478・宮本武蔵「円明の巻」「彼の人・この人(7)(8)」


朗読「478円明の巻73.mp3」9 MB、長さ: 約 10分 06秒

なな

しお満干みちひは、太郎左衛門たろうざえもんには、みせ商売上しょうばいじょうと、直接ちょくせつ関係かんけいがあるので、われると、言下げんかに、
「はいこのごろは、けの卯之刻うのこくからたつのあいだに、しおきりまして――左様さよう、もうそろそろしおはじめているころあいでござりまする」
と、こたえた。
武蔵むさしは、うなずいて、
左様さようか」
と、つぶやいたきり、また、しろ画箋がせんむかって、もくねんとしていた。
太郎左衛門たろうざえもんは、そうっと、ふすまをしめて、もと座敷ざしき退さがってった。――他人事たにんごとでなく、にはかかるが、どうしようもなかった。
もと位置いちに、自分じぶんちつくつもりで、しばらくすわってみたが、時刻じこくが、時刻じこくが、とおもうと、すわってもいられなくなる。
ついって、浜座敷はまざしきふちへなどてみた。海門かいもんしおいま奔流ほんりゅうのようにうごいていた。浜座敷はまざしきした干潟ひがたへも、ているうちに、ひたひたとしおげてる。
「おとうさま」
「おつるか。……なにをしているのじゃ」
「もうおましももないかと、武蔵様むさしさまのお草鞋わらじを、庭口にわぐちのほうへまわしてまいりました」
「まだだよ」
「どうなされましたか」
「まだ、いていらっしゃるのだ。……よいのかなあ、あんなにごゆるりしていて」
「でも、おとうさまは、おめしにったのじゃないのですか」
「――ったのだが、あの部屋へやくと、みょうに、めるのもおわるがしてなあ」
――すると、何処どこかで、
太郎左衛門殿たろうざえもんどのっ、太郎左衛門殿たろうざえもんどのっ」
こえは、いえそとだった。
庭先にわさきした干潟ひがたへ、細川藩ほそかわはん早舟はやぶねいっそうせていた。その早舟はやぶねうえっているさむらいんだのだ。
「おう、縫殿介ぬいのすけさまで」
縫殿介ぬいのすけは、ふねからがらなかった。えん太郎左衛門たろうざえもん姿すがたえたのをさいわいに、そこから仰向あおむいて、
武蔵むさしどのには、もはや、おましなされたか」
と、たずねた。
太郎左衛門たろうざえもんが、まだ――とこたえると、縫殿介ぬいのすけ早口はやくちに、
「では、すこしもはやく、ご用意よういをととのえて、お出向でむくださるよう、おつたください。――すでに相手方あいてがた佐々木巌流ささきがんりゅうどのにも、藩公はんこうのおふねにて、しまむかわれたし、主人長岡佐渡様しゅじんながおかさどさまにも、いまがた小倉こくらはなれましたれば」
「かしこまりました」
「くれぐれも、卑怯ひきょうをおとりなさらぬよう、老婆心ろうばしんまでに一言ひとことを――」
いいおわると、さきくように、早舟はやぶねはすぐかえして、った。
――が。太郎左衛門たろうざえもんもおつるも、おくしずかな一間ひとまいたのみで、そのまま、わずかな時間じかんなが気持きもちで、えんはしにならんでっていた。
けれど、いつまでも、武蔵むさしのいる部屋へやふすまは、ひらこうともしなかった。物音ものおとらしい気配けはいれてなかった。
二度目にどめ早舟はやぶねがまた、うら干潟ひがたいて、一人ひとり藩士はんしけあがってた。こんどの使つかいは、長岡家ながおかけ召使めしつかいではなく、船島ふなじまからかに藩士はんしであった。

