84・宮本武蔵「水の巻」「鶯(1)(2)」


朗読「84水の巻50.mp3」13 MB、長さ: 約9分36秒

うぐいす

 三十尺さんじゅっしゃくもある空濠からぼりだった。空濠からぼりといっても、ふかやみそこには、雨水あまみずたまっていないとはかぎらない。
 灌木帯かんぼくたいがけを、いきおいよくすべちて武蔵むさしは、そこにまっていしほうってみた。そしてつぎに、いしって、びこんだ。
 井戸いどそこからあおぐように、ほしとおくなった。武蔵むさしほりそこ雑草ざっそうへ、どかんと仰向あおむけにころんだ。一刻いっこくほどもじっとしていた。
 肋骨あばらおおきななみつ。
 はい心臓しんぞうも、そうしているあいだにやっと常態じょうたいととのえてくる。
「おつう……。おつうが、この小柳生城こやぎゅうじょうにいるわけはないが? ……」
 あせえ、はいいてても、乱麻らんまのようにきみだれた気持きもち容易ようい平調へいちょうにならなかった。
こころくもりだ、みみのせいだ」
 そうもおもい、
「いや、ひと流転るてんはわからぬものゆえ、ひょっとしたら、やはりおつうがいるのかもれない」
 かれは、おつうのひとみを、ほしそらにえがいてみた。
 いや彼女かのじょくちは、あえて、虚空こくうにえがいてみるまでもなく、つね無自覚むじかく武蔵むさしむねんでいるのだった。
 あま幻想げんそうが、ふとかれをつつむ。
 国境くにざかいとうげ彼女かのじょのいったことば、
(あなたのほかに、わたしにとって男性だんせいはありません。あなたこそ、ほんとの男性だんせいわたしはあなたがなくてはきられない)
 また、花田橋はなだばしのたもとで彼女かのじょのいったことば――
(ここで、九百日きゅうひゃくにちっていました。あなたがるまで)
 なお、あのときいった――
(もしなければ、十年じゅうねんでも二十年にじゅうねんでも、白髪しらがになっても、ここのはしたもとっているつもりでした。……れてってください。どんなくるしみもいといません)
 武蔵むさしむねいたんでくる。
 くるしまぎれに、あのじゅん気持きもち裏切うらぎって、すきつくって、自分じぶんまっしぐらにはしってしまった。
 どんなに――あのあとでは自分じぶんうらんでいただろう。理解りかいできない男性だんせいを、のろわしい存在そんざいとしてくちびるみしめたことだろう。
「ゆるしてくれ」
 花田橋はなだばし欄干らんかん小柄こづかのこしてきたことばが、らず、いま武蔵むさしくちびるからもれていた。そして、なみだのすじがじりからしろくながれていた。
「ここじゃあない」
 ふいに、たかがけうえ人声じんせいがした。みっよっ松明たいまつが、あいだきわけてるのがえた。
 武蔵むさしは、自分じぶんなみだがつくと忌々いまいましげに、
おんななどがなんだ!」
 こうをこすった。
 幻想げんそう花園はなぞの蹴散けちらすように、ガバときて、ふたたび小柳生城こやぎゅうじょうくろ屋形やかた見上みあげ、
卑怯ひきょうといったな、はじれといったな。武蔵むさしはまだ、降伏こうふくしたとはいっていないぞ、退いたのは、げたのではない。兵法へいほうだ」
 空濠からぼりそこを、かれあるきだした。何処どこまであるいても空濠からぼりなかである。
一太刀ひとたちでもまずにおこうか。四高弟よんこうていなどは相手あいてでない。柳生石舟斎やぎゅうせきしゅうさいそのもの見参けんざんろ、いまに――合戦かっせんはこれからする!」
 そこらにちているひろって、武蔵むさしひざててバキバキとはじめた。それを石垣いしがき隙間すきましこんで、順々じゅんじゅんあしがかりをつくり、やがてかれかげは、空濠からぼり外側そとがわがっていた。

