483・宮本武蔵「円明の巻」「魚歌水心(7)(8)(9)」


朗読「483円明の巻78.mp3」15 MB、長さ: 約 16分 14秒

なな

 みずってきしへ、ななめに、武蔵むさしがったのをると、巌流がんりゅうは、波打際なみうちぎわせんって、その姿すがたった。
 武蔵むさしあしが、みずはなれていそ砂地すなちんだのと、巌流がんりゅう大刀だいとうが――いや飛魚とびうおのような全姿ぜんしが、
ッ」
 と、てきからだへ、すべてをんだのと、ほとんど、同時どうじであった。
 海水かいすいからいたあしおもかった。武蔵むさしはまだたたか体勢たいせいになかった瞬間しゅんかんのようにえた。物干竿ものほしざお長剣ちょうけんが、自己じこのうえに、ひゅっ――とるかとかんじたときかれのからだはまだ、がってたまま、いくぶんかまえのめりに屈曲くっきょくしていた。
 ――が。
 櫂削かいけずりの木剣ぼっけんは、りょうで、みぎ小脇こわきからかくすようにふかく、よこかまえられていた。
「……ムむ!」
 といったような――武蔵むさしこえなきものが、巌流がんりゅうおもていた。
 頂天ちょうてんからげてくかとえた巌流がんりゅうかたなは、頭上ずじょう鍔鳴つばなりをさせたのみで、武蔵むさしまえ約九尺やくきゅうしゃくほどもったところで、かえって、自身じしんからよこへぱっとらしてしまった。
 不可能ふかのうさとったからである。
 武蔵むさしは、いわおのようにえた。
「…………」
「…………」
 当然とうぜん双方そうほう位置いちは――そのきをえている。
 武蔵むさしは、居所いどころのままだった。
 みずなかから、三歩さんぽあがったままの波打際なみうちぎわって、うみ背後うしろに、巌流がんりゅうのほうへなおった。
 巌流がんりゅうは、その武蔵むさし直面ちょくめんし――また、前面ぜんめん大海原おおうなばらたいして、長剣物干竿ちょうけんものほしざお諸手もろてりかぶっていた。
「…………」
「…………」
 こうして、二人ふたり生命いのちいま完全かんぜんたたかいのなか呼吸こきゅうった。
 もとより武蔵むさし無念むねん
 巌流がんりゅうも、無想むそう
 たたかいのは、真空しんくうであった。
 が、波騒なみざいそと――
 また、くさそよぐ彼方かなた床几場しょうぎばあたり――
 ここの真空中しんくうちゅうふたつの生命いのちを、無数むすうものいまいきもつかずにまもっていたにちがいなかった。
 巌流がんりゅうのうえには、巌流がんりゅうしみ、巌流がんりゅうしんじる――幾多いくた情魂じょうこんいのりがあった。
 また、武蔵むさしのうえにもあった。
 しまには、伊織いおり佐渡さど
 赤間あかませきなぎさには、おつうやばばや権之助ごんのすけや。
 小倉こくらまつおかには、又八またはち朱実あけみなども。
 その各々おのおのが、ここをもとどかないところから、ひたすら、てんいのっていた。
 しかし、ここの場所ばしょには、そういう人々ひとびといのりもなみだ加勢かせにはならなかった。また、偶然ぐうぜん神助しんじょもなかった。あるのは、公平無私こうへいむし青空あおぞらのみであった。
 その青空あおぞらごとになりきることがほんとの無念無想むねんむそうすがたというのであろうか、生命いのち容易よういになれないことは当然とうぜんである。ましてや、白刃対白刃しらはたいしらはのあいだでは。
「――――」
「――――」
 ふと。おのれッとおもう。
 満身まんしん毛穴けあなが、こころをよそに、てきたいして、はりのようにそそけってまない。
 すじにくつめかみ――およそ生命いのち附随ふずいしているものは、睫毛まつげひとすじまでが、みなげて、てきたいし、てきへかかろうとし、そして自己じこ生命いのちまもりふせいでいるのだった。そのなかで、こころのみが、天地てんちともみきろうとすることは、暴雨あらしなかに、いけ月影つきかげだけれずにあろうとするよりも至難しなんであった。

