472・宮本武蔵「円明の巻」「馬の沓(7)(8)」


朗読「472円明の巻67.mp3」9 MB、長さ: 約 10分 19秒

なな

ちとけて、さけはなしがはずんでたので、武蔵むさしはじめて、
「おむつまじい、そしてふしぎなご会合かいごうに、おりよく来合きあわせて、拙者せっしゃともきょうもうした。――しかし最前さいぜんからの事々ことごと馬沓まぐつつくったり、それをまた、三方さんぽうにのせておがみ、郷土きょうどやおしろむかって、あらためてれいをなされたり――これは一体いったいどうしたことでござるのか」
たずねると、
「よういてくだされた。ご不審ふしんはごもっともじゃ」
と、内海孫兵衛丞うつみまごべえのじょうは、っていたように、こうはなした。
慶長五年けいちょうごねんせきはらいくさやぶれた新免家しんめんけさむらいたちは、あらかた九州きゅうしゅうちてた。
こう六人ろくにんもの敗残者はいざんしゃ一組ひとくみだった。
もとより衣食いしょくみちはつかず、というて、身寄みよたよりにすがって、さもしいあたまげきれず、また、かっしても盗泉とうせんみずはくらわず――と頑固がんこして、一同いちどう、この街道かいどう橋袂はしたもとに、まずしい納屋なや一軒借いっけんかりうけ、やりきたえられているで、うまくつつくっていた。
ここ三年さんねんあいだは、往来おうらい馬子まごに、自分じぶんらでつくった馬沓まぐつひさいで、細々ほそぼそながらべていたが、
(あのしゅうみな、どこかかわっているぞ。凡者ただものではなかろう)
と、馬子まごたちのうわさが、やがてはんきこえ、当時とうじ君公くんこう三斎公さんさいこうみみにはいった。
調しらべてみると、きゅう新免しんめん伊賀守いがのかみしんで、六人衆ろくにんしゅうといわれたさむらいたちとわかり、不愍ふびんもの召抱めしかかえてつかわせと、沙汰さたされた。
交渉こうしょう細川藩ほそかわはんしんは、
おぼしをうけてまいってござるが、ろくのほどはおおせもなく、われら重臣じゅうしんどもの協議きょうぎで、六名ろくめいたい千石せんごくきゅうしたいとぞんずるがいかがであろうか」
と、いってかえった。
六名ろくめいもの三斎公さんさいこう仁慈じんじ感泣かんきゅうした。せきはら敗亡者はいぼうしゃとあれば、当然とうぜんてられても、まだ寛大かんだいとしなければならないところである。それを、六人ろくにん千石せんごくきゅうされるというのでいなやもなかった。
ところが、井戸いど亀右衛門丞かめえもんのじょうははが、
(おことわりせい)
という意見いけんをいいだした。
亀右衛門丞かめえもんのじょうははがいうには、
三斎公様さんさいこうさまのお仁慈じんじは、なみだのこぼれるほどうれしい。一合いちごうのお扶持ふちといえ、うまくつつくには、勿体もったいのうて、否応いやおういえたことではない。――したがおん身達みたちは、落魄おちぶれてこそおれ、新免伊賀守様しんめんいがのかみさま旧臣きゅうしん藩士はんしうえすわりなされたお人達ひとたちじゃ。それが一纒ひとまと千石せんごくで、よろこんでお召抱めしかかえにおうじたときこえては、うまくつつくっていたことが、しんからことになろう。また、三斎公様さんさいこうさま御恩ごおんにこたえて、不惜身命ふしゃくしんみょう御奉公ごほうこうをなさる覚悟かくごでもなければならぬこと、おすくまいのような、六人ろくにん一括ひとからげの扶持ふちはそれゆえおうけいたされぬ。おたちは出仕しゅっししなさろうとも、せがれされませぬ)
で、一致いっちして、ことわると、はんものはありのまま、君公くんこうつたえた。
三斎公さんさいこうは、いて、
長老ちょうろう内海孫兵衛丞うつみまごべえのじょう千石せんごくものには一名二百石いちめいにひゃくこくずつと、あらためてもうしやるがよい)
と、めいじた。
六名出仕ろくめいしゅっしときまって、いよいよ、お目見得めみえ登城とじょうとなったが、そのおり六名ろくめい貧乏びんぼうぶりを目撃もくげきして使者ししゃものが、
少々しょうしょうはお手当てあてさきつかわさぬと、登城とじょう服装ふくそうなども、おそらくあわすまいとさっしられますが)
くばったつもりでいうと、三斎公さんさいこうはわらって、
(だまってておれ。折角せっかくさむらいどもをむかえながら、こちらが、もとめてはじくにもあたるまい)
あんのじょう。うまくつつくっていても登城とじょうして六名ろくめい糊目のりめただしい衣服いふく大小だいしょうみな、それぞれ、ふさわしいのをしていた。

