479・宮本武蔵「円明の巻」「彼の人・この人(9)(10)(11)」


朗読「479円明の巻74.mp3」16 MB、長さ: 約 16分 53秒

きゅう

一歩いっぽ――
しきいんで武蔵むさしには、今朝けさはもうなにあたまになかった。
多少たしょうおもいは、みなくろすみにこめて、白紙はくしうえへ、いっそう水墨画すいぼくがとしていてしまったかんじである。――そのもわれながら、今朝けさもちよくけたとおもう。
そして、船島ふなじまへ。
うしおにまかせて、わたろうとするもちには、なんらつね旅立たびだちとかわったところはなかった。きょう彼処かしこわたって、ふたたびここのきしかえれるか、かえれないか。いま一歩一歩いっぽいっぽが、むかっているのか、なお、今生こんじょうながみちあゆんでいるものか――そんなことすらおもってもみなかった。
かつて二十二歳にじゅうにさい早春そうしゅん一乗寺下いちじょうじさがまつ決戦けっせん場所ばしょへ、孤剣こけんいてのぞんだときのような――ああした満身まんしん毛穴けあなもよだつような悲壮ひそういだかなければ感傷かんしょうもない。
さればといって。
あのとき百余人ひゃくよにん大勢おおぜいてき強敵きょうてきか。きょうのただ一人ひとり相手あいて強敵きょうてきかといえば、烏合うごう百人ひゃくにんよりもただ一人ひとり佐々木小次郎ささきこじろうのほうが、はるかにおそるべきものであることは勿論もちろんだった。武蔵むさしっては生涯しょうがいまたとあるかないかの、今日きょうこそは大難だいなんちがいなかった。一生いっしょう大事だいじちがいなかった。
――が、いま
自分じぶん佐助さすけ小舟こぶねて、何気なにげなくいそぎかけた足元あしもとへ、自分じぶん先生せんせいび、また、武蔵むさしどのとびかけて、まろした二人ふたりものると、かれ平静へいせいこころは、一瞬いっしゅんれかけた。
「おお……権之助ごんのすけではないか。ばば殿どのにも。……どうして此処ここへは?」
不審ふしんそうにいうかれまえに、旅垢たびあかにまみれた夢想権之助むそうごんのすけとおすぎばばとは、浜砂はますななかまるようにすわって、をつかえていた。
「きょうの試合しあい一期いちごのお大事だいじぞんじまして」
権之助ごんのすけのことばにいで、ばばもいった。
「お見送みおくりにのう。……そしてまた、わしは其方そなたにきょうまでの詫言わびごとをしにました」
「はて。ばば殿どのが、この武蔵むさし詫言わびごととは」
「ゆるしてたも! ……武蔵むさしどの。ながあいだの、ばばが心得こころえちがいを」
「……えっ?」
むしろうたがうばかりに、武蔵むさし彼女かのじょのそういうおもてまもって、
「ばば殿どの、それはまた、どういう気持きもちでわしへっしゃるのか」
なにもいわぬ」
ばばはむねに、両掌りょうてあわせて、いま自分じぶんこころすがたを、かたちせた。
「――かた事々ことごとひとひとついうたら、懺悔ざんげもうすにも懺悔ざんげしきれぬほどあるが、すべてをみずながしてたも。武蔵むさしどの、ゆるしてたも。みな……ゆえにまようたわしのあやまちであった」
「…………」
じっと、そのすがた見入みいっていた武蔵むさしは、あな勿体もったいなしといわぬばかりに、にわかにひざって、ばばのっておがみ、しばらくかおなかったのは――むねもつまってなみだがつきあげそうになってたからであろう。
ばばのもわなわなふるえ、かれかすかにおののいていた。
「ああ、武蔵むさしって、今日きょうはなんたる吉日きちじつでしょうか。それいて、今死いましぬも、まどいなき心地ここちがしまする。はっきりと、なに真実しんじつのものがれたよろこび――ばば殿どののおことばをしんじまする。そして今日きょう試合しあいには、一層いっそう、すがすがしいこころのぞめるとぞんじまする」
「では、ゆるしてくださるか」
「なんの、左様さようおおせられましては、武蔵むさしこそ、とお以前いぜんにさかのぼって、ばば殿どのまえ幾重いくえにもびせねばなりませぬ」
「……うれしや。ああこれで、わがこころまでかるうなった。じゃが、武蔵むさしどの、もうひとりにも不愍ふびんもの、ぜひにも、其方そなたすくうてもらわねばなりませぬぞい」

