85・宮本武蔵「水の巻」「鶯(3)(4)」


朗読「85水の巻51.mp3」13 MB、長さ: 約9分50秒

 ポトと、えりくびへちてつゆつめたさに、武蔵むさしをさました。いつのまにかよるけている。熟睡じゅくすいしたあと頭脳あたまは、ながれこむようにみみあなからはい無数むすううぐいすこえあさかぜあらわれて、たったいま、この誕生たんじょうしたようなあかるさであり、なんのつかれも残滓ざんしもなかった。
 ふと、をこすって、ひとみげると、夜明よあけの太陽たいようが、伊賀いが大和やまと連峰れんぽうんで、のぼっていた。
 武蔵むさしは、いきなりった。十分じゅうぶん休養きゅうようった肉体にくたいは、太陽たいようかれると、すぐ希望きぼう功名こうみょう野心やしんにうずき、手脚てあしはそれにたくわえているちからのやり催促さいそくして、
「む、む――」
 とびをせずにいられなくなってる。
今日きょうだ」
 なんとはなく、そうつぶやく。
 そのつぎかれ空腹くうふくおもした。えをおもうと、城太郎じょうたろうにもおよぼして、
「どうしたか」
 と、かるあんじる。
 ゆうべはすこかれひどをあわせぎたようでもあるが、それもかれ修行しゅぎょうしになることと承知しょうちして武蔵むさしはしていることであった。どう間違まちがっても、かれ危険きけんはないものと多寡たかをくくっていてよいがする。
 淙々そうそうと、水音みずおとがゆく。
 門内もんないたかやまから傾斜けいしゃけてひとすじのながれが、いきおいよく、竹林たけばやしめぐかきしたとおって、城下じょうかちてゆくのである。武蔵むさしは、かおあらい、そして、朝飯あさめしのようにみずをのんだ。
美味うまい!」
 みずのうまさがみた。
 さっするに、石舟斎せきしゅうさいは、この名水めいすいがあるために、このみずみなもと草庵そうあんえらんだのであろう。
 武蔵むさしはまだ、茶道さどうらず、茶味ちゃみなどもかいさなかったが、単純たんじゅんに、
美味うまい!」
 とおもわずくちをついてさけぶほど、みずのうまさというものを、今朝けさかんじた。
 ふところからきたな手拭てふきをして、それもながれで洗濯せんたくした。ぬのたちましろくなる。
 えりくびをふかき、つめあかまできれいにした。かたなこうがいいて、そのつぎには、みだれたかみでつける――
 とにかく柳生流やぎゅうりゅう大祖たいそ今朝けさうのである。天下てんかにも幾人いくにんしかいない現代げんだい文化ぶんか一面いちめん代表だいひょうしている人物じんぶつなのだ。――その石舟斎せきしゅうさいに、いや武蔵むさしのような無俸無名むほうむめい一放浪者いちほうろうしゃにくらべれば、つき小糠星こぬかぼしほどもかくのちがう大先輩だいせんぱい見参けんざんはいるのだ。
 えりをただし、かみでるのは、当然とうぜん礼節れいせつ表示ひょうじである。
「よしっ」
 こころととのった、あたまもすがすがしい武蔵むさしは、悠揚ゆうようせまらないきゃく態度たいどになって、そこのもんたたこうとした。
 だが、草庵そうあんやまうえであるしここをたたいてもきこえるはずがないがと、ふと、鳴子なるこでもないのかともん左右さゆうまわすと、左右二さゆうふたつの門柱もんちゅうに、一面いちめんずつのれんけてあって、その文字彫もじぼりそこには青泥せいでいしずめてあり、んでみると、一首いっしゅになっていた。
 みぎがわのれんには、

