463・宮本武蔵「円明の巻」「待宵舟(7)鷹と女と(1)」


朗読「463円明の巻58.mp3」9 MB、長さ: 約 10分 05秒

なな

城太郎じょうたろうげにかなくても、ばばがつらこころしのんでつたえなくても、そこでの二人ふたりはなごえは、小舟こぶねとまかげにいて、耳澄みみすましているおつうへはもうきこえていた。
どぶり……どぶり……
ふなべりをたたく川口かわぐちしずかな夜波よなみむねかれて、あふれなみだをどうしようもなかった。
さはいえ。
彼女かのじょはこよいの薄縁うすべりを、城太郎じょうたろうのように、ばばのように、かたなき残念ざんねんとはしなかった。
(こよいえなければほかに、ここでかたれねばまたよそのなぎさで)
と、ひとりしている十年じゅうねんちかいにすこしもかわりはない。
むしろ武蔵様むさしさまが、りて途中とちゅうつちまない気持きもちに、
(さもあろう)
とすら、おなこころてるのであった。
聞説きくならく。――巌流佐々木小次郎がんりゅうささきこじろうというものは、いまでは中国九州ちゅうごくきゅうしゅうわたってひともゆるす達人たつじん、そのみち覇者はしゃ
武蔵むさしむかえて、雌雄しゆうけっしようというからには、ひとのみか、彼自身かれじしん必勝ひっしょう信念しんねんができているにちがいはない。
いかに武蔵むさしでも、こんどの九州行きゅうしゅうこうは、けっして平安へいあん浪路なみじではないであろう。――おつう自分じぶんうらまえに、そうおもう。――そうおもってはまた、とめどないなみだなかしずむのだった。
「……あのふねに、あのふね武蔵様むさしさまは」
いま松原まつばら洲先すさきから西にしへゆく帆影ほかげまもりながら、滂沱ぼうだながるるなみだかおをまかせ、彼女かのじょ小舟こぶねへりもなかった。
――ふと。
彼女かのじょなみだそこから、彼女自身かのじょじしんづかないはげしいちからおこしていた。
それは、やまいをも、あらゆる困難こんなんをも、また、なが年月ねんげつをも、つらぬいてつよ一筋ひとすじ意志いしだった。
よわい――肉体にくたいも、じょうにも、姿すがたるからに弱々よわよわしい、彼女かのじょのどこに、そんな強固きょうこなものがひそんでいるのかとあやしまれるほど、それはいまきっむねいて彼女かのじょほおにほのあかのぼせてたのだった。
「ばばさま。――城太じょうたさん」
ふいに、彼女かのじょふねからんだ。
二人ふたりは、きしのすぐうえへ、ちかづいてて、
「おつうどの」
なんはなそう。おもまどって、くもりごえ城太郎じょうたろうこたえた。
きました。ふねのご都合つごうで、武蔵様むさしさまがおえにならないことは、いま、お二人ふたりのおはなしで……」
かれたか」
「はい。なげいてもおよびませぬ。また、いたずらにかなしんでいるときでもございません。このうえは、いっそのこと、小倉表こくらおもてまでまいりとうぞんじます。そして、試合しあいのご様子ようす見届みとどけたいとおもいます。――もしものことがまったくないとは、どうしていいれましょう。そのときにはおほねひろうてもど覚悟かくごでございまする」
「――でも、その病体びょうたいでは」
やまい……」
つうはそのときまったく、自分じぶん病人びょうにんであることはわすれていた。しかし城太郎じょうたろうにそう注意ちゅういされても彼女かのじょ意志いし肉体にくたいえて、はるかにたか健康けんこう信念しんねんなか呼吸こきゅうしていた。
「おあんじくださいますな。……もうなんともございません。いいえ、すこしぐらいなことはあっても、試合しあい御先途ごせんどを、見届みとどけるまでは……」
にはしません!
いいかけたおわりの一言ひとことは、むねおさえて、すぐ懸命けんめいづくろいをなおし、ふね小縁こべりすがりながら、うようにきし自分じぶんがってた。
「…………」
城太郎じょうたろうは、両手りょうてかおおさえたまま、うしろをいてしまい、ばばは、こえをもらして、いていた。

