52・宮本武蔵「水の巻」「春風便(2)(3)」


朗読「52水の巻16.mp3」13 MB、長さ: 約9分07秒

 城太郎じょうたろうは、ぷっとふくれて、
なにがおかしいのさ。おたんこ茄子なすめ」
 と、かたをいからせた。
 びっくりした途端とたんに、朱実あけみは、わらいがまってしまった。
「――あら、おこったの」
あたまえだい、ひとが、叮嚀ていねいにものをたのんでいるのに」
「ごめん、ごめん。もうわらわないから――そしていま言伝ことづてては、又八またはちさんが、もしかえってたら、屹度きっとしておくからね」
「ほんとか」
「え」
 また、こみあげる微笑ほほえみみころすようにうなずいて――
「だけど……なんといったっけ……その言伝ことづててをたのんだひと
わすれっぽいな。宮本武蔵みやもとむさしというんだよ」
「どうくの、武蔵むさしって」
は――武士ぶし……」
 といいかけて、城太郎じょうたろうあしもとのたけ小枝こえだをひろい、河原かわら川砂かわすなへ、
「こうさ」
 といてせた。
 朱実あけみは、すなかれたを、じっとながめて、
「あ……それじゃあ、武蔵たけぞうというんじゃないの」
武蔵むさしだよ」
「だって武蔵たけぞうともめる」
強情ごうじょうだな!」
 かれほうったたけ小枝こえだが、かわおもてをゆるくながれてく。
 朱実あけみは、いつまでも、川砂かわすな文字もじいよせられたまま、そしてじろぎもせずに、なにおもふけっていた。
 やがて、そのひとみを、あしもとから城太郎じょうたろうかおげ、もいちど、あらためてかれ姿すがたをつぶさに見直みなおしながら嘆息ためいきのようにたずねた。
「……もしや、この武蔵むさしというおかたは、美作みまさか吉野郷よしのごうひとではないかえ」
「そうだよ、おらは播州ばんしゅう、お師匠ししょうさんは宮本村みやもとむらとなくになんだ」
「――そして、たかい、おとこらしい、そうそうかみはいつも月代さかやきらないでしょう」
「よくッてるなあ」
どものとき、つむりに、ちょうという腫物はれものをわずらったことがあって、月代さかやきると、そのあとみにくいから、かみやしておくのだと、いつかわたしはなしたことをおもしたの」
「いつかって、何日いつ?」
「もう、五年ごねんまえ。――せきはらいくさがあったあのとしあき
「そんなまえから、おめえは、おらのお師匠様ししょうさまってんのか」
「…………」
 朱実あけみこたえなかった。こたえる余裕よゆうもなく彼女かのじょむねはそのころおもかなでに高鳴たかなっていた。
(……武蔵たけぞうさんだ!)
 もおろおろといたさにられてくるのである。ははのすることを――又八またはちかわかたて――彼女かのじょ自分じぶん最初さいしょからこころのうちで、武蔵むさしほうえらんでいたことが間違まちがいでなかったことに、いよいよ信頼しんらいふかくしていた。ひそかに自分じぶんひとほこっていた――あのひとは、やはり又八またはちとはまるでちがうと。
 そして、処女おとめごころは、茶屋ちゃやがよいの幾多いくた男性だんせいるにつけ、自分じぶんくすえは、こんなれにはないものときめ、それらの気障きざおとこたちを冷蔑れいべつし、五年前ごねんまえ武蔵むさし面影おもかげを、ひそかなむねおくにおいて、口誦くちずさうたにも、ひとりですえゆめたのしんでいた。
「――じゃあ、たのんだぜ。又八またはちってひとが、つかったら、屹度きっといま言伝ことづてをしといておくれ」
 ようむと、さきいそぐように城太郎じょうたろうは、河原かわらどてがった。
「あっ、って!」
 朱実あけみは、いすがった。かれをつかまえて、なにをいおうとするのか、城太郎じょうたろうにもまばゆいほどそのかおは、うつくしいでぽっとえていた。

「あんた、なんていう?」
 あついきで、朱実あけみく。
 城太郎じょうたろうは――城太郎じょうたろうこたえて、彼女かのじょなやましげなたかぶりを、へんかおして見上みあげていた。
「じゃあ、城太郎じょうたろうさん、あんたは何日いつ武蔵たけぞうさんと一緒いっしょにいるのね」
武蔵むさしさまだろう」
「あ……そうそう武蔵様むさしさまの」
「うん」
「わたし、あのおかたに、ぜひいたいのだけれど、どこにおまいなの」
うちかい、うちなンかねえや」
「あら、どうして」
武者修行むしゃしゅぎょうしてるんだもの」
かりのお旅宿やどは」
奈良なら宝蔵院ほうぞういんってけばわかるんだよ」
「ま……。京都きょうとにいらっしゃるとおもったら」
来年らいねんくるよ。一月いちがつまで」
 朱実あけみなにかつきつめた思案しあんまよっているらしかった。――と、すぐうしろのわが勝手口かってぐちまどから、
朱実あけみっ、いつまで、なにをしているんだえ! そんなおこも相手あいてあぶらってないで、はやくようかたづけておしまい!」
 おこうこえであった。
 朱実あけみは、ははいだいている平常へいぜい不満ふまんが、こんなとき、すぐ言葉ことばつきにた。
「このが、又八またはちさんをたずねてたから、わけはなしているんじゃありませんか。ひと奉公人ほうこうにんだとおもってる」
 まどえるおこうまゆいらだっていた、また病気びょうきおこっているらしい。そういうくちをたたくまでにだれおおきくそだてててやったのか――といいたげに、しろげて。
又八またはち? ……又八またはちがどうしたっていうのさ、もうあんな人間にんげんは、うちものじゃなし、らないといっておけばいいんじゃないか! がわるくって、もどれないもんだから、そんなおこも餓鬼がきたのんでなにかいってよこしたんだろう。相手あいてにおなりでない」
 城太郎じょうたろうにとられ、
馬鹿ばかにすんない。おら、おこもじゃねえぞ」
 と、つぶやいた。
 おこうは、その城太郎じょうたろう朱実あけみはなし監視かんしするように、
朱実あけみっ、おはいりっ」
「……でも、河原かわらにまだあらもののこっていますから」
あとは、下婢おんなにおさせ。おまえはお風呂ふろはいって、お化粧けしょうをしていなければいけないでしょ。また不意ふいに、清十郎様せいじゅうろうさまでもて、そんな姿すがたたら、愛想あいそをつかされてしまう」
「ちッ……あんなひと愛想あいそをつかしてくれれば、オオうれしい! だ」
 ――朱実あけみ不平ふへいかおみなぎらせて、なかへ、嫌々いやいやけこんでしまった。
 それとともに、おこうかおもかくれた。――城太郎じょうたろうまったまど見上みあげて、
「けっ。ばばあのくせに、白粉おしろいなんかつけやがって、ヘンなおんな!」
 と、あくたれた。
 すぐ、そのまどがまたひらいた。
「なんだッて、もういちどいってごらん!」
「あっ、きこえやがった」
 あわててあたまへ、うしろから――ざぶりっと、うすい味噌汁みそしるみたいななべみずをぶちかけられて、城太郎じょうたろうは、ちんころみたいにぶるいした。
 えりくびにくッついたっぱを、みょうかおをしながらつまんでて、忌々いまいましさを、ありッたけなこえれて、うたいながらした――

本能寺ほんのうじ
西にし小路こみち
くらいげな
あずさのおうな
しろいもの化粧けわいして
漢女子あやめこんだり
紅毛子あかげこんだり
タリヤンタリヤン
タリ、ヤン、タン