473・宮本武蔵「円明の巻」「日出づる頃(1)(2)」


朗読「473円明の巻68.mp3」10 MB、長さ: 約 10分 41秒

づるころ

いち

げたろう? ――
げたに相違そういない。
ありそうなことだ。
えぬ武蔵むさし姿すがたたいして、紛々ふんぷんたるうわさのなかに、十三日じゅうさんにちけた。
長岡佐渡ながおかさどねむらなかった。
よもや? ――とはおもうものの、そうおもわれない人間にんげんがよくこと間隙かんげき豹変ひょうへんする。
「――御主君ごしゅくんのてまえ」
かれは、切腹せっぷくすらかんがえた。
武蔵むさし推挙すいきょしたもの自分じぶんである。はんもって、試合しあいとなった今日きょう、その武蔵むさし行方ゆくえくらましたなどということがもしおこったら、自決じけつみちるしかない。真面目まじめに、切腹せっぷくかんがえながら、佐渡さどは、きょうもみきったあさ晴天せいてんむかえた。
「……自分じぶん不明ふめいか」
あきらめにちかつぶやきをもらしながら、室内しつない清掃せいそうができるあいだ伊織いおりをつれてにわあるいてた。
「ただ今戻いまもどりました」
その武蔵むさし居所いどころを、昨夜さくやからさがしにていた若党わかとう縫殿介ぬいのすけが、つかれた顔色かおいろ横門よこもんからあらわした。
「どうだった?」
わかりませぬ。皆目かいもく、それらしいものも、御城下ごじょうか旅籠はたごには」
寺院じいんなど、いてみたか」
府中ふちゅう寺院じいん町道場まちどうじょうなど、武芸者ぶげいしゃりそうな箇所かしょへは、安積あさかさま内海うつみさまなどが、手分てわけして調しらべてまいるといっておりましたが、まだあの六名ろくめいがたは」
もどらぬが……」
佐渡さどまゆには、うれいがい。
庭木にわきいて、紺碧こんぺきうみえる。しろいしぶきのなみがしらが、かれむねまでってるのだった。
「…………」
梅若葉うめわかばのあいだを、佐渡さど黙々もくもくきつもどりつしていた――
「わからぬ」
「どこにもえぬ」
「こんなことなら、一昨夜別いっさくやわかれるときに、しかさきいておくであったに」
井戸亀右衛門丞いどかめえもんのじょう安積あさか八弥太はやと木南加賀四郎きなみかがしろうなど、夜来やらいあるとおしていた人々ひとびとも、やがて、げっそりしたかおそろえてかえってた。
えんこしかけて、人々ひとびとはとかくの評議ひょうぎにいきりっていた。時刻じこくせまるばかりなのだ。――今朝けさ佐々木小次郎ささきこじろう門前もんぜんをよそながらとおったという木南加賀四郎きなみかがしろうはなしによれば、昨夜来さくやらい、そこには約二やくに三百名さんびゃくめい知己門人ちきもんじんめきって、門扉もんぴひらき、大玄関だいげんかんにはもんのついたまくをめぐらし、正面しょうめん金屏風きんびょうぶをすえ、早朝そうちょうには、城下じょうか神社三じんじゃさんしょ門人もんじんたちが代参だいさんして、きょうの必勝ひっしょうしている――というさかんな様子ようすであったという。
それにひきかえて!
くちにはさぬが、人々ひとびとさんたるつかれをおたがいのかお見合みあった。一昨夜いっさくや六名ろくめいにしてみても、武蔵むさし生国しょうごくが、自分じぶんらとおな作州さくしゅうであるというだけでも、はんへも世間せけんへも、顔向かおむけがならないがするのだった。
「もうよい。……いまからさがしてもにあうまい。御一同ごいちどう、おください。あわてればあわてるほど見苦みぐるしい」
佐渡さどは、そうげて、人々ひとびと無理むりらせた。木南加賀四郎きなみかがしろう安積八弥太あさかはやたなどは、
「いや、つける。たとえ今日きょうぎても、あくまでつけして、ててくれる」
昂奮こうふんしてかえってった。
佐渡さどは、清掃せいそうされた室内しつないがって、香炉こうろこういた。それはいつものことながら、
「……さてはお覚悟かくごを」
と、縫殿介ぬいのすけは、むねかれた。すると、まだ庭先にわさきのこって、うみいろていた伊織いおりが、ふとかれへいった。
縫殿介ぬいのすけさん。下関しものせき廻船問屋かいせんどんや小林太郎左衛門こばやしたろうざえもんいえたずねてみましたか」