 ふえはもうきこえない。
 城太郎じょうたろうはどこへかくんだのか。――一切いっさいのことが、武蔵むさしあたまになかった。
 かれはただ旺盛おうせいなる――自分じぶんでもてあますほど旺盛おうせいな――血気けっき功名心こうみょうしん権化ごんげとなりおわっていた。そのすさまじい征服慾せいふくよくぐちいだすのみに、生命せいめい全部ぜんぶやしていた。
「お師匠ししょうさまあ――」
 どこかとおやみぶような心地ここちがする。みみませばきこえないのである。
城太郎じょうたろうか)
 ふとおもったが、武蔵むさしは、
(あれに、危険きけんはあるまい)
 あんじなかった。
 なぜならば、先刻さっきがけ中腹ちゅうふくあたりに松明たいまつたが、それっきりで城内じょうないでも自分じぶんたちのを、くまで捜索そうさくしようとはしていないらしくおもわれる。
「このに、石舟斎せきしゅうさいへ」
 さながら深山しんざんのようなはやし谷間たにまを、かれは、彼方あなた此方こなたさまよいあるいた。あるいは、しろそとてしまったのではないかとうたがったが、所々ところどころ石垣いしがきほりや、籾倉もみぐららしい建物たてものると、城内じょうないであることはたしかなのだが、石舟斎せきしゅうさいんでいる草庵そうあんとは、どこにあるのか、さがたらないのである。
 石舟斎せきしゅうさいが、まるにも本丸ほんまるにもまわず、城地しろちのどこかに、一庵いちあんをむすんで余生よせいおくっているということは、綿屋わたやあるじからもいていたことだ。その草庵そうあんさえわかれば、直接ちょくせつをたたいて、かれは、決死けっし見参けんざんをするつもりなのである。
何処どこだ!)
 かれは、さけびたい感情かんじょうで、夢中むちゅうになってあるいていた。ついには、笠置かさぎ絶壁ぜっぺきへまでて、搦手からめてさくからむなしく引返ひきかえした。
いっ。おれの相手あいてたらんものは)
 妖怪変化ようかいへんげでもよいから、石舟斎せきしゅうさいになって、ここへあらわれててほしかった。にみなぎっている満々まんまんたる闘志とうしは、もすがらかれ悪鬼あっきのようにあるかせた。
「あっ? ……おお……ここらしいぞ」
 それはしろ東南とうなんりたゆるい傾斜けいしゃしただった。そのあたり樹木じゅもくると、みな姿すがたがよく、はさみ下草したくさ手入ていれがゆきとどいていて、どうあっても、ひとんでいる閑地かんちらしい。
 もんがある!
 利休風りきゅうふうかやぶきもんで、腕木うでぎには蔓草つるくさい、かきのうちには、竹林たけばやしけむっていた。
「オオ、ここだ」
 のぞいてみると、禅院ぜんいんのように、みち竹林たけばやしとおって、たかいそのやまうえへとっているのだ。武蔵むさしは、一気いっきかきやぶってはいもうとしたが、
「いやて」
 もんのあたりの清掃せいそうされたとこしさや、あたりにしろくこぼれているはななんとなく主人しゅじんふうしのばせるものに、たけりきっているこころなだめられて、ふと、自分じぶんびんのみだれや、襟元えりもとがついた。
「もう、くことはない」
 こと自分じぶんつかれもおもされた。石舟斎せきしゅうさい面接めんせつするまえに、まず自身じしんととのえることがかんがされた。
あさになれば、だれか、もんけにるだろう。――そのうえでよい、そのうえでも、って修行者しゅぎょうしゃこば態度たいどであったら、またとる手段しゅだんもある」
 武蔵むさしは、門廂もんびさししたに、すわりこんだ。そして、うしろのはしらをよりかけると、よい心地ここちねむりにはいることができた。
 ほしがしずかだった。はなかぜのたびにしろくうごいた。