55・宮本武蔵「水の巻」「巡りぞ会わん(5)(6)」


朗読「55水の巻19.mp3」14 MB、長さ: 約10分06秒

 そうかされてみると奈良ならくのも、はなは不気味ぶきみなことになる。
 おつうかんがえこんでしまった。
 奈良ならに、かすかな手懸てがかりでもあるならば、どんな危険きけんをもいとうことではないが――
 そういう心当こころあたりは、彼女かのじょにはいまところまるでないのである。ただ漠然ばくぜんと――姫路城下ひめじじょうか花田橋はなだばしたもとからあのまま数年すうねん月日つきひを――たびからたびへ、あてなく、彷徨さまよってたにぎない。いまも、そのはかな流浪るろう途中とちゅうぎない――
「おつうどのともうされたの――」
 彼女かのじょまよっているかおいろをて、ひげざむらい庄田しょうだが、
「どうであろう、最前さいぜんから、もうしそびれていたが、これから奈良ならかれるより、わしとともに、小柳生こやぎゅうまでてくれないか」
 といいした。
 そこで、その庄田しょうだ自分じぶん素姓すじょうかしていうことに、
「わしは小柳生こやぎゅう家中かちゅうで、庄田喜左衛門しょうだきざえもんもうものだが、じつは、もはや八十はちじゅうにおちか自分じぶん御主君ごしゅくんは、このところおからだもおよわくて毎日まいにち無聊ぶりょうくるしんでおられる。そなたが、ふえいて糊口くちすぎをいたしておるというのでおもいついたことだが、あるいは、そうしたおりゆえ、大殿おおとののよいおなぐさみになろうかれぬ。どうだな、てくれまいか」
 茶売ちゃうりの老人ろうじんは、そばにあって、それはよいおもいつきと喜左衛門きざえもんともしきりにすすめた。
「お女中じょちゅう、ぜひおともしてかっしゃれ。ってでもあろうが、小柳生こやぎゅう大殿おおとのとは、柳生やぎゅう宗厳むねよしさまのこと、いまでは、御隠居ごいんきょあそばして、石舟斎せきしゅうさいもうしあげているおかたじゃ、若殿わかどの但馬守宗矩たじまのかみむねのりさまは、せきはらいくさからおかえりあそばすとすぐ、江戸表えどおもてされて、将軍家しょうぐんけ御師範役ごしはんやく。またとない御名誉ごめいよなおいえがらじゃ、そうしたやかたへ、されるだけでもまたとない果報かほう、ぜひぜひおともなされませ」
 有名ゆうめい兵法へいほう名家めいか柳生家やぎゅうけ家臣かしんいて、おつう喜左衛門きざえもん物腰ものごしが、只人ただびととはおもえなかったことが、さてこそと、こころのうちに、うなずかれた。
がすすまぬか」
 喜左衛門きざえもんが、あきらめかけると、
「いいえ、ねごうてもないことでございますが、つたなふえ、さような御身分ごみぶんのあるおかたまえでは」
「いやいや、ただの大名衆だいみょうしゅうのようにおもうては、柳生家やぎゅうけでは、おおきにちがう。こと石舟斎せきしゅうさいさまおおせられて、いまでは、簡素かんそ余生よせいたのしんでいられる茶人ちゃじんのようなおかただ、むしろ、そういうがねはおきらいなさる」
 漫然まんぜん奈良ならへゆくより、おつうはこの柳生家やぎゅうけほうひとつの希望きぼうをつないだ。柳生家やぎゅうけといえば、吉岡以後よしおかいご兵法第一へいほうだいいち名家めいか、さだめし諸国しょこく武者修行むしゃしゅぎょうおとずれているにちがいない。そして、もんたたいたものせた芳名帳ほうめいちょうそなえているかもれない。――そのうちにはもしかしたら自分じぶんさがあるいている――宮本武蔵みやもとむさし政名まさな――のがあるかもれない。もしあったらどんなにうれしいか。
「では、おことばにあまえて、おともいたしまする」
 きゅうあかるくいうと、
「え、てくれるとか、それはかたじけない」
 喜左衛門きざえもんよろこんで、
「そうまれば、女子おなごあしではよるにかけても、小柳生こやぎゅうまではちと無理むり、おつうどの、うまれるか」
「はい、いといませぬ」
 喜左衛門きざえもんのきて、宇治橋うじばしたもとのほうへをあげた。そこにたむろしていた馬方うまかたんでる。おつうだけをせて、喜左衛門きざえもんあるいた。
 すると茶屋ちゃや裏山うらやまのぼっていた城太郎じょうたろうつけて、
「もうくのかあいっ」
「おおかけるぞ」
「おちようっ」
 宇治橋うじばしうえで、城太郎じょうたろういついた。なにていたのかと喜左衛門きざえもんくと、おかはやしなかに、大勢おおぜい大人おとなあつまって、なにらないが面白おもしろあそごとをしていたからていたのだという。
 馬子まごわらって、
旦那だんな、そいつあ牢人ろうにんあつまって、博奕ばくち開帳かいちょうしているんでさ。――えねえ牢人ろうにんたびものりあげては、はだかにしてぱらうんだからすごうがすぜ」
 と、いった。

