469・宮本武蔵「円明の巻」「馬の沓(1)(2)」


朗読「469円明の巻64.mp3」9 MB、長さ: 約 10分 22秒

うまくつ

いち

――すでに巌流がんりゅうのやしきへは、早耳はやみみつたわっていたとおりに。
武蔵むさし姿すがたは、同日どうじつ夕方ゆうがたには、もうおな土地とち見出みいだすことができた。
武蔵むさしは、海路かいろたびて、それより数日前すうじつまえに、赤間あかませきいていたらしいが、だれあってかれかれものはなく、また、彼自身かれじしんも、何処どこかへ引籠ひきこもったまま、やすめていたらしい。
その十一日じゅういちにちには、むこおか門司もじせきわたり、やがて小倉こくら城下じょうかはいり、藩老長岡佐渡はんろうながおかさどのやしきをおとずれ、到着とうちゃく挨拶あいさつべ、また、当日とうじつ場所ばしょ時刻じこく承知しょうちむね一応答いちおうこたえて、すぐ玄関げんかんかえるつもりであった。
取次とりつぎた、長岡家ながおかけ家士かしは、かれのことばをけながらも、このひとがさては武蔵むさしであるのかと、ひたいごしに、まじまじていたが、
「まことに、行届ゆきとどいたご挨拶あいさつ主人しゅじんはまだおしろよりお退さがりはございませぬが、はや、もなくとぞんじます。――どうぞおがりくだされて、ご休息きゅうそくでも」
かたじけのうござるが、ただいまのご伝言でんごんさえねがえれば、それにて、にべつだんのようもござらねば」
「でも、せっかくのおしを。……のちにて主人しゅじんがいかばかりのこしゅうおもわれるかもしれませぬ」
と、取次とりつぎ家士かしは、自分じぶん一存いちぞんだけでも、かえしたくないようにめて、
「では、しばらくおちください。佐渡様さどさまにはご不在ふざいですが、一応奥いちおうおくへ」
と、いいのこして、いそいでおくげにった。
すると、廊下ろうかを。
ばたばたっとけて跫音あしおとがした。――とおも途端とたんに、
先生せんせいっ」
式台しきだいからりて、武蔵むさしむねきついた少年しょうねんがある。
「オオ、伊織いおりか」
先生せんせい……」
勉強べんきょうしているか」
「ええ」
おおきくなったなあ」
先生せんせい
「なんだ」
先生せんせいは、わたくしが、ここにいることをっていたのですか」
長岡様ながおかさま手紙てがみった。そしてまた、廻船問屋かいせんどんや小林太郎左衛門こばやしたろうざえもんたくでもいた」
「だから、おどろかなかったんですね」
「むむ。……当家とうけのお世話せわになっておれば、そちのためには、このうえもなく安心あんしんだからの」
「…………」
なにかなしむ」
と、かしらでて、
「ひとたびお世話せわになったからには、佐渡様さどさまのごおんわするるでないぞ」
「はい」
武道ぶどうのみでなく、学問がくもんもせねばならぬぞ。平常へいじょう何事なにごとも、朋輩衆ほうばいしゅうよりもひかに、ことあるときは、ひとけることもすすんでするようにな」
「……はい」
「そちにも、ははがない、ちちもない。肉親にくしんのないなかをつめたく、ひがみやすい。……そうなってはならぬぞ。あたたかいこころひとのなかにめ。ひとのあたたかさは、自分じぶんこころがあたたかでいなければわかはずもない」
「……え、え」
「そちはまた、利発りはつのくせに、くわっとすると野育のそだちの荒気あらきる。つつしまねばならぬ。まだ若木わかぎのそちには、なが生涯しょうがいがあるが、それにせよ、生命いのちしめよ。――ことあるときくにのため、武士道ぶしどうのため、てるために、生命いのちしむのだ。――いとしんで、きれいにって。いさぎよく――」
かれかおいて、そういう武蔵むさしげんには、どこか、名残なごりもこれりのような、切実せつじつなものがあった。鋭敏えいびん少年しょうねんは、さなきだに、むねがいっぱいだったところへ、生命いのちという言葉ことばたので、にわかに、こえをしゃくって武蔵むさしむね嗚咽おえつした。