たかおんな

いち

以前いぜん慶長五年けいちょうごねんらんまでは、勝野城かつのじょうといい、毛利もうり壱岐守勝信いきのかみかつのぶ居城きょじょうだった小倉こくらには、その新城しんじょう白壁しらかべやぐら増築ぞうちくされて、しろ威容いようは、ずっとととのってた。
細川ほそかわ忠興ただおき忠利ただとしと、もう小倉城こくらじょう二代にだいにわたる国主こくしゅとなっていた。
巌流佐々木小次郎がんりゅうささきこじろうは、ほとんど隔日かくじつ登城とじょうして、忠利公ただとしこうをはじめ、一藩いっぱんもの指南しなんしていた。――富田とみた勢源せいげん富田流とみたりゅうからて、鐘巻自斎かねまきじさいかれいたって、自己じこ創意そういと、二祖にそ工夫くふうとを合一ごういつしてった――巌流がんりゅうとよぶ一派いっぱ剣法けんぽうは、かれ豊前ぶぜんてから、幾年いくねんともたたぬまに、はん上下じょうげおこなわれ、九州一円きゅうしゅういちえん風靡ふうびし、とおくは四国中国しこくちゅうごくからも、ふうしたって、城下じょうか一年いちねん二年にねん遊学ゆうがくし、かれもん師礼しれいって印可いんか帰国きこくしようとするものがずいぶんとおおかった。
かれかたに、衆望しゅうぼうがあつまるとともに、主君しゅくん忠利ただとしも、
「よいもの召抱めしかかえた」
と、よろこんでいる。
また、家中かちゅう上下じょうげが、こぞって、
人物じんぶつだ」
といった。
定評ていひょうとなってきた。
氏家うじいえ孫四郎まごしろうは、新陰流しんかげりゅうをつかいかれ赴任ふにんしてるまでの、師範役しはんやくであったが、巨星巌流きょせいがんりゅうのひかりに孫四郎まごしろう存在そんざいは、いつかるかきかになってしまった。
小次郎こじろうは、忠利公ただとしこうねがって、
孫四郎殿まごしろうどのをも、なにとぞ、お見捨みすてなきように。地味じみ剣法けんぽうにはございますが、それがしなど若年じゃくねんけんよりも、どこかに一日いちじつちょうもあるようにぞんじますれば」
と、称揚しょうようして、指南しなん勤務きんむも、氏家孫四郎うじいえまごしろうと、隔日かくじつということに、かれくちから提議ていぎした。
また。あるとき
小次郎こじろうは、孫四郎まごしろうけんを、地味じみなれど一日いちじつちょうがあるという。孫四郎まごしろうは、小次郎こじろう刀法とうほうを、所詮しょせん自分じぶんなどのおよばぬ天禀てんぴん名手めいしゅという。いずれがしかるか、いちど手合てあわせしてみい」
と、忠利ただとしのことばに、
「かしこまってござりまする」
いなやなく、双方そうほう木剣ぼっけんって、君前くんぜんでたたかったおりに――小次郎こじろうて、
おそりました」
と、さき木剣ぼっけんいて、孫四郎まごしろう足下あしもとし、孫四郎まごしろうもまたあわてて、
「いや、御謙遜ごけんそん所詮しょせん、てまえなどのてきたる其許そこもとではござらぬ」
と、たがいに、ちをゆずりったことなどもあった。
こうした事々ことごとが、いよいよ、
「さすがは、巌流先生がんりゅうせんせい
「おえらいもの」
おくゆかしい」
そこれぬおかたじゃ」
と、しゅう信望しんぼうをあつめて、いまではかれが、隔日かくじつに、馬上七名ばじょうななめいともやりたせて登城とじょう途中とちゅうでも、その姿すがたあおものは、わざわざでも馬前ばぜんってて、れいほどこしてゆくくらい、尊敬そんけいまとになっていた。
――だが。
それほどな、寛度かんどを、氏家孫四郎うじいえまごしろうしめかれも、ひとたび、
(――武蔵むさし近頃ちかごろは)
と、不用意ふよういにかたわらのものが、宮本みやもととか武蔵むさしとかをくちにして、その近畿きんき東国とうごくにおける世評せひょうのよいことをつたえると、
(ああ、武蔵むさしか)
と、巌流がんりゅう語気ごきはたちまちひややかなる狭小人きょうしょうにん陰口かげぐちたものとなり、
(あれも、近頃ちかごろは、小賢こざかしくにもられ、二刀流にとうりゅうとか自称じしょうしておるそうな。元来がんらい器用きようちからのあるおとこで、京大坂きょうおおさかあたりでは、ちょっとむかえるものもあるまいからな)
などと、誹謗ひぼうするともつかず、めるともつかず、その顔色かおいろにもなにすまいとするものをおさえていうのがつねであった。