吏事りじきみあやシムヲメヨ
山城門やましろもんズルヲこのムヲ

 また、ひだりはしらには、

此山コノヤマ長物ちょうぶつ
ただ清鶯せいおうルノミ

 武蔵むさしは、凝然ぎょうぜんと、その詩句しくをにらんでいた。――満地まんち樹々きぎきぬく老鶯ろうおうなかに。

 もんにかけてある以上いじょうれん詩句しくは、いうまでもなく山荘さんそう主人あるじ心境しんきょうてさしつかえあるまい。
「――吏事りじ役人やくにんきみあやシムヲメヨ。山城門やましろもんズルヲこのムヲ。此山このやま長物無ちょうぶつなシ、唯野ただの清鶯せいおうルノミ……」
 幾度いくどくちうちむ。
 すがたに礼節れいせつち、こころ澄明とうみょうちつきをたたえている今朝けさ武蔵むさしには、その詩句しく意味いみが、素直すなおわかった。――同時どうじに、石舟斎せきしゅうさい心境しんきょうと、そのひとがらや生活せいかつかれこころへ、ぴたりとうつった。
「……おれはわかい」
 武蔵むさしは、おのずからあたまがってしまうのをどうしようもない。
 石舟斎せきしゅうさいが、一切いっさいもんじてこばんでいるのは、けっして、武者修行むしゃしゅぎょうものだけではないのである。あらゆる名利みょうり名聞みょうもん、また一切いっさい我慾がよく他慾たよくを――
 吏事りじたいしてすら、あやしむのをやめてくれとことわっているのである。石舟斎せきしゅうさいのそうして世間せけんけている姿すがたおもうと、武蔵むさしたかこずええているつきすがた聯想れんそうされた。
「……とどかない! まだ、自分じぶんなどにはとどかない人間にんげんだ」
 かれは、なんとしても、このもんたたになれなくなった。って闖入ちんにゅうしてくなどということは、もうかんがえてみるだけでもおそろしい。いや、自分じぶんはずかしい。
 花鳥風月かちょうふうげつだけが、このもんはいるべきものだとおもう。かれはもういまでは、天下てんか剣法けんぽう名人めいじんでも一国いっこく藩主はんしゅでもなんでもない。大愚たいぐかえって、自然しぜんのふところにあそぼうとしている一人ひとり隠居いんきょだ。
 そういうひとしずかな住居じゅうきょさわがすことは、あまりにこころないわざだ。名利みょうり名聞みょうもんもないひとってなん名利みょうりになる? 名聞みょうもんになる?
「アア。もしこのれんがなかったら、おれは、石舟斎せきしゅうさいからよいわらわれものられるところだった」
 がややたかくなったせいか、うぐいすこえも、夜明よあけほどはしなくなった。
 ――と、もんのうちのとおさかうえから、ぽたぽたとはや跫音あしおときこえてた。跫音あしおとにおどろいて小禽ことりのつばさが、八方はっぽうに、ちいさなにじえがく。
「あっ?」
 狼狽ろうばいしたいろ武蔵むさしかおぎった。かき隙間すきまからそのひと姿すがたがわかった。――門内もんないさかけおりてたのはわかおんななのである。
「……おつうだ」
 ゆうべのふえおと武蔵むさしおもした。咄嗟とっさに、みだれたこころのうちで、
おうか。うまいか)
 かれまようのであった。
 いたい! とおもう。
 また、ってはならぬ! とおもう。
 はげしい動悸どうきが、武蔵むさしむねをあらしみたいにけまわった。かれは、意気地いくじのない、ことに、おんなにはよわい――一個いっこ青春せいしゅんおとこでしかなかった。
「……ど、どうしよう?」
 まだ、こころまらないのだ。そのあいだに、山荘さんそうほうから坂道さかみちけおりてたおつうは、すぐそばまでて、
「あらっ?」
 あしめた。
 うしろ振顧ふりかえった。
 そしてなんとなく今朝けさは、よろこびごとでもあるらしい生々いきいきしたひとみを、彼方此方あっちこっちへやって、
いっしょにいてたとおもったら? ……」
 と、だれかをさがすように、まわしていたが、やがて、両手りょうてくちにかざして、やまうえむかい、
城太郎じょうたろうさアん。城太郎じょうたろうさアん」
 と、した。
 そのこえいたり、姿すがたちかると、武蔵むさしかおあからめてこそこそと樹蔭こかげへかくれてしまった。