 うまには、市女笠いちめがさ麗人れいじん城太郎じょうたろうひげ庄田喜左衛門しょうだきざえもんとが、その両側りょうがわあゆみ、まえにはながかおをして馬子まごく。
 宇治川うじかわをこえ、やがて木津川きづかわづつみにかかる。河内平かわちだいらそら雲雀ひばりかすんで、なかがする。
「うむ……牢人ろうにんどもが博奕ばくちをしているか」
博奕ばくちなどはまだいいほうなんで――りはする、おんなはかどわかす、それで、つよいとているからがつけられませんや」
領主りょうしゅは、だまっているのか」
御領主ごりょうしゅだって、ちょっとやそっとの牢人ろうにんなら召捕めしとるでしょうが――河内かわち大和やまと紀州きしゅう牢人ろうにん合体いっしょになったら、御領主ごりょうしゅよりゃあつよいでしょう」
甲賀こうがにもいるそうだの」
筒井つつい牢人ろうにんが、うんとげこんでいるんで、どうしても、もう一度いちどいくさをやらなけれやあ、あのしゅうは、ほねになりきれねえとみえる」
 喜左衛門きざえもん馬子まごはなしに、ふと、みみをとめて城太郎じょうたろうくちした。
牢人牢人ろうにんろうにんっていうけれど、牢人ろうにんのうちでも、いい牢人ろうにんだってあるんだろ」
「それは、あるとも」
「おらのお師匠ししょうさんだって牢人ろうにんだからな」
「ははは、それで不平ふへいだったのか、なかなか師匠思ししょうおもいだの。――ところでおまえは宝蔵院ほうぞういんくといったが、そちの師匠ししょう宝蔵院ほうぞういんにいるのか」
「そこへけばわかることになっているんだ」
何流なにりゅうをつかうのか」
らない」
弟子でしのくせに、師匠ししょう流儀りゅうぎらんのか」
 すると、馬子まごがまた、
旦那だんな、このせつあ、剣術けんじゅつ流行ばやりでねこ杓子しゃくしも、武者修行むしゃしゅぎょうだ。この街道かいどうある武者修行むしゃしゅぎょうだけでも一日いちにち五人ごにん十人じゅうにんはきっとかけますぜ」
「ほう、左様さようかなあ」
「これも、牢人ろうにんえたせいじゃございませんか」
「それもあろうな」
剣術けんじゅつがうめえッてえと、方々ほうぼう大名だいみょうから、五百石ごひゃっこく千石せんごくで、りだこになるってんで、みんなはじめるらしいんだね」
「ふん、出世しゅっせ早道はやみちか」
「そこにいるおチビまでが木剣ぼっけんなどして、なぐいさえおぼえれば、人間にんげんになれるとおもっているんだから空怖そらおそろしい。こんなのが沢山たくさんできたら、すえなんでめしうつもりかおもいやられますぜ」
 城太郎じょうたろうは、おこった。
馬子まごっ、なんだと、もういっぺんいってみろ」
「あれだ――のみ楊子ようじしたような恰好かっこうをしやがって、くちだけは一人前いちにんまえ武者修行むしゃしゅぎょうのつもりでいやがる」
「ははは、城太郎じょうたろうおこるなおこるな。また、くびにかけている大事だいじものおとすぞ」
「もう、大丈夫だいじょうぶだい」
「おお、木津川きづかわ渡舟わたしたからおまえとはおわかれだ。――もうれかかるゆえ、みちくさをせず、いそいでけよ」
「お通様つうさまは」
「わたしは、庄田様しょうださまのおともをして小柳生こやぎゅうのおしろくことになりました。――をつけておいでなさいね」
「なんだ、おら、ひとりぽッちになるのか」
「でも、またえんがあれば、どこかでがあるかもれません――城太郎じょうたろうさんもたびいえ、わたしもたずねるおひとめぐうまではたび住居すまい
「いったい、だれをさがしているの、どんなひと?」
「…………」
 おつうこたえなかった。うまからにっことわかれのひとみあたえただけであった。河原かわらして、城太郎じょうたろうは、渡舟わたしぶねなかっていた。このふね夕陽ゆうひあかくまどられて、かわなかほどまでながれだしたころかえると、おつうこま喜左衛門きざえもん姿すがた木津川きづかわ上流じょうりゅうにわかにそのあたりからせまくなっている渓谷けいこく笠置寺かさぎでらみちを、山蔭さんいんはやゆうべにかげをぼかして、とぼとぼと、もう提灯ちょうちんともしてあるいてゆくのがえた。