ばばは、そういって、武蔵むさしさそうように、いた。
――とれば、彼方かなたまつ木陰こかげに、さっきからじっとうずくまったまま、かおげずにいている露草つゆくさのような、弱々よわよわしい女性じょせい姿すがたがあった。

じゅう

――いうまでもない。それはおつうであった。おつうは、ついに、ここまでた。ついたという姿すがたであった。
市女笠いちめがさって。
つえと、やまいって。
なお、ゆるばかりのものをいだいていた。そのはげしいほのおごときものもしかし、おどろくばかりやつれた肉体にくたいかれていた。――武蔵むさしたとたんにも、さきにそれをはっとかんじた。
「……ああ。おつう……」
凝然ぎょうぜんと、かれ彼女かのじょのまえにっていた。そこまで、黙々もくもくはこんであしをすらわすれていた。彼方かなたのこされた権之助ごんのすけもばばも、わざとってなかった。むしろして、この浜辺はまべを、かれ彼女かのじょとの二人ふたりだけのものにしてりたい気持きもちすらいだいた。
「おつう……さんか」
それだけの嘆声たんせいが、武蔵むさしにもせいいっぱいな言葉ことばだった。
この年月ねんげつ空間くうかんを、たんなる言葉ことばでつなぐには、あまりにも多恨たこんでありぎた。
しかも、うにもかたるにも、いまはそうしている時刻じこく余裕よゆうすらもすでにないのである。
「からだがくないようだが……。どんなだな」
やがていった。ぽつりと、前後ぜんごもない言葉ことばだった。――ながのうちの一句いっくだけをんでつぶやくように。
「……ええ」
つうは、感情かんじょうせて、武蔵むさしおもてへ、ひとみさえなかった。――が、生別せいべつとなるか死別しべつとなるか、この大事だいじ一瞬いっしゅんを、いたずらに取乱とりみだしたり、むなしくすごしてはならないと、みずかいましめているらしく、じっと、理念りねんなかに、自分じぶんつとめてひややかにまもっていた。
「かりそめの風邪かぜか。それとも、もうながわずらいか。どこがわるい? ……そして近頃ちかごろ何処どこに、どこにせておるのか」
七宝寺しっぽうじに、もどっております。……去年きょねんあきころから」
「なに、故郷ふるさとに」
「……ええ」
はじめて、彼女かのじょひとみは、武蔵むさしをじっとた。
ふかみずうみのように、れていた。睫毛まつげは、からくもあふれるものをささえていた。
故郷ふるさと……。孤児みなしごのわたくしには、ひとのいう故郷ふるさとはありません。あるのは、こころ故郷ふるさとだけです」
「でも、ばば殿どのも、いまでは其女そなたにやさしゅうしてくれる様子ようすなによりも、武蔵むさしよろこばしい。しずかにやまいやしなって、其女そなたしあわせになってくれよ」
いまは、しあわせでございます」
「そうか。それをいて、わしもすこしはやすんじてかれる。……おつう
ひざった。
ばばや権之助ごんのすけ人目ひとめかんじるので、彼女かのじょ居竦いすくんだまま、よけいをちぢめたが、武蔵むさしだれていることもわすれていた。
せたなあ」
と、いだかぬばかり、をのせて、あつ呼吸いきはずませている彼女かのじょかおかおせて、
「……ゆるせ。ゆるしてくれい。無情つれなものが、かならずしも、無情つれなものではないぞ、其女そなたばかりが」
「わ、わかっております」
「わかっているか」
「けれど、ただ一言ひとことっしゃってくださいませ。……つ、つまじゃと一言ひとこと
わかっておるというくちしたに。――いうては、かえってあじないもの」
「でも……でも……」
つうはいつか、全身ぜんしん嗚咽おえつしていた。とつぜん、懸命けんめいちからで、武蔵むさしをつかんでさけんだ。
んでも、おつうは。――んでも……」
武蔵むさしは、もくねんと、おおきくうなずいてせたが、ほそくておそろしくつよ彼女かのじょゆびちからを、ひとひとはなすと退けるようにして、った。
武士ぶし女房にょうぼうは、出陣しゅつじんにめめしゅうするものでない。わらうておくってくれい。――これりかもれぬ良人おっと舟出ふなでとすれば、なおさらのことぞ」

