66・宮本武蔵「水の巻」「般若野(7)(8)」


朗読「66水の巻30.mp3」13 MB、長さ: 約9分46秒

かみさま!」
 をあわせて、城太郎じょうたろうは、大空おおぞらおがんでいた。
「――かみさま、加勢かせいしてください。わたくしのお師匠様ししょうさまいま、このしたさわで、あんな大勢おおぜいてきと、ただひとりでたたかおうとしているんです。わたくしのお師匠様ししょうさまは、よわいけれど、わる人間にんげんではありません」
 武蔵むさしてられても、その武蔵むさしからはなれられないで、とおまもりながら、かれいま般若野はんにゃのさわうえにあたるところへて、ぺたっとすわっている。
 仮面めんかさもそばへいて、
「――八幡はちまんさま、金毘羅こんぴらさま、春日かすがみやかみさまたち! あれあれ、お師匠様ししょうさまはだんだんてきまえあるいてゆきます。正気しょうき沙汰さたではありません。かわいそうに、ふだんよわいものですから、今朝けさからすこしへんになってしまったんです。さもなければ、あんな大勢おおぜいまえへ、一人ひとりむかってゆくはずはありません。どうかかみさまたち! 一人ひとりのほうへ助太刀すけだちしてください」
 百拝ひゃくはい千拝せんはい、その城太郎じょうたろうこそへんになったように、しまいにはこえげて繰返くりかえすのであった。
「――このくに神様かみさまはいないんでしょうか。もし卑怯ひきょう大勢おおぜいって、ただしい一人ひとりのほうがられたり、正義せいぎでないもの存分ぞんぶんなまねをして、ただしいものがなぶりころしになったりしたら、むかしからのつたえはみなうそッぱちだといわれても仕方しかたがありますまい。イヤ、おいらは、もしそうなったらかみさまたちつばしてやるぞ!」
 理窟りくつ幼稚ようちであっても、かれひとみばしっていて、むしろもっとふか理窟りくつのある大人おとなのさけびよりも、てんをしてそのけんまくにおどろかしめるものがあった。
 それだけにはとどまらない。やがて、城太郎じょうたろうは、彼方かなたのひくい芝地しばちさわえるひとかたまりの人数にんずうが、ただ一人ひとり武蔵むさしを、やいばなかかこんで、はりをつつんで旋風つむじのような光景こうけいえがすと、
「――畜生ちくしょうっ」
 ふたつのこぶしともがり、
卑怯ひきょうだっ」
 と、絶叫ぜっきょうし、
「ええ、おいら大人おとなならば……」
 と、だんだんでし、
馬鹿ばかっ、馬鹿ばかっ」
 と、そこらじゅうをけあるき、
「――おじさアん! おじさアん! おいらは、ここにいるよッ」
 しまいには彼自身かれじしんが、完全かんぜんなるかみさまとなりって、
「――けだものっ、けだものっ、お師匠様ししょうさまころすと、おれが承知しょうちしないぞっ!」
 ありッたけなこえで、さけんでいたものである。
 そして、そこからの遠目とおめにも、彼方かなたくろいの渦中かちゅうから、ぱッ、ぱッ、としぶきがち、ひとたおふたたおれ、死骸しがいにころがるのをると、
「ヤッ、おじさんがった。――お師匠様ししょうさまはつよいぞっ」
 こんな多量たりょうしおをいて、人間同士にんげんどうし獣性じゅうせいうえ乱舞らんぶする実際じっさいを、この少年しょうねんは、うまれてはじめて目撃もくげきしたにちがいない。
 いつか城太郎じょうたろうは、自分じぶん彼方あなた渦中かちゅうにあって、からだじゅうをっているかのようにってしまい、その異様いよう興奮こうふんは、かれ心臓しんぞうにもんどりたせた。
「――ざまろッ、どんなもんだい。おたんちん! ひょっとこ! おいらのお師匠様ししょうさまは、こんなもンだ。カアカアからす宝蔵院ほうぞういんめ、ざまあさらせ! やりばかりべてやがって、まい、あしまい!」
 だが、やがて彼方むこう形勢けいせい一変いっぺんして、それまで静観せいかんしていた宝蔵院衆ほうぞういんしゅうやりが、俄然がぜんうごきすと、
「あっ、いけない、総攻そうぜめだっ」
 武蔵むさし危機きき! いま最期さいごかれにもわかった。城太郎じょうたろうはついにのほどもわすれてしまい、そのちいさいからだたまのようにいきどおらせて、おかうえから一箇いっこいわでもころがるかのようにりていた。

