朗読「86水の巻52.mp3」13 MB、長さ: 約9分32秒
五
「――城太さアん」
間を措いて、彼女がまた呼ぶと、こんどは明らかに返辞があって、
「おウーイ」
と、間の抜けた答えが、竹林の上のほうでする。
「あら、こっちですよ。そんな方へ道を間違えては駄目。そうそうそこから降りておいでなさい」
やがて孟宗竹の下を潜って、お通のそばへ城太郎は駈けて来た。
「なアんだ、こんなところにいたのか」
「だから、私の後に尾いておいでなさいといったでしょう」
「雉子がいたから、追いつめてやったんだ」
「雉子などを捕まえているよりも、夜が明けたら、大事な人を捜さなければいけないじゃありませんか」
「だけど、心配することはないぜ。おれのお師匠様に限っては滅多に討たれる気づかいはないから」
「でも、ゆうべお前は、何といって、私のところへ駈けつけて来たの? ……今、お師匠様の生命が危ないから、大殿様にそういって、斬り合いをやめさせてくれと呶鳴って来たじゃありませんか。あの時の城太さんの顔つきは、今にも泣き出してしまいそうでしたよ」
「それや、驚いたからさ」
「驚いたのは、おまえよりも、私のほうでした。――おまえのお師匠様が、宮本武蔵というのだと聞いた時――私は余りのことに口がきけなかった」
「お通さんは、どうしておらのお師匠様を前から知っていたんだい」
「同じ故郷の人ですもの」
「それだけ」
「ええ」
「おかしいなあ。故郷が同じというだけくらいなら、何もゆうべ、あんなに泣いてうろうろすることはないじゃないか」
「そんなに私、泣いたかしら」
「人のことは覚えていても、自分のことは忘れちまうんだな。……おらが、これは大変だ。相手が四人だ、ただの四人ならよいが、みんな達人だと聞いていたから、これは捨てておくと、お師匠様も、今夜は斬られるかも知れない……。そう思ッちまって、お師匠様に加勢する気で、砂をつかんで、四人の奴らへ投げつけていると、あの時、お通さんが、どこかで笛を吹いていたろう」
「ええ、石舟斎様の御前で」
「おれは、笛を聞いて、ア、そうだ、お通さんにいって、殿様に謝ろうと胸の中で考えたのさ」
「それでは、あの時、私のふいていた笛は武蔵様にも聞えていたのですね。たましいが通ったのでしょう、なぜなら私は、武蔵様のことを思いながら、石舟斎様の前であれを吹いていたのですから」
「そんなことは、どッちだっていいけれど、おらは、あの笛が聞えたんで、お通さんのいる方角が分ったんだ。夢中になって、笛の聞えるところまで駈けてッた。そして、いきなり何といっておらは呶鳴ったんだっけ」
「合戦だっ、合戦だっ。――と呶鳴ったんでしょう。石舟斎様も、おどろいたご様子でしたね」
「だが、あのお爺さんは、いい人だな。おらが、犬の太郎を殺したことを話しても、家来のように怒らなかったじゃないか」
この少年と話をしはじめると、お通もついつりこまれて、刻も場合も忘れてしまう。
「さ……。それよりも」
止めどない城太郎のお喋舌りを遮って、お通は、門の内側へ寄った。
「――話は後にしましょう。何より先に、今朝は、武蔵様を捜さなければいけません。石舟斎様も、例を破って、そんな男なら会ってみようと仰っしゃって、お待ちかねでいらっしゃるのですから……」
閂を外す音がする。
利休風の門の袖が左右にひらいた。
六
今朝のお通は、華やいで見える。やがて武蔵に会えるという期待にあるばかりでなく、若い女と生れての欣びを生理的にもいっぱいに皮膚の上にあらわしている。
夏に近い太陽は、彼女の頬を果物のようにつやつやとみがきたてている。薫々とふく若葉の風は肺の中まで青くなるほどにおう。
こぼれる朝露を背にあびながら、樹蔭に潜んで彼女のすがたを眼の前に見ていた武蔵は、
(アア健康そうになったな)
すぐそこに気づいた。
七宝寺の縁がわに、いつも悄んぼりと空虚な眼をしていた頃の彼女は、決して今見るような生々した頬や眸をしていなかった。さびしい孤児の姿そのものだった。
その頃のお通には恋がなかった。あっても、ぼんやりしたものだった。どうして自分のみが孤児なのか、そればかりを仄かに怨んだり回顧したりしていた感傷的な少女だった。
だが武蔵を知って、武蔵こそほんとの男性だと信じてからの彼女は、初めて、女性の沸らす情熱というものに自身の生きがいを知り出したのである。――殊に、その武蔵を追って旅にさまよい出してからは、あらゆるものに耐え得る要素が体にも心にも養われて来た。
武蔵は、物蔭から、彼女のそうしてみがかれて来た美に眼をみはった。
(まるで違ってきた!)と。
そして彼は、どこか人のいない所に行って、洗いざらい自分の本心といおうか――煩悩といおうか――強がっているこころの裏の弱いものをいってしまって、花田橋の欄干にのこした無情に似た文字を、
(あれは偽だ)
と、訂正してしまおう?
そして、人さえ見ていなければかまわない、女になんか幾ら弱くなってやっても大したことはない。彼女がここまで自分を慕ってくれた情熱に対して、自分の情熱も示し合おう。抱きしめてもやろう、頬ずりをしてもやろう、涙もふいてやろう。
武蔵は、幾度も、そう考えた。考えるだけの余裕があった。――お通が自分にいったかつての言葉が耳に甦ってくるほど、彼女の真っ直な思慕に対して叛くことが、男性として酷い罪悪のように思われてならない――苦しくてならない。
けれど、そういう気持を、ぎゅっと歯の根で噛んでしまう怖ろしい怺えを武蔵は今しているのだった。そこでは、一人の武蔵が二つの性格に分裂して、
(お通!)
と、叫ぼうとし、
(たわけ)
と、叱咤している。
そのどっちの性格が、先天的なものか後天的なものか、彼自身には固よりわからない。そしてじっと木蔭の中に沈みこんでいる武蔵の眸には、無明の道と、有明の道とが、みだれた頭の裡にも、微かにわかっていた。
お通は、何も知らないのである。門を出て十歩ほど歩み出した。そして、振向くと、城太郎がまた何か門のそばで道草をくっているので、
「城太さん、何を拾っているの。早くお出でなさいよ」
「待ちなよ、お通さん」
「ま、そんな汚い手拭なんか拾って、どうするつもり?」