はち

ふすまおとに、武蔵むさしひらいていた。――で、おつるこえをかけるまでもなかった。
二度にどまで、催促さいそく便びんが、早舟はやぶねよしげると、武蔵むさしは、
「そうですか」
ニコと、ただうなずく。
だまって、どこかへった。水屋みずや水音みずおとがする。いっすいしたかおあらい、かみでもでつけているらしい。
そのあいだ、おつるは、武蔵むさしがいたあとのたたみおとしていた。さっきまで、白紙はくしだったかみには、どっぷりすみがついている。一見いっけんくものようにしかえないが、よくると、破墨山水はぼくさんすいであった。
はまだれていた。
「おつるどの」
つぎから武蔵むさしがいう。
「――その一図いちずは、御主人ごしゅじんげてください。また、もう一図いちずは、きょうともをしてくれる船頭せんどう佐助さすけあとでおつかわしください」
「ありがとうぞんじます」
意外いがいなお世話せわ相成あいなったが、なんのおれいとてもできぬ。遺物かたみがわりに」
「どうぞ、きょうのよるにはまた、ゆうべのように、おとうさまとともに、おな燈火ともしびもとでおはなしができますように」
つるは、ねんじていった。
つぎでは、きぬおとがしていた。武蔵むさし身支度みじたくしているものとおもわれた。ふすまごしのこえがしなくなったとおもうと、武蔵むさしこえは、もう彼方かなた座敷ざしきで、ちち太郎左衛門たろうざえもんなに二言三言ふたことみことはなしている様子ようすだった。
つるは、武蔵むさし支度したくしていたつぎ部屋へやとおった。かれいだ肌着小袖はだぎこそでは、彼自身かれじしんで、きちんとたたまれて、すみのみだればこかさねてあった。
いいれぬさびしさが、おつるむねをつきあげた。おつるは、まだそのひとぬくみをのこしている小袖こそでうえかおせた。
「……おつる。おつる
やがて。
ちちこえだった。
つるは、こたえるまえに、そっとまぶたほおゆびはらでていた。
「……おつるっ。なにをしておる。おちになるぞ。はや、おちになるぞ」
「はいっ」
われをわすれて、おつるしてった。
――とれば、武蔵むさしはもう草鞋わらじ穿いて、にわ木戸口きどぐちまでている。かれは、あくまで人目立ひとめだつのをけていた。そこからはまづたいにすこあるけば、佐助さすけ小舟こぶねが、くからっているはずだった。
みせおくもの五人ごにんが、太郎左衛門たろうざえもんともにそこへて、木戸口きどぐちまで見送みおくった。おつるは、なにもいえなかった。ただ武蔵むさしのひとみが、自分じぶんのひとみをしおに、だまって、みな一緒いっしょに、つむりげた。
「――おさらば」
最後さいごに、武蔵むさしがいった。
つむりそろえたまま、だれあたまげなかった。武蔵むさし柴折しおりそとて、しずかに柴折戸しおりどめ、もう一度いちどいった。
「では、ご機嫌きげんよう……」
人々ひとびとが、あたまげたときは、もう武蔵むさし姿すがた彼方かなたいて、かぜなかあるいていた。
振向ふりむくか――振顧ふりかえるか――と太郎左衛門たろうざえもんはじめ、のこされた人々ひとびとは、えん庭垣にわかきからまもっていたが、武蔵むさし振向ふりむかなかった。
「あんなものかなあ、おさむらいというものは、なんと、あっさりしたものじゃろう」
だれか、つぶやいた。
つるは、すぐ、そこにえなくなっていた。太郎左衛門たろうざえもんもそれをると、ともおく姿すがたかくした。

太郎左衛門たろうざえもん住居すまいうらから浜辺はまべづたいに一町いっちょうほどあゆむと、おおきなひとまつがある。平家松へいけまつとこのあたりでばれているまつ――
さき小舟こぶねまわして、雇人やといにん佐助さすけは、今朝けさくからそこにっていた。武蔵むさし姿すがたいま、そのあたりまでちかづいたかとおもうと、だれか、
「おおう! ……先生せんせいッ」
武蔵むさしどの」
ばたばたっと、あしもとへまろすばかりに、ってものがあった。