大人おとな常識じょうしきには限界げんかいがあるが、少年しょうねんおもいつきには限界げんかいがない。
伊織いおりのことばに、
「そうだった。……おお」
佐渡さど縫殿介ぬいのすけも、的確てきかく目標もくひょうゆびさされた心地ここちがした。あるいは? ――いやいやこのうえは、武蔵むさしのいそうなところとしては其処以外そこいがいにはかんがえられない。
佐渡さどは、まゆひらいて、
ぬい不覚ふかくじゃったな。あわてぬようでも、あわてておるわい。――すぐ其方参そちまいっておむかえしてい」
「はっ、承知しょうちいたしました。伊織いおりどの、ようがついたな」
「わたしもく」
旦那だんなさま。伊織いおりどのも、一緒いっしょにともうしますが」
「ウム。ってい。――て。武蔵むさしどのへ一筆書いっぴつかくから」
佐渡さど手紙てがみをしたためた。そしてなお口上こうじょうでもいいふくめた。
試合しあい時刻じこくたつ上刻じょうこくまでに、相手方あいてがた巌流がんりゅうは、藩公はんこうのおふねをいただいて、船島ふなじまわたることになっている。
いまからなら時刻じこくもまだ十分じゅうぶん尊公そんこうにも、自分じぶんのやしきへ支度したくをととのえ、ふねも、自分じぶん持船もちぶね提供ていきょうするゆえ、それへって、はれ場所ばしょのぞんでは如何いかが
佐渡さどのそうしたむねけた縫殿介ぬいのすけ伊織いおりは、御家老ごかろうもってお船手ふねてからはん早舟はやぶねさせた。
ほどなく下関しものせきへあがる。
下関しものせき廻船問屋かいせんどんや小林太郎左衛門こばやしたろうざえもんみせはよくっている。みせものたずねてみると、
なにらないが、先頃さきごろからお住居すまいほうに、おわかいお武家ぶけ一人ひとりとまっていることはいるようです」
と、いう。
「ああ、やはり此家ここに」
縫殿介ぬいのすけ伊織いおりとは、顔見合かおみあわせてとした。住居すまいはすぐみせ浜納屋はまなやつづきである。あるじ太郎左衛門たろうざえもんって、
武蔵様むさしさまには当家とうけ御逗留ごとうりゅうでございましょうか」
「はい、おでになります」
「それをいて、安心あんしんいたしました。昨夜来さくやらい御家老ごかろうにも、どれほど、御心配ごしんぱいなされていたかわかりませぬ。早速さっそく、お取次とりつぎねがいとうござるが」
太郎左衛門たろうざえもんは、おくへはいってったが、すぐもどってて、
武蔵様むさしさまは、まだお部屋へやで、おやすみになっておりますが……」
「えっ?」
おもわず、あきがおして、
おこしてください。それどころではござらぬ。いつもこう、あさおそいおかたでござるか」
「いえ。昨夜さくやは、てまえとさしむかいで、深更よふけまで、世間せけんばなしにきょうじておりましたので」
召使めしつかいんで、縫殿介ぬいのすけ伊織いおりを、客間きゃくまとおしておき、太郎左衛門たろうざえもんは、武蔵むさしおこしにった。
もなく、武蔵むさしは、二人ふたりっている客間きゃくま姿すがたせた。十分じゅうぶん熟睡じゅくすいをとったかれのひとみは、嬰児あかごのようにきれいだった。
その眼元めもとに、微笑びしょうせながら武蔵むさしは、
「やあ、おはやく。――何事なにごとでござりますか」
と、いってすわった。
その挨拶あいさつにも、縫殿介ぬいのすけは、ちからぬけをかんじたが、すぐ長岡佐渡ながおかさど書面しょめんをさしし、また、口上こうじょうでも、いいした。
「それはそれは」
武蔵むさしは、手紙てがみあたまげて、ふうった。伊織いおりは、その姿すがたを、あなのあくほどつめていた。
「……佐渡様さどさまおぼめし、ありがたいことにぞんじますが」
武蔵むさしは、みおえた手紙てがみきながら、ちらと、伊織いおりかおた。伊織いおりはあわてて俯向うつむいた。からなみだがあふれかけたので――。