はち

以上いじょう孫兵衛丞まごべえのじょうのはなしを、武蔵むさしきょうぶかくっていた。
「――まず、そういう仕儀しぎで、われら六名ろくめい、お召抱めしかかえになったわけじゃが、おもうにこれみな天地てんちおんじゃ。祖先そせんおん君公くんこうおんは、わすれんとしてもわすれようもないが、一頃ひところ露命ろめいをつないだうまくつおんわすれそうじゃと、後々のちのちいましうて、細川家ほそかわけへおかかえとなった今月こんげつ今日きょうを、毎年まいとし寄合よりあめ、こうしてわらむしろに、むかしをしのび、みっつのおんむねあらたにしながら、まずしいさかもりを、おおきくよろこびおうている次第しだいでござる」
孫兵衛丞まごべえのじょうは、そういいしてから、武蔵むさしさかずきけて、
「いや、われらのことのみいうてゆるされい。さけまずしくも、さかなはなくも、こころは、かようなものども。――明後日あさって試合しあいには、どうぞいさぎようやってくだされよ。ほねは、わしらがひろう。ははは」
さかずきしいただいて、
「かたじけのうござる。高楼こうろう美酒びしゅにもまさるおさかずき。おこころにあやかりますように」
滅相めっそうもない。われらごときにあやかったら、うまくつつくらねばならぬぞ」
小石こいしまじりのつちが、どてうえからすこしばかり、草間くさますべってくずれてた。人々ひとびとあおぐと、ちらと、蝙蝠こうもりのような人影ひとかげがかくれた。
だれだっ」
木南きなみ加賀四郎かがしろうは、おどりがってった。っとりがたなでまた一人ひとりつづいた。
どてうえ夜霞よがすみとおくをていたが、やがておおきくわらいながら、した武蔵むさし友達ともだちむかってげた。
巌流がんりゅう門人もんじんらしい。こんなところ武蔵むさしどのをまねいて、われらがくびあつめているので、助太刀すけだちさくでも密議みつぎしていると、へんったのじゃあるまいか。あわてて、ってもうしたが」
「あははは。そのうたがい、先方せんぽうにしてみれば無理むりもない」
ここの人々ひとびとは、あくまで磊落らいらくであったが、こよいあたり、城下じょうか空気くうきがどううごいているか、武蔵むさしには、ふとかんがえられた。
――長座ちょうざ無用むよう同郷どうきょう縁故えんこがあるだけに、なおさらこころしなければならない。かかる武士ぶしたちへ、よしなきるいおよぼしてはまぬ。武蔵むさしはそうかんがえついて、十分じゅうぶん人々ひとびと好意こういしゃし、一足ひとあしさきに、たのしい河原かわらむしろして飄然ひょうぜんった。
飄然ひょうぜん――
いかにもそういったふうな武蔵むさし去来きょらいだったのである。
翌日よくじつ
すでに十二日じゅうににちである。
当然とうぜん武蔵むさしはどこか、小倉城下こくらじょうかとまって、待機たいきしているものとおもい、長岡家ながおかけでは、かれ宿所しゅくしょを、手分てわけしてさがしていた。
「なぜめてかなかった」
と、用人ようにん取次とりつぎも、あとでは主人しゅじん長岡佐渡ながおかさどに、かなりしかられたこと間違まちがいない。
昨夜ゆうべ到津いたつ河原かわら武蔵むさしむかえてんだという六名ろくめい仲間なかまも、佐渡さどにいわれてさがあるいていた。
が、わからなかった。
ようとして、武蔵むさし姿すがたは、十一日じゅういちにちよるからさきれないのであった。
「こまったこと!」
明日あすまえにして、佐渡さどしろ眉毛まゆげ焦躁しょうそうをたたえていた。
巌流がんりゅうは、その
ひさしぶりに登城とじょうして、藩公はんこうから懇篤こんとくなことばと、おさかずきをいただいて、意気揚々いきようよう騎馬きばでやしきへ退がっていた。
城下じょうかには、夕刻頃ゆうこくころ武蔵むさしについて種々しゅじゅ浮説ふせつつたえられていた。
おくして、げたのだろう」
逃亡とうぼうしたにちがいない」
「どうさがしても、皆目かいもく姿すがたつからないそうだ」
と、いうのである。