8・宮本武蔵「地の巻」「おとし櫛(4)(5)」


朗読「地の巻8.mp3」24 MB、長さ: 約10分37秒

 野馬のうまが、まどくびれて、いえなかまわした。はならして、おおきないきをしたので、そこにていた二人ふたりをさました。
「こいつめ」
 武蔵たけぞうは、うまかおを、平手ひらてなぐった。又八またはちは、こぶし天井てんじょうきあげるようなびをしながら、
「アアよくた」
たかいな」
「もう日暮ひぐれじゃないか」
「まさか」
 ひと晩寝ばんねると、もう昨日きのうのことはあたまにない、今日きょう明日あすがあるだけの二人ふたりである。武蔵たけぞうは、早速さっそくうらへとびだして、もろはだをぬぎした。清冽せいれつながれでからだき、かおあらい、太陽たいようひかりと、ふかそら大気たいきを、はらいっぱいいこむように仰向あおむいていた。
 又八またはち又八またはちで、寝起ねおきのかおったまま、炉部屋ろべやって、そこにいるおこう朱実あけみへ、
「おはよう」
 わざと、陽気ようきにいって、
「おばさん、いやにふさいでいるじゃないか」
「そうかえ」
「どうしたんだい、おばさんの良人おっとったという辻風典馬つじかぜてんまは、ころしてくれたし、その乾児こぶんも、らしてやったのに、ふさいでいることはなかろうに」
 又八またはち怪訝いぶかるのはもっともだった。典馬てんまってやったことはどんなに、この母娘おやこからよろこばれることだろうと期待きたいしていたのに、ゆうべも、朱実あけみをたたいてよろこんだが、おこうは、かえって不安ふあんかおせた。
 その不安ふあんを、今日きょうまでして、ばたにしずみこんでいるのが、又八またはちには、不平ふへいでもあるし、わけがわからない――
「なぜ。なぜだい、おばさん」
 朱実あけみんでくれた渋茶しぶちゃをとって、又八またはちひざをくむ。おこうは、うすくわらった、世間せけんらない若者わかもののあらい神経しんけいうらやむように。
「――だって、またさん、辻風典馬つじかぜてんまにはまだ何百なんびゃくという乾児こぶんがあるんだよ」
「あ、わかった。――じゃあやつらの仕返しかえしを、こわがっているんだな、そんなものがなんだ、おれ武蔵たけぞうがおれば――」
「だめ」
 かるった。
 又八またはちは、かたりあげて、
「だめなことはない、あんなむしけら、幾人いくにんでもい、それとも、おばさんは、おれたちがよわいとおもっているのか」
「まだ、まだ、おまえさんたちは、わたしのからても、あかぼうだもの。典馬てんまには、辻風つじかぜ黄平こうへいというおとうとがあって、この黄平こうへいがひとりれば、おまえさんたちは、たばになってもかなわない」
 これは又八またはちにとって心外しんがいなる言葉ことばであった。けれど、だんだんと後家ごけはなすところをくと、そうかなあとおもわぬこともない。辻風黄平つじかぜこうへいは、木曾きそ野洲川やすがわおおきな勢力せいりょくっているばかりでなく、また兵法へいほう達人たつじんであるばかりでなく、乱波らっぱ忍者しのび)の上手じょうずで、このおとこころそうとけねらった人間にんげん天寿てんじゅまっとうしているものはかつてなかった。正面しょうめんから名乗なのってくるならふせぎもなろうが、寝首ねくびきの名人めいじんには、ふせぎがないというのである。
「そいつは、苦手にがてだな、おれのような寝坊ねぼうには……」
 又八またはちが、あごをつまんでかんがえこむと、おこうは、もうこうなっては仕方しかたがないから、このいえをたたんで、どこか、他国たこくってくらすほかはない、ついては、おまえさん達二人たちふたりはどうするかといいだした。
武蔵たけぞうに、相談そうだんしてみよう。――どこへったろ、あいつめ」
 戸外おもてにも、いなかった。をかざしてとおくをると、いまがたいえのまわりにうろついていた野馬のうまにとびって伊吹山いぶきやま裾野すそのりまわしている武蔵たけぞうのすがたが、はるかに、ちいさくえた。
「のんやつだな」
 又八またはちは、つぶやいて、両手りょうてくちにかざした。
「おおいっ。かえっていようっ」

