71・宮本武蔵「水の巻」「芍薬の使者(1)(2)」


朗読「71水の巻35.mp3」14 MB、長さ: 約10分24秒

芍薬しゃくやく使者ししゃ

 つるのような老人ろうじんである。もう八十歳はちじゅうにかかっているが、品位ひんいとしともについて、高士こうしふうをそなえているし、達者たっしゃもご自慢じまんなのだ。
百歳ひゃくさいまではきる」
 と、つねにいっている。
 それというのも、この石舟斎せきしゅうさいには、
柳生家やぎゅうけ代々だいだい長寿ちょうじゅじゃ。二十歳はたちだい、三十さんじゅうだいでんだものは、みな戦場せんじょうおわったものばかり。たたみうえではどの先祖せんぞも、五十ごじゅう六十ろくじゅうんだのはない」
 という信念しんねんがあるからだ。
 いや、そういう血統けっとうでないにしても、石舟斎せきしゅうさいのような処世しょせい老後ろうごこころがければ、百歳ひゃくさいくらいきるのはあたりまえにもおもわれる。
 享禄きょうろく天文てんぶん弘治こうじ永禄えいろく元亀げんき天正てんしょう文禄ぶんろく慶長けいちょう――とこうなが乱世らんせなかきてて、こと四十七歳よんじゅうななさいまでの壮年期そうねんきは、三好党みよしとうらんだの、足利氏あしかがし没落ぼつらくだの、松永氏まつながし織田氏おだし興亡こうぼうだのに、この地方ちほうにあっても、弓矢ゆみやいとまはなかったのであるが、自分じぶんでも、
「ふしぎとななかった」と、いっている。
 四十七歳よんじゅうななさいからは、なにかんじたのか、一切弓矢いっさいゆみやらず、たとえば足利将軍あしかがしょうぐん義昭よしあきが、好餌こうじをもってさそっても、信長のぶなががしきりとまねいても、豊臣氏とよとみし赫々かっかく覇威はい四海しかいにあまねくしても、その大坂おおさか京都きょうとのついはなさきにいながら、この人物じんぶつは、
(わしは、みみこえぬ、、くちがきけぬ))
 というように、なかから韜晦とうかいして、穴熊あなぐまのように、この山間さんかん三千石さんぜんごく後生大事ごしょうだいじまもってなかった。
 あとに、ひとかたって、
「よくってたものじゃ。あしたあってゆうべのわからぬ治乱興亡ちらんこうぼうあいだを、こんな小城こじょうひとつが、ぽつねんと、今日きょうまで無事ぶじにあるということは、戦国せんごく奇蹟きせきじゃないか――」
 と、石舟斎せきしゅうさいはよくいった。
 なるほど――
 ものは、かれ達見たっけんにみな感服かんぷくした。足利義昭あしかがよしあきについていれば信長のぶながたれたろうし、信長のぶながしたがっていれば秀吉ひでよしとのあいだはどうなったかれず、秀吉ひでよし恩顧おんこをうけていれば、当然とうぜん、そのせきはらには、家康いえやすにしてやられている。
 また、その興亡こうぼうなみを、うまくりぬけて、無事ぶじ家系かけいささえようとするには、はじ外聞がいぶんもなく、きょうはかれ味方みかたせて、明日あすかれ裏切うらぎり、節操せっそうなく、意地いじもなく、場合ばあいには、一族いちぞく血縁けつえんにすら、こうよう、というくらいな武士道以外ぶしどういがいなつよさもたなければ不可能ふかのうなのである。
「わしには、それが出来できん」
 と、石舟斎せきしゅうさいがいうのは、ほんとうであろう。
 そこで、かれ居間いまには、

をわたるわざのなきゆゑ
兵法へいほうかくとのみ
たのむなれや

 と自詠じえい一首いっしゅが、懐紙かいしかれて、かべ茶掛ちゃかけとなっている。
 だが、この老子的ろうしてき達人たつじんも、家康いえやすれいあつしうしてまねくにいたると、
懇招こんしょうもだがたし――)
 とつぶやいて、何十年間なんじゅうねんかん道境三昧どうきょうざんまいて、京都きょうと紫竹しちくむらたかみね陣屋じんやで、はじめて、大御所おおごしょえっしたのであった。
 そのとき、つれてったのが、五男又右衛門ごなんまたえもん宗矩むねのり、その年二十四歳としにじゅうよんさいまご新次郎しんじろう利厳としとしが、まだ十六歳じゅうろくさい前髪まえがみ
 こう二人ふたり鳳雛ひなをつれて、家康いえやすえっした。そして、旧領三千石安堵きゅうりょうさんぜんごくあんど墨付すみつきともに、
以後いご徳川家とくがわけ兵法所へいほうじょつかえるように」
 と、家康いえやすがいうと、
なにとぞ、せがれ宗矩むねのりを」
 と、推挙すいきょして、自分じぶんはまた、柳生谷やぎゅうだに山荘さんそう退こもってしまった。そして又右衛門宗矩またえもんむねのりが、将軍家指南番しょうぐんけしなんばんとして、江戸表えどおもてることになったおりに、この老龍ろうりゅうさずけたものは、いわゆるわざちから剣術けんじゅつではなく、
おさむるの兵法へいほう
 であった。

