476・宮本武蔵「円明の巻」「彼の人・この人(3)(4)」


朗読「476円明の巻71.mp3」9 MB、長さ: 約 10分 12秒

さん

一方いっぽう――
おな準備じゅんびは、対岸たいがん赤間あかませきにある武蔵むさしのほうにも、当然とうぜんのこと、はやせまっていたわけである。
早朝そうちょう
長岡家ながおかけ使つかいとして、縫殿介ぬいのすけ伊織いおりのふたりが、武蔵むさし返書へんしょたずさえて、立帰たちかえってったあと。――かれせている廻船問屋かいせんどんやあるじ小林太郎左衛門こばやしたろうざえもんは、浜納屋はまなや露地ろじづたいに、店頭みせさき姿すがたせ、
佐助さすけ佐助さすけはいないか」
と、さがしていた。
佐助さすけというのは、大勢おおぜい雇人やといにんなかでも、よくのつくわかもので、住居すまいほうでも重宝ちょうほう使つかい、ひまがあるとみせのほうを手伝てつだっていた。
「おはようございます」
主人しゅじん姿すがた帳場ちょうばからりて番頭ばんとうは、まずあさ挨拶あいさつをして、
佐助さすけをおびで。――はい、はい、いましがたまで、そこらにおりましたが」
と、ほかわかものむかい、
佐助さすけさがしておいで、佐助さすけを――。大旦那おおだんながおしだ。いそいで」
と、いいつけた。
それから番頭ばんとうなにか、みせ事務じむについて、荷物にもつ回漕かいそうやら船配ふねくばりなどについて、さっそく、主人しゅじん報告的ほうこくてきなおしゃべりをはじめたが、太郎左衛門たろうざえもんは、
あとで。あとで」
みみたぶのはらうようにかおり――それとはまったくかかわりのないことをたずした。
だれか、みせのほうへ、武蔵様むさしさまたずねてえたものがあるかね」
「へ。ああ、おくのお客様きゃくさまのことで。――いや今朝けさがたも、たずねてえたおひとがございましたが」
長岡様ながおかさまのお使つかいだろう」
左様さようで」
「そのほかには」
「さあ? ……」
と、ほおおさえて、
「てまえがったのではございませんが、昨晩さくばん大戸おおとおろしてから、むさなりをしたのするどいたびおとこが、かしつえをついて、のっそりはいってて――武蔵先生むさしせんせいにおにかかりたい。先生せんせいには下船以来げせんいらい当家とうけ御逗留おとうりゅううけたまわるが――といって、しばらくかえらなかったそうでございますよ」
だれがしゃべったのだ。あれほど、武蔵様むさしさまについては口止くちどめしておいたのに」
なにしろ、わかしゅうたちは、きょうのことがございますので、ああいうおかたが、御当家ごとうけとまっているということは、なに自分じぶんたちの自慢じまんのように、ついくちてしまうらしいので――てまえもやかましくもうかせてはございまするが」
「そして、ゆうべの、かしじょうをついたたびひととかはどうしたのか」
総兵衛そうべえどのが、わけまして、なにかのおちがいでございましょうと――どこまでも武蔵様むさしさまはいないことにとおして、やっと、かえしたそうでございます。――だれかそのとき大戸おおとそとにはまだ三人さんにんも――女子おなごかげじってたたずんでいたとやらいうておりましたが」
そこへ。
船着ふなつきの桟橋かけはしほうから、
佐助さすけでございます。大旦那おおだんななに御用ごようでございますか」
「おお佐助さすけか。べつに、ほかようじゃないが、おまえには今日きょう大役たいやくたのんである。ねんすまでもないが合点がてんだろうな」
「へい。ようく心得こころえておりまする。こんな御用ごよう船師ふなし一代いちだいのうちにもないことだとおもいまして、今朝けさはもうくらいうちからきて、水垢離みずごりをかぶり、あたらしい晒布さらししたぱらいてっておりますんで」
「じゃあ、ゆうべも吩咐いいつけておいたが、ふね支度したくも、いいだろうな」
「べつに、支度したくといって、なにもございませんが、たくさんな軽舸はしけなかから、あしはやい、そしてよごれのないのをって、すっかりしおいて、船板ふないたまであらってきました。――いつでも、武蔵様むさしさまのほうさえ、お支度したくがよければ、おともをするようになっております」