はち

 ながもちのする――しかし事実じじつはきわめてみじかい――かえ波音なみおとたびかろくたびもかえすあいだであったろうか。
 やがて――というほどもないうちにである。おおきな肉声にくせいは、その一瞬ひとときやぶった。
 それは、巌流がんりゅうのほうからはっしたものだったが、ほとんど、同音どうおんになって、武蔵むさしからだからもこえた。
 いわおった怒濤どとうのように、ふたつの息声そくせいが、精神せいしん飛沫しぶきったとたんに、中天ちゅうてん太陽たいようをもっておとすようなたかさから、長刀物干竿ちょうとうものほしざおさきは、ほそにじをひいて、武蔵むさしのまッこうんでた。
 武蔵むさしひだりかたが――
 そのとき前下まえさがりにかわった。こしからうえ上半身じょうはんしんも、平面へいめんから斜角しゃかくせんあらためたときかれ右足みぎあしは、すこしうしろへかれていた。そして諸手もろてかい木剣ぼっけんが、かぜおこしてうごいたのと、巌流がんりゅう長剣ちょうけんが、がりに、かれ真眉間まみけんってたのと、そこにというほどのみとめられなかった。
「…………」
「…………」
 ぱっと、もつれた一瞬いっしゅんあとは、ふたりの呼吸こきゅういそなみよりはたかかった。
 武蔵むさしは、波打際なみうちぎわから、十歩じゅっぽほどはなれて、うみよこにし、びのいたてきを、かいさきていた。
 かい木剣ぼっけんは、正眼せいがんたれ、物干竿ものほしざお長剣ちょうけんは、上段じょうだんかえっていた。
 しかし、ふたりの間隔かんかくは、相搏あいうった一瞬いっしゅんに、おそろしく遠退とおのいていた。長槍ながやり長槍ながやりとでもとどかないくらいな間隔かんかくにわかれていたのである。
 巌流がんりゅうは、最初さいしょ攻勢こうせいに、武蔵むさし一髪いっぱつることはできなかったが、は、おもうようになおしたのである。
 武蔵むさしが、うみにして、うごかなかったのは、理由りゆうがあったことである。真昼まひるなか海水かいすいにつよく反射はんしゃして、それにむかっている巌流がんりゅうっては、はなはだしい不利ふりだったのだ。もし、その位置いちのまま武蔵むさし守勢しゅせいたいして、ぐっと対峙たいじしていたら、たしかに、武蔵むさしよりもさき精神せいしんひとみもつかれてしまったにちがいないのである。
 ――よしっ。
 おもうように、地歩ちほなおしたかれは、すでに武蔵むさし前衛ぜんえいやぶったかのような意気いきいた。
 と――巌流がんりゅうあしはじりじりと小刻こきざみにってった。
 間隔かんかくをつめてあいだてき体形たいけいのどこにきょがあるかを同時どうじに、自己じこ金剛身こんごうしんをかためてくべく、それは当然とうぜん小刻こきざみのあしもとだった。
 ところが、武蔵むさしは、彼方あなたからずかずかとあゆしてた。
 巌流がんりゅうなかへ、かいさきむように、正眼せいがんってたのである。
 その無造作むぞうさに、巌流がんりゅうが、はっと詰足つめあしめたとき武蔵むさし姿すがた見失みうしないかけた。
 かい木剣ぼっけんが、ぶんとがったのである。六尺ろくしゃくぢかい武蔵むさしからだが、四尺よんしゃくぐらいにちぢまってえた。あしはなれると、その姿すがたは、ちゅうのものだった。
「――あッつ」
 巌流がんりゅうは、頭上ずじょう長剣ちょうけんで、おおきくちゅうった。
 そのさきから、てき武蔵むさしひたいめていた柿色かきいろ手拭てぬぐいが、ふたつにれて、ぱらっとんだ。
 巌流がんりゅうに。
 その柿色かきいろ鉢巻はちまきは、武蔵むさしくびかとえてんでった。ともえて、ッと、自分じぶんかたなさきからんだのであった。
 ニコ、と。
 巌流がんりゅうは、たのしんだかもれなかった。しかし、その瞬間しゅんかんに、巌流がんりゅう頭蓋ずがいは、かい木剣ぼっけんしたに、小砂利こじゃりのようにくだけていた。
 いそ砂地すなちと、草原そうげんさかいへ、たおれたあとかおると、自身じしんけたかおはしていなかった。くちびるはしから、こんこんとこそいていたが、武蔵むさしくび海中かいちゅうってばしたように、いかにも会心かいしんらしい死微笑しびしょうを、キュッと、そのくちびるばたにむすんでいた。