 かれの「おさむるの兵法へいほう」は、またかれの「おさむるの兵法へいほう」でもあった。
 石舟斎せきしゅうさいはそれを、
「これみな御恩ごおん
 とつねにいって、ひたすら上泉かみいずみ伊勢守信綱いせのかみのぶつなとくわすれなかった。
伊勢殿いせどのこそ柳生家やぎゅうけまもがみぞや」
 くちぐせに、かれのいうとおり、かれ居間いまたなには、つねに、伊勢守いせのかみからけた新陰流しんかげりゅう印可いんかと、四巻よんかん古目録こもくろくとがほうじてあり、忌日きにちには、ぜんそなえてまつることもわすれなかった。
 その四巻よんかん古目録こもくろくというのは、一名いちめい絵目録えもくろくともいって、上泉伊勢守かみいずみいせのかみ自筆じひつで、新陰流しんかげりゅうかく太刀だちを、文章ぶんしょういたものであった。
 時折ときおり石舟斎せきしゅうさいは、老後ろうごになっても、それをりひろげて、しのぶのであった。
妙手みょうしゅでおわした」
 いつもふしぎにたれるのが、そのであった。天文時代てんぶんじだい風俗ふうぞくをすがたにった人物じんぶつ人物じんぶつとが、颯爽さっそうと、あらゆる太刀たちかたちって、白刃しらは斬合きりあいをしている――それをながめていると、神韻縹渺しんいんひょうびょうとして、山荘さんそうのきに、きりせまってくる心地ここちがするのである。
 伊勢守いせのかみが、この小柳生城こやぎゅうじょうたずねてたのは、石舟斎せきしゅうさいがまだ兵馬へいば野心やしん勃々ぼつぼつとしていた三十七さんじゅうしち八歳はっさいのころだった。
 そのころ、上泉伊勢守かみいずみいせのかみは、おい疋田文五郎ひきだぶんごろうというものと、老弟ろうてい鈴木すずき意伯いはくをつれ、諸国しょこく兵法家へいほうかもとめて遊歴ゆうれきしていたもので、それがふと伊勢いせふと御所ごしょといわれる北畠きたばたけ具教とものり紹介しょうかいで、宝蔵院ほうぞういんまみえ、宝蔵院ほうぞういん覚禅房かくぜんぼう胤栄いんえいは、小柳生城こやぎゅうじょう出入でいりしていたので、「こんなおとこたが」
 と、石舟斎せきしゅうさい――そのころは、まだ柳生やぎゅう宗厳むねよしっていたかれはなした。
 それが、機縁きえんだった。
 伊勢守いせのかみ宗厳むねよしは、三日みっかにわたって、試合しあいをした。
 第一日だいいちにちうと、
「とりますぞ」
 伊勢守いせのかみは、ところ明言めいげんしておいて、言葉ことばのとおりちこんだ。
 第二日だいににちも、おなじようにけた。
 宗厳むねよしは、自尊じそんきずつけられた、つぎ工夫くふうらし、精神せいしんひそめて、たいかたちえた。
 すると伊勢守いせのかみは、
「それはわるい、それでは、こうる」
 といって、たちまち、まえ二日ふつかおなじように、指摘してきしたところ太刀たちあたえた。
 宗厳むねよしは、我執がしゅう太刀たちをすてて、
はじめて、兵法へいほうた」
 といった。
 それから半歳はんとしあいだって、伊勢守いせのかみ小柳生城こやぎゅうじょうにひきとめて、一心いっしんおそわった。
 伊勢守いせのかみは、ながくはと、たもとわかおりに、
「まだまだわたし兵法へいほうなどは未完成みかんせいなものです。あなたはわかい、わたし未完成みかんせい完成かんせいしてみるがよい」
 こういって、ひとつの公案こうあんさずけてった。その公案こうあん――問題もんだいというのは、
 無刀むとう太刀たち如何いかん
 という工夫くふうであった。
 宗厳むねよしは、以来数年間いらいすうねんかん無刀むとう理法りほうかんがえつめた。寝食しんしょくをわすれて、研鑽けんさんした。
 のち伊勢守いせのかみがふたたびかれおとずれたときには、かれまゆあかるかった。
「いかがあろうか」
 と、試合しあうと、
「む!」
 伊勢守いせのかみは、一目見ひとめみて、
「もうあなたと太刀打たちうちはむだなことである。あなたは、真理しんりをつかまれた」
 そういって、印可いんか絵目録四巻えもくろくよんかんのこしてった。
 柳生流やぎゅうりゅうは、ここから誕生たんじょうし、また、石舟斎宗厳せきしゅうさいむねよし晩年ばんねん韜晦とうかいも、この兵法へいほうんだところの一流いちりゅう処世術しょせいじゅつであったのである。