 宝蔵院初代ほうぞういんしょだい槍法そうほうをうけて、かくれもない達人たつじんといわれる二代にだい胤舜いんしゅんは、
「よしッ、やれっ」
 そのとき、すさまじいこえをもって、さっきから静観せいかん槍先やりさきよこたえたまま、っていた十数名じゅうすうめい門下もんか坊主ぼうずたちへ、号令ごうれいしたのである。
 ぴゅうーっと、しろひかりはその途端とたんに、はちはなったように八方はっぽうはしった。坊主ぼうずあたまというものには、一種特別いっしゅとくべつ剛毅ごうき野蛮性やばんせいがある。
 くだやり片鎌かたかま、ささほ、十文字じゅうもんじ、おのおのがつかいれた一槍いちそうよこたえて、そのカンカチあたまとともに、えておどったのだ。
 ――ありゃあっ。
 ――えおうっ。
 野彦のびこげて、もうその槍先やりさきいくつかはっている。きょうこそまたとない、実地じっち稽古日けいこびのように。
 ――武蔵むさしは、咄嗟とっさに、
新手あらて!)
 とかんじて退しさっていた。
見事みごとのう!)
 もうつかれてかすんでいる脳裏のうりでふとそうかんがえ、血糊ちのりでねばるかたなつか両手りょうてでぎゅっとったまま、あせでふさがれた眼膜がんまくをじっとみはっていたが、かれむかってやりひとつもなかった。
「……や?」
 どうかんがえてもありない光景こうけい展開てんかいされていた。茫然ぼうぜんと、かれは、その不可思議ふかしぎ事実じじつまわしてしまった。
 なぜならば、坊主ぼうずあたまの槍仕やりしたちが、われがちに獲物えものあらそ猟家りょうかいぬみたいに、いまわしてズブズブしているのは、かれらとは、味方みかたであるはずの牢人ろうにんたちへむかってであった。
 からくも、武蔵むさし太刀先たちさきから退しりぞいて、ほっとしかけていた連中れんちゅうまでが、
てっ」
 と、ばれたので、まさかとおもってっていると、
蛆虫うじむしめら」
 と不意ふい槍先やりさきっかけられて、ちゅうばされたりした。
「やいっ、やいっ、なにするんだっ、くるったか。馬鹿坊主ばかぼうずめ、相手あいてろっ、相手あいてちがうっ」
 とさけんだりころげたりするものしりねらって、なぐものがあるし、ものがあるし、また、ひだりほおからみぎほおやりきとおして、やりくわえられたとおもい、
はなせっ」
 と目刺魚めざしみたいに振廻ふりまわしているのもある。
 おそろしい屠殺とさつおこなわれたその瞬間しゅんかんのちなんともいえないしんとしたかげおおった。おもてけるにえないように、太陽たいようにもくもがかかっていた。
 みなごろしだった。あれだけいた牢人者ろうにんものを、一人ひとりとしてこの般若野はんにゃのさわからそとらさなかったのである。
 武蔵むさしは、自分じぶんしんじられなかった。太刀たちかまえていたも、りつめていたも、茫然ぼうぜんとはなりながら、ゆるめることができなかった。
(――なんで? かれ同士どうしが)
 まったく判断はんだんがつかないのである。いくらいま武蔵自身むさしじしん人間性にんげんせいが、人間にんげん離脱りだつしたうばいあいに、夜叉やしゃけもののたましいをひとつにつような体熱たいねつからまだめきれないでいるにしても――あまりにおもいきった殺戮さつりくがくらむ心地ここちがする。
 いやそうかんじたのは、他人たにんのする虐殺ぎゃくさつせられて、途端とたんに、かれ本来ほんらい人間にんげんかえってしまった証拠しょうこといえる。
 同時どうじかれは、地中ちちゅうへふかくんでいるようにちからかたくなっている自分じぶんあしに、――また、自分じぶん両手りょうてにしがみついて、オイオイいている城太郎じょうたろうにも、ふとがついた。