よん

太郎左衛門たろうざえもんはまた、
「そして、ふねは、どこへつないでおいたか」
と、たずねた。
佐助さすけが、いつもの船着ふなつきのきしに――とこたえると、太郎左衛門たろうざえもんかんがえていたが、
「そこでは、おちのさい人目ひとめにつく。――どこまでも、人目ひとめだたぬようにというのが武蔵様むさしさまのおのぞみ、どこぞ、ほか場所ばしょまわしておいてもらいたいのう」
「かしこまりました。では、どこへけておきましょうか」
住居すまいうらより、二町にちょうほどひがし浜辺はまべ――あの平家松へいけまつのあるあたりのきしなら、往来おうらいまれだし、人目ひとめにもそうかかるまい」
そう吩咐いいつけているあいだも、太郎左衛門たろうざえもんは、自分じぶんまでが、なにやら落着おちつかぬ様子ようすだった。
みせも、平常ふだんとちがって、今日きょうはめっきりひまだった。こくぎまで、海門かいもん船往来ふねおうらいめられているせいもあろうし、また、対岸たいがん門司もじせき小倉こくらともに、その長門ながと領一帯りょういったいでも、すべてのものが、船島ふなじまのきょうの試合しあいを、こころがかりにしているせいもあろう。
そうおもって往来おうらいながめると、どこへしてくのかおびただしい人出ひとでであった。近藩こんはん武士ぶしらしい人々ひとびと牢人ろうにん儒者風じゅしゃふうもの鍛冶かじ塗師ぬりし鎧師よろいしなどの工匠たくみたち、僧侶そうりょから雑多ざった町人ちょうにん百姓ひゃくしょうまでが――そのなかには被衣かずきだの市女笠いちめがさだののおんなのにおいをもてて――おなじ方角ほうがくへ、ながれてくのだった。
「はよう、やい」
くと、ててくぞよ」
漁師りょうし女房にょうぼうたちであろう、背負せおったり、いたり、いまいまにも、何事なにごとかあるように、わめいてとおるのもあった。
「なるほど、これでは……」
と、太郎左衛門たろうざえもんも、武蔵むさしもちがわかがした。
識者顔しきしゃがおするものの、毀誉褒貶きよほうへんさえかなりみみうるさいところへ、この人出ひとでほこりは、他人たにんぬかきるかを、つかけるかを、ただ興味きょうみとして、見物けんぶつけてく――
しかもまだ、時刻じこくまでには、幾刻いくときもあるのに。
そして、船止ふなどめとなっているからには、もとより海上かいじょうへはられず、とお陸地りくちとは絶縁ぜつえんされている船島ふなじま現地げんちが、たとえやまおかがっても、えるはずもありないのに。
しかし、ひとく。そして、ひとくと、いえにいられない人々ひとびとが、わけもなく、ぞろぞろとくのだった。
太郎左衛門たろうざえもんは、ちょっと往来おうらいて、一巡いちじゅんそんな空気くうきれながら、やがて、住居すまいもどってた。
かれ居間いまも、武蔵むさしていた部屋へやも、もうすっかり、あさ掃除そうじおわっていた。
けひろげた浜座敷はまざしき天井てんじょう木目もくめに、ゆらゆらと、波紋はもんうずがうごいていた。すぐうらがもううみだった。
なみからかえあさが、ふわ、ふわ、とひかりになって、かべにも障子しょうじにもあそんでいる。
「おかえりなさいませ」
「お。おつるか」
「どちらへおでになったのかと彼方此方あちこち、さがしていましたのに」
「おみせほうにいたのだよ」
つるのついだちゃって、太郎左衛門たろうざえもんは、しずかに見入みいっていた。
「…………」
つるもだまってうみていた。
太郎左衛門たろうざえもんが、れてもいたくないほど可愛かわいがっているこの一人娘ひとりむすめは、先頃さきごろまで泉州せんしゅう堺港さかいみなと出店でみせにいたが、ちょうど武蔵むさしおりおなふねで、ちちもとかえっていた。――おつるはかねて伊織いおりをよく世話せわしたこともあるので、武蔵むさし伊織いおり消息しょうそくくわしかったのは、船中せんちゅうで、このむすめから、なにかのはなしをいていたのかもれなかった。