長岡家ながおかけやしなわれてからは、なりりも小綺麗こぎれいに、前髪まえがみもきちんとって、伊織いおりは、奉公人ほうこうにんらしくなく、足袋たびまでしろいのを穿いていた。
武蔵むさしは、それをただけで、かれについては、安心あんしんした。そこを見届みとどけた以上いじょう、よけいなことはいわねばよかったと、かるいて、
くな」
と、しかったが、伊織いおりは、きやまなかった。武蔵むさし着物きものむねは、かれなみだれるばかりだった。
先生せんせい……」
ひとがわらうぞ。なにく」
「でも、先生せんせいは、明後日あさってになれば、船島ふなじまくのでしょう」
まいらねばなるまい」
ってください。これっきりえなくてはいやです」
「はははは。伊織いおり、そちは明後日あさってのことをかんがえていているのか」
「でも、おおくのひとが、巌流殿がんりゅうどのにはかなうまい。武蔵むさしも、よしない約束やくそくをしたものだと、みないいます」
「そうであろう」
「きっと、てましょうか。先生せんせいてるでしょうか」
あんじるな、伊織いおり
「では。大丈夫だいじょうぶですね」
やぶれても、きれいにやぶれたいとねんじるのみだ」
てないとおもったら、先生せんせいいまのうちなら、とおくにってしまえば」
世間せけんこえには、真実ほんとがある。まこと、そちのいうとおり、よしない約束事やくそくごとではある。――だが、ことここになってしまうと、げては、武士道ぶしどうすたる。武士道ぶしどうすたりをしめしては、わしひとりのはじではない。世人せじんこころ堕落だらくさせる」
「でも先生せんせい生命いのちいとしめと、わたくしへおしえたでしょう」
「そうだったな。――しかし、そちに武蔵むさしおしえたことは、みな、わしの短所たんしょばかり。自分じぶんわるところ出来できないところいたらないでいていることばかりを――そちには、そうあってもらいたくないためにおしえておるのだ。武蔵むさし船島ふなじまつちになったら、なおさらわしをよい手本てほんに、よしないことに生命いのちてるなよ」
てしない心地ここちに、彼自身かれじしんとらわれそうにおぼえたので、伊織いおりかおいて、むねからしのけ、
「お取次とりつぎへもたのげておいたが、佐渡様さどさまがおかえりになったら、くれぐれも、よろしくおつたえをたのむぞ。いずれ、船島ふなじま御拝姿ごはいしもうすとな」
もんほうへ、ろうとすると、伊織いおりかさをつかまえて、
先生せんせいっ……。先生せんせい
――なにもいえない。
ただうつむいて、片手かたてかさはなさず、片手かたてげてかおからはなさず、じっと、いつまでも、かたをふるわせていた。
すると、よこ中門ちゅうもん木戸きどが、すこひらいて、
宮本先生みやもとせんせいでござりますか。てまえは、当家とうけ若党わかとう縫殿介ぬいのすけもうしまするが、伊織いおりどのが、おわかれをしむ様子ようす無理むりならぬがいたしまする。――ほかへおいそぎのもござりましょうが、せめて一夜いちやとまくださいますわけにはきますまいか」
「これは――」
会釈えしゃくかえして、
「ありがたいお言葉ことばですが、船島ふなじまつちになるやもれぬに、一夜二夜いちやにや宿縁しゅくえんを、ここかしこにのこしては、も、のち人々ひとびとも、かえってわずらわしいとおもわれますれば」
「ご斟酌しんしゃくぎまする。おかえもうしては、手前てまえどもが、主人しゅじんより叱言こごとをうけるやもれませぬ」
委細いさい、また、書中しょちゅうにいたして、佐渡様さどさままであらためて、もうげます。――きょうは到着とうちゃく御挨拶ごあいさつまでにうかがったこと。よろしゅうおつたえを」
と、武蔵むさしもんた。