡してしまったので、尺八の音も虫の音も、すべて昏々の中であった。
狐雨
一
野は灰色に曇っている。今朝の涼しさは「立つ秋」を思わせ、眼に見るものすべてに露がある。
戸の吹き仆されている厨に、狐の足痕がまざまざ残っていた。夜が明けても、栗鼠はそこらにうろついている。
「アア、寒い」
虚無僧は、眼をさまして、広い台所の板敷へかしこまった。
夜明け前、ヘトヘトになって戻って来ると、尺八を持ったまま、ここへ横になって眠ってしまった彼である。
うす汚い袷も袈裟も、夜もすがら野を歩いていたために、狐に魅かされた男のように草の実や露でよごれていた。きのうの残暑とは比較にならない陽気なので、風邪をひき込んだのであろう、鼻のうえに皺をよせ、鼻腔と眉を一緒にして、大きな嚔を一つ放つ。
ありやなしやの薄いどじょう髭の先に、鼻汁がかかった。恬として、虚無僧はそれを拭こうともしないのである。
「……そうじゃ、ゆうべの濁り酒がまだあったはず」
つぶやいて起ち上がり、そこも狐狸妖怪の足痕だらけな廊下をとおって、奥の炉のある部屋をさがしてゆく。
捜さなければ分らないほど、この空屋敷は昼になってみるとよけいに広いのである。もちろん、見つからないほどでもないが――
(おや?)
うろたえた眼をして見廻している。あるべきところに酒の壺がないのだ。しかしそれはすぐ炉のそばに横たわっているのを発見したが、同時に、その空の容器とともに、肱枕をして、涎をながして眠っている見つけない人間をも見出し、
「誰だろ?」
及び腰に覗き込んだ。
よく眠っている男だった。撲りつけても眼を醒ましそうもない大鼾声をかいているのである。酒はこいつが飲んだのだな――と思うとその鼾声に腹が立つ。
まだ事件があった。今朝の朝飯として食べのこしておいた鍋の飯が、見れば底をあらわして一粒だにないではないか。
虚無僧は顔いろを変えた。死活の問題であった。
「やいっ」
蹴とばすと、
「ウ……ウむ……」
又八は、肱を外してむっくと首をあげかけた。
「やいっ」
つづいて、もう一ツ、眼ざましに足蹴を食らわすと、
「何しやがる」
寝起きの顔に、青すじを立てて、又八はぬっくと起ち上がった。
「おれを、足蹴にしたな、おれを」
「したくらいでは、腹が癒えんわい。おのれ、誰に断って、ここにある雑炊飯のあまりと酒を食らったか」
「おぬしのか」
「わしのじゃ!」
「それやあ済まなかった」
「済まなかったで済もうか」
「謝る」
「謝るとだけでことは納まらん」
「じゃあ、どうしたらいいんだ」
「かやせ」
「返せたって、もう腹の中に入って、おれの今日の生命のつなぎになっているものをどうしようもねえ」
「わしとて、生きて行かねばならん者だ。一日尺八をふいて、人の門辺に立っても、ようよう貰うところは、一炊ぎの米と濁酒の一合の代が関の山じゃ。……そ、それを無断であかの他人のおのれらに食われて堪ろうか。かやせ! かやせ!」
餓鬼の声である。どじょう髭の虚無僧は、飢えている顔に青すじを立て威猛高に喚いた。