朗読「481円明の巻76.mp3」10 MB、長さ: 約 10分 56秒
三
その日の禁令上、試合に立会う役人側では、そういう処置を取ったものの、しかし、藩士の八分までは、当然、同藩の巌流に勝たせたいと祈っていたし、また、師を思うの余りから、そういう行動に出た門下たちに、肚では同情もよせていた。
で、一応。
役儀上、彼らを船島からは追い払ったものの、すぐ側の彦島へ移っていることなら、不問に済ましておく考えだった。
なお。
試合がすんで――
万一にも、巌流のほうが打ち負けた場合は、それも船島の上では困るが、船島を武蔵が離れてからならば、師の巌流の雪怨という意趣から、どういう行動に出ようとも――それは自分らの関り知ったことではない。
――というのが、処置を取った役人側の偽らぬ肚だった。
彦島へ移った巌流の門下たちはまた、それを見抜いている。そこで彼らは、漁村の小舟を狩り集め、約十二、三の舳を勅使待の浦へ着けておいた。
そして、試合の様子を、直ぐここへ報知する伝令を、山の上に立たせておき、万一の場合には、すぐ三、四十人が各々小舟で海上へ出て、武蔵の帰路を遮り、陸路へ追跡して討ち取るなり、場合によっては、彼の舟を覆して、海峡の底に葬り去ってしまおうとも――諜し合せていたのだ。
「――武蔵か」
「武蔵だ」
呼び交わして、彼らは、小高い所へ駈け上がったり、手をかざして、真昼の陽のぎらぎら反射する海面へ、眸をこらしていた。
「船往来は、今朝から止まっている。武蔵の舟にちがいない」
「一人か」
「一人のようだ」
「つくねんと、何か羽織って坐っておるぞ」
「下へ、小具足でも着けて来たものだろう」
「何せい、手配をしておけ」
「山へ、行ったか。見張に――」
「登っている。大丈夫」
「では、われわれは、舟のうちへ」
いつでも、綱を切れば、漕ぎ出られるように、三、四十名の者達は、どやどやと、思い思いに小舟へかくれた。
舟には、一筋ずつの長槍も伏せてあった。物々しい扮装振りは、巌流よりも、また、武蔵よりも、その人々の中に見られた。
――一方。
武蔵見えたり!
という声は、そこのみでなく、同じ頃に、船島にも当然伝わっていた。
ここでは。
波の音、松の声、雑木や姫笹の戦ぎも交じって、全島、今朝から人もないような気配だった。
気のせいか、蕭殺として、それが聞えた。長門領の山からひろがった白雲が、ちょうど中天の太陽を時折かすめて、陽が陰ると、全島の樹々や篠のそよぎが、暗くなった。――と思うと、一瞬にまた、くわっと陽が照った。
島は、近寄って見ても、極めて狭い。
北はやや高く丘をなして、松が多い。そこから南の懐が、平地から浅瀬となったまま海面へのめりこんでいる。
その丘ふところの平地から磯へかけて、きょうの試合場と定められていた。
奉行以下、足軽までの者は、磯からかなり距った所に、樹から樹へ、幕を繞らし、鳴りをひそめていた。巌流は藩籍に在る者であり、武蔵は拠る所ない者なので、それが相手方への威嚇にならない程度には、心して控えている陣容だった。
しかし約束の時刻が、もう一刻以上も過ぎていること。
二度も、ここからの飛脚舟で催促をやってあることなどで、静粛なうちにも、やや焦躁と反感とを一様に抱いていた所である。
「武蔵どの! 見えましたっ」
絶叫しながら、磯に立って見ていた藩士が、遠い床几と幕の見える方へ駈けて行った。
四
「――来たか」
岩間角兵衛は、思わずいって、床几から伸び上がった。
彼は、きょうの立会人として、長岡佐渡と共に、派遣されて来た役人ではあるが、彼がきょうの武蔵を相手とする人間ではない。
しかし、口走った感情は、自然の流露であった。
彼のわきに控えていた従者や下役の者も、皆、同じ眼色を持って、
「お! あの小舟だ」
と、一緒に起ち上がった。
角兵衛は、公平なる藩役人の身として、すぐその非に気づいたらしく、
「控えろ」
と、周りの者を誡めた。
じっと、自分も、腰をすえた。――そして静かに、巌流のいるほうへ流し目を送った。
巌流のすがたは見えなかった。ただ、山桃の樹四、五本のあいだに、龍胆の紋のついた幕がひらめいていた。
幕のすそには、青竹の柄のついた柄杓を添えた新しい手桶が一箇あった。だいぶ早目に島へ着いた巌流は相手の来る時刻が遅いので、さっき、水桶の水をのんでいた。そして幕の陰で休息していたが、今は、そこに見当らなかった。
その幕を挟んで、少し先の土坡の向う側には、長岡佐渡の床几場があった。
ひとかたまりの警固の士と、彼の下役と、彼の従者として伊織がわきに控えていた。
今――武蔵どのが見えた! という声を触れながら、磯のほうから一人が駈けて、警備の中にはいり込むと、伊織の顔いろは、唇まで白くなった。
正視したまま、動かずにいた佐渡の陣笠が、自分の袂を見るように、ふと横を見――
「伊織」
と、低声でよんだ。
「……はっ」
伊織は、指をついて、佐渡の陣笠の裡を見上げた。
足もとから顫えてくるような全身のおののきを、どうしようもなかった。
「伊織――」
もいちど、その眼へ、じっといって、佐渡は訓えた。
「よう、見ておれよ。うつろになって、見のがすまいぞ。――武蔵どのが、一命を曝して、そちへ伝授して下さるものと思うて今日は見ておるのだよ」
「…………」
伊織は、うなずいた。
そしていわれた通り、眼を炬のようにみはって、磯のほうへ向けていた。
磯まで、一町の余はあろう。波打際の白いしぶきが、眼に沁むほどだったが、人影といっては、小さくしか見えないのである。試合となっても、実際の動作、呼吸などを、つぶさに目撃するわけにはゆかない。――しかし、佐渡がよく見よと訓えたのは、そういう技の末のことではあるまい。人と天地との微妙な一瞬の作用を見よといったのだろう。また、こういう場所に臨むもののふの心構えというものを、後学のため、遠くからでもよく見届けておけといったのであろう。
草の波が寝ては起きる。青い虫がときおりとぶ。まだひよわい蝶が、草を離れ、草にすがっては、何処ともなく去ってゆく。
「――ア。あれへ」
磯の先へ、徐々と、近づいて来た小舟が、伊織の眼にも、今見えた。時刻はちょうど、規定の刻限よりも遅れること約一刻――巳の下刻(十一時)ごろと思われた。
しいんと、島の内は、真昼の陽だけにひそまり返っていた。
その時、床几場のあるすぐ後ろの丘から、誰やら降りて来た。佐々木巌流であった。待ちしびれていた巌流は、小高い山に上って、独り腰かけていたものとみえる。
左右の立会役の床几へ礼をして巌流は、磯のほうへ向い、静かに、草を踏んで歩み出していた。