 くさのうえに、二人ふたりころんだ。友達ともだちほどいいものはない、ころびながらの相談そうだんもいい。
「じゃあ、おれたちは、やっぱり故郷くにかえるとめるか」
かえろうぜ。――いつまで、あの母娘おやこいっしょにくらしているわけにもゆくまい」
「ウム」
おんなはきらいだ」
 武蔵たけぞうが、いうと、
「そうだな、そうしよう」
 又八またはちは、仰向あおむけにひっくりかえった。そして青空あおぞらむかって、どなるように、
「――かえるとめたら、きゅうに、おら、おつうかおたくなった!」
 あしを、ばたばたさせて、
畜生ちくしょう、おつうが、かみあらったときのようなくもがあるぞ」
 と、そらゆびさす。
 武蔵たけぞうは、自分じぶんりすてた野馬のうましりていた、人間にんげんなかまでも、ものなかにいい性質せいしつがあるように、うま野馬のうまだてがよい、ようがすめば、なにもとめず、勝手かってにひとりでどこへでもってしまう。
 むこうで、朱実あけみが、
御飯ごはんですようっ――」
 と、ぶ。
めしだ」
 二人ふたりがって、
又八またはち馳競かけッこ」
「くそ、けるか」
 朱実あけみは、をたたいて、くさぼこりをててけてくる二人ふたりむかえた。
 ――だが、朱実あけみは、ひるすぎからきゅうしずんでいた、二人ふたりが、故郷くにかえるとめたことをいてからである。二人ふたり家庭かていじってからの愉快ゆかい生活せいかつを、この少女しょうじょは、このさきながいものとおもっていたらしかった。
「お馬鹿ばかちゃんだよ、おまえさんは、なにをメソメソしているのだえ」
 夕化粧ゆうけしょうをしながら、後家ごけのおこうは、しかっていた、そして、ばたにいた武蔵たけぞうを、かがみなかから、にらみつけた。
 武蔵たけぞうはふと、まえばんの、枕元まくらもとせまった後家ごけのささやきと、甘酸あまずかみをおもいだして、よこいた。
 よこには、又八またはちがいた、さけつぼたなからって、自分じぶんいえもののように勝手かって酒瓶ちろりへうつしているのだ、今夜こんやはおわかれだからおおいにもうというのである、後家ごけ白粉おしろいは、いつもより念入ねんいりだった。
「あるったけんでしまおうよ。えんしたのこしてったってつまらない」
 酒壺さかつぼみっつもたおした。
 おこうは、又八またはちにもたれかかって、武蔵たけぞうかおをそむけるようなわるふざけをしてせた。
「あたし……もうあるけない」
 又八またはちあまえて、寝所しんしょまで、かたりてほどだった。そして、つらあてのように、
たけさんは、そこいらで、一人ひとりでお。――一人ひとりきなんだから」
 と、いった。
 いわれたとお武蔵たけぞうはそこでよこになってしまった。ひどくっていたし、よるもおそかったし、がさめたのは、もう、翌日よくじつがカンカンあたっているころだった。
 ――して、かれがすぐづいたことは、いえなかが、がらんとしていることだった。
「おや?」
 きのう朱実あけみ後家ごけがひとまとめにしていた荷物にもつがない、衣裳いしょうも、履物はきものくなっている。第一だいいち、その母娘おやこのすがたばかりでなく、又八またはちえないのだ。
又八またはちっ。……おいっ」
 うらにも、小屋こやなかにも、いなかった。ただはなしになっている水口みずぐちぎわに、後家ごけのさしていたあかくし一枚落いちまいおちていただけである。
「あ? ……又八またはちめ……」
 くしはなにつけていでみた、おとといのばんこわ誘惑ゆうわくをそのにおいはおもさせた、又八またはちは、これにけたのだ、なんともいえないさびしさがむねをつきあげた。
阿呆あほうっ、おつうさんを、どうするか」
 くしを、そこへ、たたきつけた。自分じぶん腹立はらだたしさより、かれ故郷くにっているおつうのためにきたいがする――
 憮然ぶぜんとして、いつまでも、台所だいどころにぶっすわっている武蔵たけぞうのすがたをて、きのうの野馬のうまが、のっそりと、軒下のきしたからかおした。いつものように、武蔵たけぞうはなづらをでてやらないので、うまは、ながだいにふやけている飯粒めしつぶめまわしていた。