朗読「地の巻9.mp3」24 MB、長さ: 約10分21秒
花御堂
一
山また山という言葉は、この国において初めてふさわしい。播州龍野口からもう山道である、作州街道はその山ばかりを縫って入る、国境の棒杭も、山脈の背なかに立っていた、杉坂を越え、中山峠を越え、やがて英田川の峡谷を足もとに見おろすあたりまでかかると、
(おやこんな所まで、人家があるのか)
と、旅人は一応そこで眼をみはるのが常だった。
しかも戸数は相当にある。山沿いや、峠の中腹や、石ころ畑や、部落の寄りあいではあるが、つい去年の関ヶ原の戦の前までは、この川の十町ばかり上流には、小城ながら新免伊賀守の一族が住んでいたし、もっと奥には、因州境の志戸坂の銀山に、鉱山掘りが今もたくさん来ている。
――また鳥取から姫路へ出る者、但馬から山越えで備前へ往来する旅人など、この山中の一町には、かなり諸国の人間がながれこむので、山また山の奥とはいえ、旅籠もあれば、呉服屋もあり、夜になると、白い蝙蝠のような顔をした飯盛女も軒下に見えたりする。
ここが、宮本村だった。
石を乗せたそれらの屋根が、眼の下に見える七宝寺の縁がわで、お通は、
「アア、もうじき、一年になる」
ぼんやり、雲を見ながら、考えていた。
孤児であるうえに、寺育ちのせいもあろう、お通という処女は、香炉の灰のように、冷たくて淋しい。
年は、去年が十六、許嫁の又八とは、一つ下だった。
その又八は、村の武蔵といっしょに、去年の夏、戦へとびだしてから、その年が暮れても、沙汰がなかった。
正月には――二月には――と便りの空だのみも、この頃は頼みに持てなくなった。もう今年の春も四月に入っているのだった。
「――武蔵さんの家へも、何の音沙汰がないというし……やっぱり二人とも、死んだのかしら」
たまたま、他人に向って、嘆息をもらして訴えると、あたりまえじゃと、誰もがいう。ここの領主の新免伊賀守の一族からして、一人として、帰って来た者はいないのだ、戦の後、あの小城へ入っているのは、みな顔も知らない徳川系の武士衆ではないかという。
「なぜ男は、戦になど行くのだろう。あんなに止めたのに――」
縁がわに坐りこむと、お通は、半日でもそうして居られた、さびしいその顔が、独りで物思うことを好むように。
きょうも、そうしていると、
「お通さん、お通さん」
誰かよんでいる。
庫裡の外だった。真っ裸な男が、井戸のほうから歩いてくる、まるで煤しにかけた羅漢である。三年か四年目には、寺へ泊る但馬の国の雲水で、三十歳ぐらいな若い禅坊主なのだ、胸毛のはえた肌を陽なたにさらして、
「――春だな」
独りでうれしそうにいう。
「春はよいが、半風子のやつめ、藤原道長のように、この世をばわがもの顔に振舞うから、一思いに今、洗濯したのさ。……だが、このボロ法衣、そこの茶の木には干しにくいし、この桃の樹は花ざかりだし、わしが生半可、風流を解する男だけに、干し場に困ったよ。お通さん、物干し竿あるか」
お通は、顔を紅らめて、
「ま……沢庵さん、あなた、裸になってしまって着物の乾くあいだ、どうする気です?」
「寝てるさ」
「あきれたお人」
「そうだ、明日ならよかった、四月八日の灌仏会だから、甘茶を浴びて、こうしている――」
と、沢庵は、真面目くさって、両足をそろえ、天上天下へ指をさして、お釈迦さまの真似をした。
二
「――天上天下唯我独尊」
いつまでもご苦労さまに、沢庵が真面目くさって、誕生仏の真似して見せているので、お通は、
「ホホホ、ホホホ。よく似あいますこと。沢庵さん」
「そっくりだろう、それもそのはず。わしこそは悉達多太子の生れかわりだ」
「お待ちなさい、今、頭から甘茶をかけてあげますから」
「いけない。それは謝る」
蜂が、彼の頭をさしに来た。お釈迦さまはまた、あわてて蜂へも両手をふりまわした。蜂は、彼のふんどしが解けたのを見て、その隙に逃げてしまった。
お通は、縁にうつ伏して、
「アア、お腹がいたい」
と、笑いがとまらずにいた。
但馬の国生れの宗彭沢庵と名のるこの若い禅坊主には、ふさぎ性のお通も、この青年僧の泊っているあいだは、毎日笑わずにいられないことが多かった。
「そうそうわたしは、こんなことをしてはいられない」
草履へ、白い足をのばすと、
「お通さん、どこへ行くのかね」
「あしたは、四月八日でしょう、和尚さんから、いいつけられていたのを、すっかり忘れていた。毎年するように、花御堂の花を摘んできて、灌仏会のお支度をしなければならないし、晩には、甘茶も煮ておかなければいけないでしょう」
「――花を摘みにゆくのか。どこへ行けば、花がある」
「下の庄の河原」
「いっしょに行こうか」
「たくさん」
「花御堂にかざる花を、一人で摘むのはたいへんだ、わしも手伝おうよ」
「そんな、裸のままで、見ッともない」
「人間は元来、裸のものさ、かまわん」
「いやですよ、尾いて来ては!」
お通は逃げるように、寺の裏へ駈けて行った。やがて負い籠を背にかけ、鎌を持って、こっそり裏門からぬけてゆくと、沢庵は、どこから捜してきたのか、ふとんでも包むような大きな風呂敷を体に巻いて、後からついてきた。
「ま……」
「これならいいだろう」
「村の人が笑いますよ」
「なんと笑う?」
「離れて歩いてください」
「うそをいえ、男と並んで歩くのは好きなくせに」
「知らない!」
お通は先へ駈け出してしまう。沢庵は、雪山から降りてきた釈尊のように、風呂敷のすそを翩翻と風にふかせながら、後ろから歩いて来るのであった。
「アハハハ、怒ったのかい、お通さん、怒るなよ、そんなにふくれた顔すると、恋人にきらわれるぞ」
村から四、五町ほど下流の英田川の河原には、撩乱と春の草花がさいていた。お通は、負い籠をそこにおろして、蝶の群れにかこまれながら、もうそこらの花の根に、鎌の先をうごかしている――
「平和だなあ」
青年沢庵は、若くして多感な――そして宗教家らしい詠嘆を洩らしてその側に立った。お通が、せっせと花を刈っている仕事には手伝おうともしないのである。
「……お通さん、おまえの今の姿は、平和そのものだよ。人間は誰でも、こうして、万華の浄土に生を楽しんでいられるものを、好んで泣き、好んで悩み、愛慾と修羅の坩堝へ、われから墜ちて行って、八寒十熱の炎に身を焦かなければ気がすまない。……お通さんだけは、そうさせたくないものだな」