477・宮本武蔵「円明の巻」「彼の人・この人(5)(6)」


朗読「477円明の巻72.mp3」9 MB、長さ: 約 9分 46秒

また。こうも想像そうぞうされる。
武蔵むさしが、ここの小林太郎左衛門こばやしたろうざえもん住居すまいへ、先頃さきごろからせたのも、そうしたえんから、伊織いおり世話せわになったれいをのべるためにも、下船後げせんご太郎左衛門たろうざえもんいえり、太郎左衛門たろうざえもんしたしくなったことからではあるまいか。
が――なにはともあれ。
武蔵むさし逗留中とうりゅうちゅうは、ちちのいいつけで、おつるかれのまわりを世話せわしていた。
げんに、昨夜さくやなども、武蔵むさしちち夜更よふくるまで、はなしこんでいるあいだ、彼女かのじょはほかの部屋へやで、しきりと縫物ぬいものなどしていた。それは武蔵むさしが、
試合しあい当日とうじつは、なに支度したくもうさぬがあたらしき晒布さらし肌着はだぎ下帯したおびだけはととのえておきたくおもいます)
と、なにかのおりにいったので、肌着はだぎのみならず黒絹くろきぬ小袖こそで帯紐おびひもあたらしくって今朝けさまでに、いとけばよいように、すべてそろえてあるのだった。
かりに――
ほんの、かりそめに、太郎左衛門たろうざえもんだけの親心おやごころであったが、
むすめは、あのひとに、あわおもいをせているのではあるまいか。――もし、そうだとしたら、今朝けさのおつるこころは)
と、ふと、そんなおもすごしもしてみるのだった。
いや、おもすごしでないかもしれなかった。おつる今朝けさまゆには、どことなく、そうしたこころいろがただよっている。
いまも。
ちち太郎左衛門たろうざえもんちゃんでから、ちち黙然もくねんうみていると、彼女かのじょも、いつまでもだまって、物思ものおもわしく、うみあお凝視ぎょうししていた。そして、そのひとみまでが、うみのあふるるごとく、なみだになりかけた。
「おつる……」
「はい……」
武蔵様むさしさまは、どこにおでか。あさ御飯ごはんは、さしげたか」
「もう、おみでございます。そして、あちらのお部屋へやめて」
「そろそろ、お支度中したくちゅうか」
「いいえ、まだ……」
なにをしていらっしゃるのだ」
いていらっしゃるようです」
を……?」
「はい」
「……ああ、そうか。こころないおねだりをした。いつぞや、のはなしがおり、なんぞ一筆いっぴつでも、のちおもにも――と、わしが御無心ごむしんしておいたので」
「きょう船島ふなじままで、おともをしてゆく佐助さすけにも、一筆いっぴつ遺物かたみいてつかわすと、っしゃっておいでになりましたから……」
佐助さすけにまで」
太郎左衛門たろうざえもんはつぶやいて、きゅう自分じぶんちつかないもちにせかれた。
「――もう、こうしているにも、時刻じこくせまるし、えもせぬ船島ふなじま試合しあいを、ようとさわいでゆくたくさんのひとたちも、ああして往来おうらいながしてくのに」
武蔵様むさしさまは、まるで、わすれたようなおかおをしていらっしゃいます」
などの沙汰さたではない。……おつる、おまえって、どうぞもう、そのようなことは、おくださいと、ちょっともうげてい」
「……でも、わたしには」
「いえないのか」
太郎左衛門たろうざえもんは、そのとき、はっきりとおつる気持きもちさとった。ちちむすめとは、ひとつである。彼女かのじょかなしみもいたみも、そのまま、太郎左衛門たろうざえもんにひびいていた。
男親おとこおやかおは、さりなかった。むしろしかるように、
「ばか。なにをめそめそと」
そして自分じぶんで――武蔵むさしのいるふすまのほうへってった。

ろく

そこは、ひそと、めきってあった。
ふですずり筆洗ひっせんなどをおいて、武蔵むさしは、じゃくとしてすわっていた。
すでにがっている一葉いちよう画箋がせんには、やなぎさぎいてあった。
――が、まえいてあるかみにはいま一筆ひとふでおとしてなかった。
しろかみまえにして、武蔵むさしは、なにこうかと、かんがえているらしい。
いや、画想がそうをとらえようとする理念りねん技巧ぎこうよりまえに、画心えごころそのものにりきろうとする自分じぶんしずかにととのえている姿すがただった。
しろかみは、天地てんちることができる。一筆いっぴつ落墨らくぼくは、たちまち、無中むちゅうしょうじる。あめぶことも、かぜおこすことも自在じざいである。そしてそこに、ふでったものこころ永遠えいえんとしてのこる。こころよこしまがあればよこしまが――こころ堕気だきがあれば堕気だきが――匠気しょうきがあればまた匠気しょうきのあとがおおかくしようもなくのこる。
ひと肉体にくたいえてもすみえない。かみ宿やどしたこころかたはいつまで呼吸こきゅうしてゆくやらはかりがたい。
武蔵むさしは、そんなこともふとおもう。
が、そんなかんがえも、画心えこころさまたげである。白紙はくしのようなさかい自分じぶんもなろうとする。そして筆持ふでもが、われでもなく、他人ひとでもなく、こころこころのまま、しろ天地てんち行動こうどうするのをっているような気持きもち――
「…………」
その姿すがたに、せま一間ひとまじゃくとしていたのである。
ここには往来おうらい騒音そうおんもなければ、きょうの試合しあいもよそごとのようだった。
ただ中庭なかにわつぼ女竹めだけが、ときおり、かすかなそよぎをせるだけで――。
「……もし」
おともなく、いつか、かれのうしろのふすますこひらいていた。
あるじ太郎左衛門たろうざえもんであった。そっと、そこをうかがったものの、あまりにしずかなかれ姿すがたに、びかけるのさえ、はばかられて、
「……武蔵様むさしさま。もし……せっかくおたのしみのところを、お邪魔じゃまいたしておそりますが」
かれにも、武蔵むさしのそうしている容子ようすは、いかにもたのしんでいる姿すがたえたのだった。
武蔵むさしは、がついて、
「おう、亭主ていしゅどのか。……さ、はいられい、そのように閾際しきいぎわで、なにをご遠慮えんりょ
「いえ、今朝けさはもう、そうしてもおられますまい。……やがて、お時刻じこくせまりまするが」
承知しょうちしています」
「お肌着はだぎや、懐紙かいし手拭てぬぐいなど、お支度したくもの取揃とりそろえて、つぎ部屋へやきましたゆえ、どうぞいつなりとも」
「かたじけのうござる」
「……そしてまた、てまえどもへくださるためのでございましたなら、どうぞもうおきくださいまして。……また、首尾しゅびよう船島ふなじまからおかえりのあとにはゆるゆると」
「おづかいなさるな。どうやら今朝けさは、すがすがしゅうござるゆえ、かようなときに」
「でも、時刻じこくが」
ぞんじています」
「……では、お支度したくにかかるときには、おびくださいまし、あちらでひかえておりますから」
おそるのう」
「どういたしまして」
かえって、邪魔じゃまをしてもと、太郎左衛門たろうざえもん退がりかけると、
「あ。亭主ていしゅどの――」
と、武蔵むさしのほうからめて、こうたずねた。
「このごろの、しお満干みちひは、どういう時刻じこくになっておろうか。今朝けさは、引潮時ひきしおどきでござるか、潮時しおどきでござろうか」