482・宮本武蔵「円明の巻」「魚歌水心(5)(6)」


朗読「482円明の巻77.mp3」9 MB、長さ: 約 9分 36秒

 は、中天ちゅうてんちかかった。
 小舟こぶねが、しま磯近いそちかくへはいってくると、いくぶん入江いりえになっているせいか、なみこまやかになり、浅瀬あさせそこあおいてみえた。
「――どのへんへ?」
 ゆるめながら、佐助さすけいそまわしてたずねた。
 いそには、人影ひとかげもなかった。
 武蔵むさしは、かぶっていた綿入わたいれをてて、
すぐに――」
 と、いった。
 へさきはそのまますすんだ、けれど佐助さすけは、どうしてもおおきくうごかなかった。――じゃくとして、人影ひとかげえないしまには、ひよどりたかいていた。
佐助さすけ
「へい」
あさいなあ、このへんは」
遠浅とおあさです」
「むりにれるにはおよばぬぞ。いわ舟底ふなぞこまれるといけない。――しおは、やがてそろそろ退潮ひきしおともなるし」
「……?」
 佐助さすけこたえをわすれて、しまうち草原そうげんへ、をこらしていた。
 まつえる。地味ちみせをそのまま姿すがたにしているひょろながまつだ。――その木陰こかげに、ちらと、猩々緋しょうじょうひ袖無そでなし羽織ばおりのすそがひらめいていた。
 ――ている! 待構まちかまえている。
 巌流がんりゅう姿すがたがあれに。
 と、ゆびさそうとしたが、武蔵むさし様子ようすうかがうと、武蔵むさしもすでにそこへっている。
 ひとみを、そこにけながら、武蔵むさしは、おびはさんで渋染しぶぞめ手拭てぬぐいをぬいて、よっつにり、しきりに潮風しおかぜにほつれるかみげて鉢巻はちまきした。
 小刀こがたなまえび、大刀だいとうは、ふねなかいてゆくつもりらしく――そして、飛沫しぶきれぬ用意よういに、むしろせて、舟底ふなぞこいた。
 右手みぎてには、かいけずって木剣ぼっけんとした手作てづくりのそれをにぎった。そしてふねからがると、
「もうよい」
 と、佐助さすけへいった。
 ――だが。
 まだいそ砂地すなちまでは、水面二十すいめんにじゅっけんもあった。佐助さすけは、そういわれてから、みっおおきく櫓幅ろはばった。
 ふねは、急激きゅうげきに、ググッーとすすんで、とたんに浅瀬あさせんだものとみえる。舟底ふなぞこがどすんとがったようにった。
 左右さゆうはかまもすそを、たかくかかげていた武蔵むさしは、そのはずみに、海水かいすいなかへ、かるりていた。
 飛沫しぶきがらないほど、どぼっと、すねかくれるあたりまで。
 ざぶ!
 ざぶ!
 ざぶ……
 かなりはやあしで、武蔵むさしは、地上ちじょうむかってあるした。
 げているかい木剣ぼっけんさきも、かれしろ水泡みなわともに、海水かいすいっている。
 五歩ごほ
 ――また十歩じゅっぽと。
 佐助さすけはずしたまま、うし姿すがた自失じしつしてていた。毛穴けあなからあたまのしんまで寒気立さむけだって、どうすることもわすれていたのである。
 と、そのとき
 はっと、かれいきづまるようなかおをした。彼方かなたのひょろまつかげから、はたでもながれてるように巌流がんりゅうのすがたがけてたのである。おおきな業刀わざもののぬりざやかえし、銀狐ぎんこのようにひかってえた。
 ……ざ。ざ。ざッ。
 武蔵むさしあしは、まだ海水かいすいなかあるいていた。
 はやく!
 と、かれねんじていたのもむなしく、武蔵むさしいそがらぬあいだに、巌流がんりゅう姿すがた水際みずぎわまでっていた。
 しまった――とおもうとともに、佐助さすけはもうていられなかった。自分じぶん真二まっぷたつにされたように、舟底ふなぞこしてふるえていた。