十一じゅういち

かたわらにひとはいた。
けれど、二人ふたりのわずかなあいだかたらいを、さまたげるものはいなかった。
「――では」
武蔵むさしは、彼女かのじょからはなした。おつうはもういていなかった。
いや、いて、微笑ほほえんでせようとさえしながら、わずかにやっと、なみだこらえとめて、
「……では」
と、おな言葉ことばで。
武蔵むさしつ。
彼女かのじょも、よろりと、った。――かたわらのちからに。
「おさらば」
いうと、武蔵むさしは、大股おおまた浜辺はまべ波際なみぎわむかってあゆみだした。
つうは……のどまでつきげて最後さいごのことばを、そのへ、ついにいえなかった。なぜならば、武蔵むさしけたはずみに、
(もうくまい)
と、していたなみだが、滂沱ぼうだとなって、武蔵むさし姿すがたすらえなくなってしまったからである。
きしつと、かぜがつよい。
武蔵むさしびんを、たもとを、はかまのすそを、しおかおりのつよいかぜ颯々さっさつなぐってとおった。
佐助さすけ
そこにある小舟こぶねぶ。
佐助さすけは、はじめていた。
さっきから、かれ武蔵むさしたことをっていたが、わざと、小舟こぶねなかで、あらぬかたへ、をやっていたのだった。
「お。……武蔵様むさしさま。もうよろしいのでございますか」
「よし。ふねを、もうすこせてくれい」
「ただいま
佐助さすけは、繋綱もやいき、さおいて、そのさおで、浅瀬あさせいた。
ひら――と、武蔵むさしが、そのみよしうつったときである。
「――あっ。あぶない、おつうさんっ」
まつかげで、こえがした。
城太郎じょうたろうである。
彼女かのじょともに、姫路ひめじからついて青木城太郎あおきじょうたろうだった。
城太郎じょうたろうも、一目ひとめ武蔵むさしに――とこころざしてたのであったが、最前さいぜんからの様子ようすに、しおうしなって、樹陰こかげのあたりに、やはりあらぬほうをやったまま――たたずんでいたものらしかった。
ところがいま武蔵むさしが、あし大地だいちからはなして、ふねひととなったかとえた途端とたんに、何思なにおもったかおつうが、みずむかって、まっしぐらにしたので、城太郎じょうたろうは、もしやとをまわして、
(あぶない!)
と、おもわず、いかけながらさけんでしまったものだった。
かれが、かれひとりの臆測おくそくで、あぶないと呶鳴どなったために、権之助ごんのすけも、ばばも、すべてがおつうもちを、咄嗟とっさ穿きちがえたものらしく、
「あっ……どこへ」
短慮たんりょな」
と、左右さゆうからあわただしくるなり、三人さんにんして、しかと、めてしまった。
「いいえ。いいえ」
つうは、しずかにかおってみせた。
かたで、いきこそあえいでいるけれど、けっして、そんな浅慮あさはかなことを――とわらってみせるように、ささえた人々ひとびとへ、安心あんしんうた。
「どう……どうしやるつもりか……?」
すわらせてくださいませ」
こえしずかである。
人々ひとびとは、そっとはなした。するとおつうは、波打際なみうちぎわからとおくない砂地すなちへ、れるようにすわった。
しかし、襟元えりもとも、かみのほつれも、きりっとなおして、武蔵むさしふねみよしむかい、
「お心措こころおきなく……。っていらっしゃいませ」
と、をつかえていった。
ばばもすわった。
権之助ごんのすけ城太郎じょうたろうも――それにならってぴたとすわった。
城太郎じょうたろうつい一言ひとことも、このさいを、かたることもできなかったけれど、その時間じかんだけ、おつうあたえたのだとおもうと、くやもちはすこしもおこらなかった。