きゅう

「――ア。アッ」
巌流がんりゅうどのが」
 彼方かなた床几場しょうぎばのほうで、そうしたこえが、さっとながれた。
 われをわすれて。
 岩間角兵衛いわまかくべえち、そのまわりのものも、悽惨せいさんかおをそろえて、がった。――が、すぐわきの、長岡佐渡ながおかさど伊織いおりたちのいる床几場しょうぎばのひとかたまりが、自若じじゃくとしているのをて、いて平静へいせいよそおいながら、角兵衛かくべえもその周囲しゅういも、じっと、うごかないことにつとめていた。
 が――おおいようもない敗色はいしょくと、滅失めっしつ惨気さんきが、巌流がんりゅうちをしんじていた人々ひとびとのうえをつつんだ。
「……?」
 しかもなお、未練みれん煩悩ぼんのうは、そこまでの現実げんじつても、自分じぶんらのあやまりではないか――とうたがうように、なまつばをのんで、しばしは放心ほうしんしていた。
 しまうちは、一瞬いっしゅんつぎ一瞬いっしゅんも、ひとなきように、ひそまりっていた。
 無心むしん松風まつかぜくさのそよぎが、ただにわかに、人間にんげん無常観むじょうかんをふくだけだった。
 ――武蔵むさしは。
 一朶いちだくもを、ていた。ふとたのである、われにかえって。
 いまくも自身じしんとのけじめを、はっきり意識いしきにもどしていた。ついにもどらなかったものは、てき巌流佐々木小次郎がんりゅうささきこじろう
 足数あしかずにして、十歩じゅうほほどさきに、その小次郎こじろうせにたおれている。くさなかへ、かおよこにふせ、にぎりしめている長剣ちょうけんつかには、まだ執着しゅうちゃくちからえる。――しかしくるしげなかおではけっしてない。そのかおれば、小次郎こじろう自己じこちからげて、善戦ぜんせんしたという満足まんぞくがわかる。いくさたたかいきったものかおには、すべて、この満足感まんぞくかんがあらわれているものである。そこに残念ざんねん――とおものこしているようなかげすこしも見当みあたらない。
 武蔵むさしは、ちている自分じぶん渋染しぶぞめ鉢巻はちまきおとして、はだあわしょうじた。
生涯しょうがいのうち、二度にどと、こういうてきえるかどうか」
 それをかんがえると、卒然そつぜんと、小次郎こじろうたいする愛惜あいせきと、尊敬そんけいいた。
 同時どうじに、てきからうけた、おんをもおもった。けんってのつよさ――たんなる闘士とうしとしては、小次郎こじろうは、自分じぶんよりたかところにあった勇者ゆうしゃちがいなかった。そのために、自分じぶんたかもの目標もくひょうになしたことは、おんである。
 だが、そのたかものたいして、自分じぶんたものはなんだったか。
 わざか。天佑てんゆうか。
 いな――とはぐいえるが、武蔵むさしにもわからなかった。
 ばくとした言葉ことばのままいえば、ちから天佑以上てんゆういじょうのものである。小次郎こじろうしんじていたものは、わざちからけんであり、武蔵むさししんじていたものは精神せいしんけんであった。それだけのでしかなかった。
「…………」
 もくねんと、武蔵むさしは、十歩じゅっぽほどあるいた。小次郎こじろうからだのそばにひざった。
 ひだり小次郎こじろう鼻息びそくをそっとれてみた。かすかな呼吸こきゅうがまだあった。武蔵むさしはふとまゆひらいた。
手当てあてっては」
 と、かれ生命いのちに、いちひかりみとめたからである。と同時どうじに、かりそめの試合しあいが、このしむべきてきを、このかららずにんだかと、こころもかろくおぼえたからであった。
「……おさらば」
 小次郎こじろうへも。
 彼方かなた床几場しょうぎばほうへも。
 そこからをついて、一礼いちれいすると武蔵むさし姿すがたは、一滴ひとしずくもついていないかい木太刀こだちげたまま、さっと北磯きたいそのほうへはしり、そこにっていた小舟こぶねなかびのってしまった。
 どこへして、どこへ小舟こぶねいたか。
 彦島ひこじまそなえていた巌流方がんりゅうがた一門いちもんも、かれ途中とちゅうようして師巌流しがんりゅう弔合戦とむらいがっせんおよんだというはなしはついのこっていない。
 けるあいだは、人間にんげんから憎悪ぞうお愛執あいしゅうのぞけない。
 ときても、感情かんじょう波長はちょうはつぎつぎにうねってゆく。武蔵むさしきているあいだは、なおこころよしとしない人々ひとびとが、そのおりかれ行動こうどう批判ひはんして、すぐこういった。
「あのおりは、かえりのみちこわいし、武蔵むさしにせよ、だいぶ狼狽ろうばいしておったさ。なんとなれば、巌流がんりゅう止刀とどめすのをわすれてったのをてもわかるではないか」――と。
 波騒なみざいつねである。
 なみにまかせて、およ上手じょうずに、雑魚ざこうた雑魚ざこおどる。けれど、だれろう、百尺下ひゃくしゃくしたみずこころを。みずのふかさを。