ろく

武蔵むさしか」
 巌流がんりゅうからびかけた。
 かれは、せんして、水際みずぎわちはだかった。
 大地だいちめて、一歩いっぽてきにゆずらぬように。
 武蔵むさしは、海水かいすいなかとどまったまま、いくぶん、微笑ほほえみをもったおもてで、
小次郎こじろうよな」
 と、いった。
 かい木剣ぼっけんさきを、なみあらっている。
 みずにまかせ、かぜにまかせ、ただその一木剣いちぼっけんがあるだけの姿すがただった。
 しかし――
 渋染しぶぞめ鉢巻はちまき幾分いくぶんつりあがったまなじりはすでにふだんのかれのものではない。
 るというはまだよわいものであろう。武蔵むさし吸引きゅういんする。みずうみのようにふかく、てきをして、自己じこ生気せいきあやぶませるほど吸引きゅういんする。
 は、巌流がんりゅうのものだった。双眸そうぼうなかを、にじはしっているように、殺気さっき光彩こうさいえている、相手あいて射竦いすくめんとしている。
 まどという。おもうに、ふたりの頭脳ずのう生理的せいりてき形態けいたいが、そのまま巌流がんりゅうひとみであったであろう、武蔵むさしひとみであったにちがいない。
「――武蔵むさしっ」
「…………」
武蔵むさしっ!」
 二度にどいった。
 沖鳴おきなりがひびいてくる。二人ふたりあしもとにもうしおさわいでいた。巌流がんりゅうは、こたえない相手あいてたいして、いきおこえらないでいられなかった。
おくれたか。さくか。いずれにしても卑怯ひきょうたぞ。――約束やくそく刻限こくげんぎて、もう一刻ひとときつ。巌流がんりゅうやくたがえず、最前さいぜんからこれにてちかねていた」
「…………」
一乗寺下いちじょうじさがまつときといい、三十三間堂さんじゅうさんげんどうおりといい、つねに、故意こい約束やくそくときをたがえて、てききょくことは、そもそも、なんじのよくもちいる兵法へいほう手癖てくせだ。――しかし、きょうはそのにのる巌流がんりゅうでもない。末代まつだいものわらいのたねとならぬよういさぎよおわるものと心支度こころじたくしてい。――いざいっ、武蔵むさし!」
 いいはなった言葉ことばしたに、巌流がんりゅうは、こじりたかげて、小脇こわきっていた大刀だいとう物干竿ものほしざおを、ぱっとはなつと一緒いっしょに、ひだりのこったかたなさやを、浪間なみまへ、てた。
 武蔵むさしは、みみのないようなかおをしていたが、かれ言葉ことばおわるのをって――そしてなお、磯打いそうかえ波音なみおとあいだいてから――相手あいて肺腑はいふ不意ふいにいった。
小次郎こじろうっ。けたり!」
「なにっ」
「きょうの試合しあいは、すでに勝負しょうぶがあった。なんじけとえたぞ」
「だまれっ。なにをもって」
であれば、なんでさやてむ。――さやは、なんじ天命てんめいてた」
「うぬ。たわごとを」
しや、小次郎こじろうるか。はやるをいそぐかっ」
「こ、いッ」
「――おおっ」
 こたえた。
 武蔵むさしあしから、水音みずおとおこった。
 巌流がんりゅうもひとあし浅瀬あさせへざぶとみこんで、物干竿ものほしざおをふりかぶり、武蔵むさしこうへ――とかまえた。
 が、武蔵むさしは。
 一条いちじょうしろあわつぶを水面すいめんななめにえがいて、ザ、ザ、ザとしお蹴上けあげながら、巌流がんりゅうっている左手ひだりてきしがっていた。