80・宮本武蔵「水の巻」「太郎(2)(3)」


朗読「80水の巻44.mp3」14 MB、長さ: 約9分53秒

 唖然あぜんとして、そこの有様ありさまをみはっていたが、やがてだれかが、
「オオ、ご愛犬あいけん太郎たろうだ」
 うめくようにつぶやくと、
「こいつ
 いきなり一人ひとり家臣かしんは、茫然ぼうぜんとしている城太郎じょうたろうのそばへき、
「おのれかッ、太郎たろうころしたのは」
 ぴゅっとのひらがよこうなった。城太郎じょうたろうはその咄嗟とっさかおわして、
「おれだ」
 と、かたげてさけんだ。
「なぜころした?」
ころすわけがあるからころした」
「わけとは」
「かたきをとったんだ」
「なに」
 意外いがい面持おももちをしたのは、城太郎じょうたろうむかっているその家臣かしんだけでなかった。
「たれのかたきを?」
「おれのかたきをおれがったんだ。おととい使つかいにとき、このいぬめが、おれのかおをこのとおりにいたから、今夜こんやこそころしてやろうとおもって、さがしていると、あそこの床下ゆかしたていたから、尋常じんじょう勝負しょうぶをしろと、名乗なのってたたかったんだ。そしておれがったんだ」
 かれは、自分じぶんけっして卑怯ひきょう決闘けっとうをしたのではないということを、かおあかくして力説りきせつするのだった。
 しかし、かれとがめている家臣かしんや、こののことを重大視じゅうだいししている人々ひとびとは、いぬ人間にんげんはたいが問題もんだいではないのである。人々ひとびとうれいやいかりをふくむ所以ゆえんは、この太郎たろう番犬ばんけんは、いま江戸表えどおもてにある主人しゅじん但馬守たじまのかみ宗矩むねのりが、ひどく可愛かわいがっていたいぬでもあり、ことに、紀州きしゅう頼宣よりのぶこうあいしている雷鼓らいこという牝犬めすいぬを、宗矩むねのり所望しょもうしてそだてたという素姓書すじょうがきもあるいぬなのであった。――それをころされたとあっては、不問ふもんしておくわけにゆかない。ろくんでいる人間にんげん二名にめいもこのいぬかかりとしてついているのでもある。
 いま血相けっそうをかえて、城太郎じょうたろうむかって、すじをてている家臣かしんが、すなわちその太郎たろうづきさむらいなのであろう。
「だまれっ」
 また一拳いっけんかれあたま見舞みまった。
 こんどはわしそこねて、そのこぶし城太郎じょうたろうみみあたりをごつんとった。城太郎じょうたろう片手かたてがそこをおさえ、あたまのがみな逆立さかだちッた。
なにするんだ!」
「おいぬころしたからには、おいぬのとおりにころしてくれる」
「おれは、このあいだの、返報しかえしをしたんだ。返報しかえしのまた返報しかえしをしてもいいのか。大人おとなのくせにそれくらいな理窟りくつがわからないのか」
 かれとしては、して、やったことだ。さむらい最大さいだいはじ面傷おもてきずだというその意気地いくじあきらかにしたのだ。むしろ、められるかとさえおもっているかもれないのである。
 だから、太郎付たろうづき家臣かしんが、いくらとがめようとおころうと、かれとしてはひるまないのだ。かえってその由謂いわれのないことを憤慨ふんがいして、反対はんたいってかかった。
「やかましいっ。いくらわっぱでも、いぬ人間にんげんのけじめがつかぬとしごろではあるまい。いぬ仇討あだうちをしかけるとは何事なにごとだ。――処分しょぶんするぞっ、こらっ、おいぬのとおりに」
 むずと城太郎じょうたろうえりがみをつかんで、その家臣かしんは、はじめてまわりの人々ひとびとをもって、同意どういもとめた。自己じこ職分しょくぶんとして、当然とうぜんにすることを宣言せんげんするのであった。
 藩士はんしたちは、だまってうなずいた。四高弟よんこうてい人々ひとびとも、こまったかおいろはしていたがだまっていた。
 ――武蔵むさし黙然もくねんていた。

