83・宮本武蔵「水の巻」「心火(3)(4)」


朗読「83水の巻49.mp3」12 MB、長さ: 約9分02秒

 すなはもうそこへってなかった。城太郎じょうたろうはどこへったか。忽然こつぜんかげもない。
 ――颯々さっさつ颯々さっさつ
 まっくらかぜ時折ときおり、笠置かさぎのいただきからちてくる。そして、容易よういにうごかないそこの白刃しらはぐようにいて、ビラ、ビラ、とりんのようにそよぎをやみなかせる。
 四対一よんたいいちである。けれど武蔵むさしは、自分じぶんがそのいちかずであることは、さして苦戦くせんをおぼえない。
(なんの!)
 と、血管けっかんふとくなるのを意識いしきするのみであった。
 
 いつもこうからてようとしてかかるその観念かんねんも、ふしぎと今夜こんやたない。また、
てる)

 ともおもっていなかった。
 笠置かさぎろしが、あたまなかをもきぬけてくような心地ここちであった。脳膜のうまく蚊帳かやのようにすずしい。そしておそろしくがよくえる。
 ――みぎてきひだりてきまえてき。だが。
 やがて武蔵むさしはだはねっとりとねばってきた。ひたいにもあぶらあせひかっている、うまれつきひとなみ以上巨大いじょうきょだい心臓しんぞうふくれきって、不動形ふどうけい肉体にくたい内部ないぶにあって極度きょくどな、燃焼ねんしょうこしているのだ。
 ず、ず……
 ひだりはしにいたてきあしがかすかにった。武蔵むさしかたなさきは、蟋蟀こおろぎのひげのように敏感びんかんにそれをる。それをまた、てきさっしてはいってない。依然いぜんたるよんいちとの対峙たいじがつづく。
「…………」
 しかしこの対峙たいじ不利ふりであることを、武蔵むさしっていた。武蔵むさしてき包囲形ほういけいよんを、直線形ちょくせんけいよんにさせて、その一角いっかくから次々つぎつぎってしまおうとかんがえるのであったが、相手あいては、烏合うごうしゅうではない達人たつじん上手じょうずのあつまりだ、そういう兵法へいほうにはかからない。げんとして位置いちをかえない。
 さきが、その位置いちをかえないかぎり、武蔵むさしほうからってゆくさく絶対ぜったいなかった。このなか一名いちめい相打あいうちしてならばそれも可能かのうであるが、さもなければ、てき一名いちめいから行動こうどうしてくるのをって、てきよん行動こうどうが、ほんの瞬間しゅんかんでも、不一致ふいっちこすところをのぞんで打撃だげきくわえるほかにない。
(――ごわい)
 四高弟よんこうていのほうも、いま武蔵むさし認識にんしきをまったくあらためて、だれひとりとして、味方みかたよんかずをたよっているものはなかった。このさいかずたのんで、ほどでもゆるみをせれば武蔵むさしかたなは、きッとそこへりこんでくる。
(――なかには、いそうもない人間にんげんが、やはりいるものだ)
 柳生流やぎゅうりゅう骨子こっしをとって、庄田真流しょうだしんりゅう真理しんり体得たいとくしたという庄田喜左衛門しょうだきざえもんも、ただ、
(ふしぎな人間にんげん
 として、てき武蔵むさしを、けんさきから見澄みすましているだけだった。かれにさえ、まだ一尺いっしゃく攻撃こうげきもなしなかった。
 けんひとも、大地だいちそらも、そうしてこおりしてしまうかとおもわれた一瞬いっしゅんおもいがけない音響おんきょうが、武蔵むさし聴覚ちょうかくをハッとおどろかせた。
 だれがふくのか、ふえだった。そう距離きょりもないらしい本丸ほんまるはやしとおって、えたかぜはこばれてるのであった。

 ふえ。――高鳴たかなふえおと。だれだ、ふくのは。
 われもなくてきもなく、生死せいし妄念もうねんもまったくめっして、ただ一剣いっけん権化ごんげとなりきっていた武蔵むさしは、そのみみあなから、はからざる音律おんりつ曲者くせものにしのびまれて、途端とたんに、われにかえってしまった、肉体にくたい妄念もうねんのわれにもどってしまった。
 なぜならば、おとは、かれ脳裡のうりに、肉体にくたいのあるかぎりはわすないであろうほどふかく記憶きおくきついているはずであった。
 故郷こきょう美作みまさかくにの――あの高照たかてるみね附近ふきんで――ごとの山狩やまがりわれつつ、えと心身しんしんのつかれに、あたま朦朧もうろうとなっていたとき、ふと、みみにひびいてふえではないか。
 あのとき――
 こうい、こうおで。――と自分じぶんをとってみちびくようにび、そしてついに、そう沢庵たくあんつかまる機縁きえんつくってくれたそのふえではないか。
 武蔵むさしわすれても、武蔵むさしのあのとき潜在神経せんざいしんけいは、けっして、わすれることのできない感動かんどうをうけていたにちがいない。
 そのおとではないか。
 おとがそっくりであるばかりでなく、きょくもあのときのとおなじなのだ。アッと、かれてみだれた神経しんけい一部いちぶが、
(――オオ、おつう
 脳膜のうまくなかでさけぶと、武蔵むさし五体ごたいというものは、途端とたんに、雪崩なだれったがけのように、もろいものになってしまった。
 のがすはずはない。
 四高弟よんこうていには、そのせつな、やぶ障子しょうじのような武蔵むさしのすがたがえた。
「――たうっッ」
 正面しょうめんいっかつともに、木村助九郎きむらすけくろうひじがまるで七尺ななしゃくびたかのようにうつった。――武蔵むさしは、
「かッ」
 その刃先はさきおめかえした。
 総身そうみがついたような熱気ねっきをおぼえ、筋肉きんにくは、生理的せいりてきにかたくまって、血液けつえきは、そうとするところの皮膚ひふへ、激流げきりゅうのようにあつまった。
 ――られたっ。
 武蔵むさしはそうかんじた。ぱっとひだり袖口そでぐちおおきくやぶれて、うで根元ねもとからしになってしまったのは、そのあたりにく一緒いっしょに、たもとられたのであるとおもった。
八幡はちまんっ」
 絶対ぜったい自己じこのほかに、かみがあった。自己じこやぶから、稲妻いなずまみたいにそのこえほとばしった。
 一転いってん
 位置いちをかえて振向ふりむくと、自分じぶんのいたところへのめッて助九郎すけくろうこしあしうらえた。
「――武蔵むさしっ」
 出淵孫兵衛でぶちまごべえさけんだ。
 村田むらた庄田しょうだは、
「やあ、くちほどもない」
 よこまわってくる。
 武蔵むさしはそれにたいして、大地だいちかかとった。かれのからだはそこらのひくまつこずえをかすめるくらいなたかさにおどり、その距離きょりをさらに一躍いちやく、また一躍いちやくして、あとずにやみなかってしまった。
「――きたなし」
「――武蔵むさしっ」
はじれっ」
 した空濠からぼり急落きゅうらくしているがけのあたりで、野獣やじゅうぶようなれるおとがした。――それがやむとまた、ふえは、呂々りょりょと、ほしそらをながれてあそんでいた。