475・宮本武蔵「円明の巻」「彼の人・この人(1)(2)」


朗読「475円明の巻70.mp3」10 MB、長さ: 約 10分 59秒

ひと・このひと

いち

縫殿介ぬいのすけは、いそいでた。
主人しゅじん長岡佐渡ながおかさどが、今朝けさ船島ふなじま出向でむくまでにうようにと。
吩咐いいつけられた六名ろくめい屋敷やしきを、それぞれまわって、武蔵むさし返書へんしょ次第しだいげ、どこでもちゃものまずかえして途中とちゅうなのである。
「あっ。巌流がんりゅうの……?」
かれは、そのいそぐあしをもめて、おもわず物陰ものかげにたたずんだ。
そこは、御浜奉行みはまぶぎょう役宅やくたくから半町はんちょうほどさき海辺うみべだった。
そこのきしからは、早朝そうちょうよりたくさんな藩士はんしが、きょうの試合しあい立会たちあいや、検視けんしや、また、不慮ふりょ場合ばあい警備けいびだの、試合場しあいば準備じゅんびだのとして、番頭ばんがしら以下足軽組いかあしがるくみまで――幾組いくくみにもわかれて、ぞくぞくと船島ふなじまをさして先発せんぱつしていた。
――いまも。
船手ふなて藩士はんしが、一艘いっそうあたらしい小舟こぶねせて、っていた。舟板ふないたから水箒みずぼうき棕梠縄しゅろなわまでおろしたばかりの真新まあたらしいふねだった。
縫殿介ぬいのすけ一目見ひとめみて、それは藩公はんこうからとく巌流がんりゅうへくだされたふねった。
ふねに、特徴とくちょうはないが、そこらにたたずんでいる百名以上ひゃくめいいじょう人々ひとびとかおぶれが、みなごろ巌流がんりゅうしたしいものか、あるい見馴みなれないかおばかりなので、すぐったのである。
「おお、おでになった」
えられた」
人々ひとびとは、ふね両側りょうがわって、おなじ方角ほうがくを、いていた。
磯松いそまつかげから、縫殿介ぬいのすけも、彼方かなたていた。
御浜奉行みはまぶぎょうやすどころに、ってこまつないで、佐々木巌流ささきがんりゅうは、しばらくそこに休息きゅうそくっていたものとみえる。
そこの役人達やくにんたちにも見送みおくられ、巌流がんりゅうは、日頃ひごろ愛馬あいばを、たくしていた。――そしてともとして、内弟子うちでし辰之助たつのすけ一名いちめいれ、すなんで此方こなたふねのほうへあるいてた。
「…………」
人々ひとびとは、巌流がんりゅう姿すがたが、ちかづいてるにつれ、しゅくとして、おのずかられつをなし、かれみちひらいていた。
それと人々ひとびとは、その巌流がんりゅうはれ扮装いでたち恍惚こうこつとして、自分達じぶんたちまでが武者振むしゃぶるいのようなものをおぼえた。
巌流がんりゅうは、浮織うきおり白絹しろきぬ小袖こそでに、のさめるような、猩々緋しょうじょうひ袖無そでなし羽織ばおりをかさね、葡萄色ぶどういろ染革そめがわ裁附袴たっつけ穿いていた。
足拵あしごしらえは、もちろん、草鞋わらじ――すこししめしてあるかにえる。小刀こがたな日頃ひごろものであったが、大刀だいとうは、仕官以後しかんいご遠慮えんりょしてさなかったれい無銘むめい――しかし肥前長光ひぜんながみつともいわれている――愛刀あいとう物干竿ものほしざおを、ひさしぶりに、その腰間ようかんに、ながやかによこたえていた。
そのかたなは、三尺余さんじゃくあまりもあるので、るからに業刀わざものおもわれ、おくりの人々ひとびとをみはらせたが、より以上いじょう、その長剣ちょうけんがすこしも不似合ふにあいでないかれすぐれたこつと、猩々緋しょうじょうひなのと、いろしろ豊頬ほうきょうおもてと、そしてまゆもうごかさないちついた態度たいどに――なに荘重そうちょうなものをていた。
波音なみおとと、かぜまぎれて、縫殿介ぬいのすけがいるあたりまでは、人々ひとびとこえも、巌流がんりゅうのことばも、きこえてはなかったが、巌流がんりゅうおもてには、これから生死せいし場所ばしょのぞものとはえぬなごやかなみが、とおくからでもあかるくえた。
かれは、そのみを、あたうかぎり、知己朋友ちきほうゆうに、万遍まんべんなくふりいて、やがて、どよめく声援者せいえんしゃにつつまれながら、あたらしい小舟こぶねった。
弟子でし辰之助たつのすけった。
船手方ふねてがた藩士はんしが、二人乗ふたりのりこんで、一名いちめいみよしこしかけ、一名いちめいをにぎる――
それと、もうひとつのとものものは、辰之助たつのすけこぶしえてたか天弓あまゆみである。小舟こぶねきしはなれると一斉いっせい歓声かんせいおくった人々ひとびとこえおどろいたのであろう。天弓あまゆみは、パッとひとつ、おおきくつばさった。