「さっ、えろ小僧こぞう
 三度襟さんどえりがみを振廻ふりまわされて、がくらくらとした途端とたんに、城太郎じょうたろう大地だいちたたきつけられていた。
 おいぬ太郎付たろうづき家臣かしんは、かしぼうりかぶって、
「やいっわっぱ。おのれがおいぬころしたように、おいぬかわって、おのれをころしてやるからて。――きゃんとでもわんとでもえてい、みついていっ」
 きゅうてないのであろう、城太郎じょうたろうをくいしばって、大地だいち片手かたてをついた。そして徐々じょじょに、木剣ぼっけんともからだおこすと、子供こどもとはいえ、そのはつりがってけっし、あたまのあかは、いかりに逆立さかだって、こんがら童子どうじのようなすご形相ぎょうそうしめした。
 いぬのように、かれうなった。
 虚勢きょせいではない。
 かれは、
(おれのしたことはただしくて間違まちがっていない)
 としんじているのである。大人おとな激憤げきふんには、反省はんせいもあるが、子供こどもがほんとにいきどおると、それをんだ母親ははおやでさえてあますものだ。まして、かしぼうせられたので、城太郎じょうたろうは、たまのようになってしまった。
ころせっ、ころしてみろっ」
 子供こどもいきともおもえない殺気さっきであった。くがごとのろうがごとく、こうかれがわめくと、
「くたばれッ」
 かしぼううなりをんだ。
 一撃いちげきのもとに、城太郎じょうたろうはそこへんでいるはずである。カツンというおおきなひびきがそれを人々ひとびとみみ直覚ちょっかくさせた。
 ――武蔵むさしは、じつ冷淡れいたんなほど、なおもそのきわまで、黙然もくねんうでぐみしたまま、傍観ぼうかんしていた。
 ぶん――と城太郎じょうたろう木剣ぼっけんは、そのとき城太郎じょうたろうからくうばされていたのであった。無意識むいしきかれは、最初さいしょ一撃いちげきをそれでけたのであったが、当然とうぜんのしびれにはなしてしまったものらしく、つぎ瞬間しゅんかんには、
「こん畜生ちくしょう
 をつぶって、てき帯際おびぎわぶりついていた。
 にものぐるいのつめは、相手あいて急所きゅうしょせいしてはなさなかった。かしぼうは、そのために、二度にどほどくうはらった。子供こどもあなどったのがそのもの不覚ふかくなのである。それにはんして城太郎じょうたろうかおつきはにもけないほど物凄ものすごかった。くちいててきにくいこみ、つめころもきぬいていた。
「こいつめッ」
 するとまた一本いっぽん、べつなかしぼうあらわれ、そうしている城太郎じょうたろう背後はいごから、かれこしねらって、なぐろそうとしたときである。武蔵むさしはじめてうでいた。石垣いしがきのようにじっとかたくなっていた人々ひとびとあいだから、ついとすすしたのが、はっとかんじるもないくらいな行動こうどうであった。
卑怯ひきょう
 二本にほんあしぼうちゅうえがいたとおもうと、どたっとまりみたいなもの二間にけんさき大地だいちころがった。
 そのつぎには、
「この悪戯者いたずらものめが」
 と、しかりながら、城太郎じょうたろう腰帯こしおび諸手もろてをかけて、武蔵むさしは、自分じぶんあたまうえに、高々たかだかげてしまった。
 そしてまた、咄嗟とっさぼうなおしている太郎付たろうづけ家臣かしんむかい、
最前さいぜんからておるが、すこしお取調とりしらべに手落ておちがあろう。これは、拙者せっしゃ下僕しもべでござるが、貴公きこうたちは、そもそも、つみを、この小童こどもわれるつもりか、それとも主人しゅじんたる拙者せっしゃうつもりか」
 すると、その家臣かしんは、激越げきえつにいいかえした。
「いうまでもなく、双方そうほうただすのじゃ」
「よろしい。しからば、主従二人しゅじゅうふたりして、お相手あいていたそう。それっ、おわたしするぞ」
 ことばのもとに、城太郎じょうたろうからだは、相手あいて姿すがたむかってほうげられた。