浜辺はまべって見送みおくっている人々ひとびとは、いつまでもらなかった。
それへこたえて、巌流がんりゅうも、ふねなかから、いていた。
ものも、ことさら、ふねはやろうとはせず、おおきくゆるく、なみっていた。
「そうだ、時刻じこくせまった。おやしきの旦那様だんなさまにもはや……」
縫殿介ぬいのすけは、われにかえって、たたずんでいる磯松いそまつかげから、きゅうかえりかけた。
そのとき、ふとづいたのであった。かれ姿すがたせていたまつからろく七本目しちほんめおなじような磯松いそまつかげに、ひたとせて、ひといているおんながある。
とおちいさく――うみあおけてゆく小舟こぶねを――いや巌流がんりゅう姿すがたを、見送みおくってはまた、よよと木陰こかげいていた。
それは巌流がんりゅうが、小倉こくらいてからのあさ年月ねんげつ巌流がんりゅうのそばにつかえてたおみつであった。
「…………」
縫殿介ぬいのすけは、らした。そして彼女かのじょこころおどろかさぬように、足音あしおとしのばせて、はまからまちみちった。
ふと、になるまま、
「――だれにも、うらおもてはあるもの。はれ姿すがたかげには、うれいにいたひとのあるもの……」
と、つぶやいて、人目ひとめはなれてかなしむ一人ひとり女性じょせいと、もうおきへ、うすれて巌流がんりゅうふねとを、もういっぺん、りかえってみた。
浜辺はまべ人々ひとびとは、三々五々さんさんごご、もう波打際なみうちぎわかららかっていた。口々くちぐち巌流がんりゅうちつきぶりをたたえ、きょうの試合しあい必勝ひっしょうを、かれうえ期待きたいしながら――。

辰之助たつのすけ
「はっ」
天弓あまゆみを、これへ」
巌流がんりゅうは、ひだりこぶしをさしべた。
辰之助たつのすけは、自分じぶんこぶしにすえていたたかを、巌流がんりゅううつして、すこ退がった。
ふねいま船島ふなじま小倉こくらとのあいだいでゆく。海峡かいきょう潮流ちょうりゅうは、ようやくきゅうであった。そらみずも、みきった好晴こうせいであったが、なみはかなりたかかった。
ふなべりから水玉みずたまのかかるたびに、たか逆毛さかげてて、凄愴せいそう姿態したいつくった。今朝けさは、れたこのたかにも、戦気せんきがあった。
「おしろかえれ」
巌流がんりゅうは、たか足環あしわいて、たかこぶしからそらはなった。
たかは、つね狩場かりばまとのように、そらけると、げる海鳥うみどりへかかって、しろ羽毛うもうらした。しかしふたた飼主かいぬしばないので、おしろそらや、島々しまじまみどりをかすめて、やがてどこかへえなくなった。
巌流がんりゅうは、たか行方ゆくえていなかった。たかはなつと、巌流がんりゅうはすぐに、けている神仏しんぶつのおふだやら手紙てがみ反古ほごやら、また、岩国いわくに叔母おばが、こころをこめてって梵字ぼんじ肌着はだぎまでを――すべて元来がんらい自己以外じこいがいものは――みなげて、しおながしてしまった。
「さっぱりした」
巌流がんりゅうはつぶやいた。
いま絶対的ぜったいてきなものへむかってくあの気持きもちには、あのひと、このひとと、おもさるる、じょうきずなは、すべてこころくもりになるとおもった。
自分じぶんたせようといのってくれる、大勢おおぜい人々ひとびとの、好意こうい重荷おもにであった。神仏しんぶつのおふださえ、さまたげとかれおもったのである。
人間にんげん。――素肌すはだ自己じこ
これ一箇いっこしか、いまは、たのむもののないことを、さすがにさとっていた。
「…………」
潮風しおかぜは、無言むごんかれおもてをふいた。そのひとみに――船島ふなじままつ雑木ぞうきみどりが、刻々こっこくに、ちかづいていた。